くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「恋の罪」「アントキノイノチ」

恋の罪

恋の罪
今年の不作の日本映画の中でようやく園子温監督の大傑作に出会った。前作「冷たい熱帯魚」同様、実際にあった事件を元にオリジナル脚本を書いて描かれる今回の物語は女の恋、愛の情念。それも真実の恋を求めながら一方で自分の肉体の欲望との混乱、交錯に狂っていく女の物語として完成されている。

いきなり主人公刑事吉田和子に扮した水野美紀がシャワールームでセックスをしている大胆なシーンに始まる。しかし、ガラス越しに彼女が映されるが背後から迫っている男の姿は映さない。そこへ携帯が鳴る。事件発生の連絡にセックスの途中で飛び出す主人公。

この作品、水、雨が常に情念のドラマの場面に頻繁に登場する。というか、雨が降っていたり、雨漏りによって雨だれがふりかかっていたり、という場面背景の元に女の性が語られていくのである。それは濡れるということに様々な意味合いを埋め込んだモチーフとしての水の存在を利用しているのか、それとも濡れることが惨めな姿になるという描写を増幅させるためか、様々な憶測が頭の中を交錯してしまう。

事件現場に駆けつけた和子はそこで人間の体とマネキンが接合された二つの死体(人間は一人だが)というか物体に出会う。壁には「城」という文字。

こうしてこの和子が事件を追っていく様子が描かれながら一方で有名な作家の妻いずみがしだいにセックスの本能のなかに取り込まれていく姿が描かれ交錯していく。さらにこの和子にも不気味な浮気相手が存在し、ことあるごとに電話をかけてきて変態的なイメージチャットを持ちかけたりし、この和子の心の奥底にある本能的な性の姿を描いていく。

いずみがスーパーでパートを始め、そこによってきた一人の女にスカウトされていかがわしいモデルからAVの世界へ足を踏み込んでいく。そして、夫を愛しながらも自分とセックスさえもしてもらえない不満から本能のままにセックスにのめり込み、本当に求めるものが何か混乱していく姿が描かれるのである。

そして、ある日一人の青年カオルと出会い、それがきっかけで昼は大学の助教授をしながら夜は売春をする美津子と出会う。
そしてこの美津子との出会いからいずみはさらに女の本能のおもむくまま、恋いこがれること、セックスの本当の存在意義を追い求めもがき始める。

美津子が教壇で教える文章の一遍「言葉など覚えなければよかった・・」という言葉がいわゆる、言葉を知ったために本能的に求める愛の姿を見失ってしまったかのような現代の人々の姿を語り、いずみの夫が変質的にスリッパの位置などの形にこだわる姿がすなわち言葉に束縛された人間の姿を別の視点で描いているようにも見える。
そして、「城のまわりを回りながら入れないでいる」という言葉には、真実の愛にたどり着けず、欲望=セックスが恋や愛の証であるのかどうか不確かになった人々の姿を示しているのかも入れません。

サイケデリックなライティング、シャープであるが不気味なほどの影を利用した画面演出が今回の作品でも独特のムードを生み出してくる。

園子温監督ならではのバイタリティあふれる人間として美津子を登場させ、第三者でありながら、女に対する男の視線として登場する若者たちの存在が物語をさらなる深みへと誘ってくれる。

セックスに意味を持たせるためにその対価として金を受け取る行為を強制する美津子に、次第に恋、愛するということとセックスの意味を徐々に具体化し、一体化していく展開が実に巧妙である。

和子も決して女として例外ではないという園子温監督の描き方こそがこの映画を一貫したものとして完成させ、単なる猟奇犯罪事件を追うという陳腐なサスペンス物語にならなかったところが実にみごとなのである。

終盤、デリヘル嬢となったいずみが客からの依頼で出かけた美津子のでかけたところが、その客にチェンジを要求され、かわりにいずみがいってみると自分の夫であったというクライマックスへ進む。ののしりながらもいずみの夫がいままでも美津子とあばら屋でセックスを繰り返し、家庭での姿と正反対のごとく性にくるっていた正体が明らかになるに及んで、今までの自分がなんだったのかと混乱してしまういずみ。

その後、あばら屋に美津子といずみがいき、そこで美津子に迫られながらむしゃぶりつくいずみ。そこへかねてから美津子をつけていた美津子の母がきて美津子を殺す。美津子のそばにいたカオルと美津子の母が遺体をマネキンとつなぎ会わせる。

死体の身元が分かったという知らせに和子が美津子の家に駆けつけると、そこで犯人が美津子の母であるとあかされ、しかもカオルも美津子の母の家で首をつっている。

ひとりになったいずみが夜の町にたち、かつての美津子のごとく毎日を送る姿が映される。いまだに「人間は言葉など知らなければよかった・・」という言葉にこだわる彼女。

作家の男から妻いずみが失踪しているという連絡に和子たちがいく。カーペットにピンクのシミを見つけた和子はそそくさとその場を去る。事件現場にあったピンクのシミであったのか、なぜ和子がそそくさと去ったのか、実は和子の浮気の相手はこの作家だったのか(そういえばホテルで作家が行為の最中に叫ぶ言葉が主人公にかけてきた電話の中にも聞こえたというところが気になる)。

すべて解決した和子が朝食を食べているとゴミの回収車が通り、あわててゴミ袋を持ち追いかける。物語の途中で語られたゴミ回収車を追っていった女がそのまま行方不明にな件を重ね合わせる。

実はこの和子もデリヘルをしていたのかとにおわせるシーンもないわけでもない。いずれにしても、人間の性への欲望が=愛、恋であるのかという境目が不確かになってしまった人間の姿を描いているように思えます。

ゾンビ映画をみたあと、外を歩く人間がゾンビに見えるように、この映画を見たあと外を歩く女性がどことなく卑猥にみえたのは男の雑念でしょうか。

もっと、書くべきことがたくさんあるように思えるのですが、余りに内容が濃すぎて書ききれませんでした。その意味でも傑作であったと思います。

アントキノイノチ
「ヘヴンズストーリー」の瀬々敬久監督作品なので何らかのメッセージが織り込まれた作品なのだろうと思っていたが、なんのことはない、ふつうのドラマである。ラブストーリーとまではいかない人間ドラマであると考えてみた方がラストで泣けるかもしれません。しかも、オリジナリティあふれる映像表現も特になく、岡田将生榮倉奈々のスター映画だととらえてもおかしくなかったかもしれません。

ようするにさだまさしの原作が映像として昇華仕切れていないのか、原作がたいしたことがないのかその辺の結果によるものでしょうか。昨年「ヘヴンズストーリー」で話題になったためにオファーがきて撮った作品なのかもしれない。

引き裂かれた制服にナイフが刺さっていて、「僕は二人の人間を殺した」というせりふから屋根の上に全裸の永島(岡田将生)が座っているショットからタイトル。このファーストシーンでこれはもしかしたらと思っていたが、その後3年後、遺品整理業者に就職することになった永島はそこで、暗い過去をもつゆき(榮倉奈々)と知り合う。

二人の物語を中心に、遺品整理をするシーンの中で一人暮らしで死んでいった人々の生と死を描いて人が生きるということ、死ぬということを問いかけていく。時々永島の学生時代の過去を挿入するが、一方のゆきの過去の物語は彼女が語る言葉だけでしか語られない。

学生時代にいじめに会い、友人を自殺に追い込み、いじめてくる同級生を突き落とそうとする衝動に駆られたあと精神的に壊れてしまう姿を丁寧にフラッシュバックさせて描いているのに、過去にレイプされたために男性に触られることに異常な嫌悪感を持つにいたったゆきの過去のフラッシュバックは一度もない。このアンバランスが作品の展開を非常に貧相なものにする。別に榮倉奈々が襲われるシーンを見たいというのではなく、なぜ、ゆきの過去だけ映像にしないのかということなのだ。二人はほぼ対等にストーリーの展開にかかわってきているにもかかわらずである。

しかも、クライマックス、永島と浜辺で語り合い、「あのときのいのち」を繰り返して「アントキノイノチ」・・・「アントニオ猪木」となることで「元気ですかぁ!」と叫ぶ。これでもう一度生きることができると心の整理がついて永島と別れたのだが、その後、たまたま暴走してきたトラックに轢かれそうになった子供を助けてゆきは死んでしまう。そして、その遺品整理を永島たちがすることになりゆきの部屋でかつての写真などを見て涙ぐむ。さらに助かった女の子が永島のところへ御礼に来る。

結局、二人が歩んできた人生を丁寧に描いてきたのはなんだったのか、遺品整理という仕事のシーンで見せるさまざまな故人のエピソードはなんだったのか、一貫性のないままにどっちつかずになったまま、ラストのお涙頂戴で終わってしまった。悲しいラストで涙ぐむのですが、ちょっと残念な構成のストーリーだった気がします。でもストレートに物語を追い、ストレートにラストシーンで涙ぐむ、ストレートな作品だったのかもしれません。