くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「キャリー」「ヒミズ」

キャリー

「キャリー」
私が今まで見てきた映画の中で青春映画のベストテンに入る大好きな映画、「午前10時の映画祭」で再見する事ができました。

この映画を見て、ブライアン・デ・パルマの大ファンになり、エイミー・アービングのファンになり、シシー・スペイセックのファンになり、ナンシー・アレンのファンになった作品で。もちろんこれがデビュー作である原作のスティーブン・キングのファンになったことは言うまでもありません。

さて、あれから30年以上たって、スレた映画ファンになった今、もう一度見直してあのときの感動を味わえるのか。その確認のための再見でもありましたが、やはり良かった。始めてみたときの感動、わくわく感、切なさをもう一度味わうことができました。

今回見直して、改めてこの映画のすばらしさはブライアン・デ・パルマの卓越した映像演出のみならず、ピーノ・ドナジオの曲のすばらしさにもよることがわかりました。サウンドトラックLPは何十回聞いたかわかりませんが、本当に美しい。ファーストシーンの静かな音楽もさることながら、クライマックス、プロムナイトの場面でのダンスシーンで流れるメロディと歌もすばらしいのです。この映画がたいていの男性映画ファンが青春映画と言う原因はこの美しいメロディにあったのだと思います。

初々しい女子高生といっても、日本の女子高生とちがい、アメリカの場合はかなり成熟した体つきです。彼女たちがバレーボールをしているシーンから映画が始まる。スローモーションの画面と流麗な音楽、そして画面はシャワールームのシーンからキャリーが初潮を迎えるシーンまでが実にうつくしい。

随所に見られるヒッチコック映像へのパルマ監督のこだわりも見え隠れしますが、そのクライマックスのプロムナイトのシーンではブライアン・デ・パルマ監督の映像テクニックが炸裂する。回転するカメラ、スプリットスクリーン、スローモーション、細かいキャリーのクローズアップのショットなど、まだ売り出し中のパルマ監督のぎらぎらした映像がところ狭しと繰り広げられる。

エイミー・アービング扮するスーが仕掛けられたロープを見つける下り、そして、そのスーの姿に先生は勘違いして彼女を外へ押し出すシーン、そのために阻止できたはずのナンシー・アレンがロープを引くのが止められず、惨劇へとつながる皮肉なショットは実に巧妙かつ絶妙。ヒッチコック再来といわれたブライアン・デ・パルマの真骨頂が一気に爆発します。

そして、パイパー・ローリー扮する母親を殺してしまい、いっしょに家ごと没してしまうラストシーンの悲しい切なさが絶品。もちろん、その後のキャリーの墓から手が伸びてスーをつかむエピローグの夢のシーンは知っていたとはいえ、やはりこの遊びは実に楽しい。決して芸術映画ではないよと笑っているブライアン・デ・パルマが目に浮かぶようです。

もちろん、アカデミー賞がどうのこうのという名作ではないけれども、今なお、この映画をホラーというより青春映画の秀作として見ることができる自分に安心しました。やはり見て良かった。

ヒミズ
どろどろするほどの個性的な映像でひたすら男と女の愛の形を描いてきた園子温監督の今回は原作があるとはいえ、15歳の中学生の愛の物語である。さらに、背景に福島の災害をも盛り込んだ物語となって、期待の一本でした。

震災の後の津波で残骸の山となった町が写る。一人の少女茶沢(二階堂ふみ)が画面の中央にたちヴィヨンの詩をつぶやいている。隅にタイトルが写される。なめるようにその荒れた町並みをとらえるカメラは一人の少年住田(染谷将太)にとまる。打ち捨てられた洗濯機の浴槽をあけるとピストルが入っていてそのピストルを取り上げこめかみに当てて引き金を引いて暗転。
物語の本編が始まる。

中学三年生の住田が主人公。家はちょっと大きな池の側の貸しボート屋、父は飲んだくれ、母も男を引っ張り込んでは荒れた生活をしている。池の畔には震災で家を流された人がブルーシートで住んでいて、住田少年と親しく生活している。夜、住田とその住人がマラソンをするシーンから始まる。池の沖には流されてきたような小屋が沈んでいる。

そんな住田のややストーカー的な崇拝者が茶沢という同級生。住田の言葉を集めて自室の壁に貼っている。彼女の母親は娘を殺す道具を作っているような異常な女で父も同様である。裕福な家であるようだが、彼女の部屋にはチェーン錠さえついている異様な家庭なのだ。

この設定こそが園子温ワールドである。しかも園子温ファミリーであるでんでんや吹石満などが脇を固め、住田に執拗なほどにくっついてくる茶沢のやや茶目っ気のある行動の周りを固めている。

例によって、手持ちカメラと細かいカットの連続、ぶつけるような台詞の数々、どつきまわし、殴りあい、泥だらけに汚れるシーン、血みどろになるどろどろしたシーン、効果的に大げさなほどにデフォルメされた音の洪水が画面を爆発させるべき挿入される。

平凡に、ただ、ヒミズモグラの一種)のごとく凡々たる人生がベストであると生きる住田に、ただひたすらこれも平凡な愛の生活を与えようとすがる少女茶沢の姿が本当に初々しいほどに純粋。

父親がでんでん扮するやくざからの借金をする。その金を取り立てにきたやくざから墨だが痛めつけられるのを見た夜野(渡辺哲)はその金を返してやるべく、窪塚洋介扮する妙な男と一緒に薬の売人の男のところから金を奪う。などのエピソードが挿入され、どこかすさんだ映像が作品のムードを作り出す。津波被害であれた町並みや原発に絡んだテレビニュースのショットなどもちりばめられるが、時折「原発被爆してるんじゃないの?」とか「家を流されたと嘆くばかりで自分で何もしない被害者たち」などというドキッとするような台詞が混じるシーはどこか園子温ならではの毒でるかともおもえる。

ある日住田は飲んだくれてやってきた父を殴り殺してしまう。そして自らの人生はここからおまけであるとし、自分の命を絶つ代わりにその命で世の中の役に立とうと包丁を忍ばせた紙袋を持ち、顔中に絵の具を塗りたくり(まさに「気狂いピエロ」)町へでる。

切れておばさんを刺し殺すバスの乗客の青年、歩道橋でたむろするつまらない若者たちに包丁を向けるもことを成し遂げず、とぼとぼ帰る道すがらでんでん扮するやくざに呼び止められ、家まで送ってもらってピストルを洗濯機の中においていかれる。

一方の茶沢はひたすら住田を待ち、寝てもさめても墨田が死んでしまわないかと不安でならない。そして、終盤、池のそばsの住民たちとボート小屋を色とりどりに塗り変え、後は二入だけにと住民たちが去り、そこへ帰ってくる住田。「自首しよう」そういって茶沢は住田に告げ、ろうそくの光の中で口づけをし一夜をあかす。

翌朝、住田は浴槽の中のピストルを持ち池の中へ。数発空に撃って。・・・
目覚めた茶沢はピストルの音にあわてて外へ。そこに住田がいない。池の畔で崩れる茶沢のところに住田が池から上がってくる。そして二人で土手を走りながらマラソンを始める「住田!頑張れ!」と繰り返しながら・・エンディング。

原作があるものなので、「恋の罪」「冷たい熱帯魚」のような犯罪をモチーフにした前二作にくらべてややさめた物語ではあるが、それでもちりばめられるむせ返るような映像の中で繰り広げられる15歳の少年と少女の汚したくないような愛の物語は独特のムードの中で不思議な純粋さと存在感を持って訴えかけてくる。

どこか、原作に夜束縛のある脚本であるようにも見えなくもなく、ちょっとエピソードの羅列がくどいように見えることもあるが、全体としてはやはり園子温ワールドであり、見事なできばえである。個人的には前二作のほうが好きですが、今回も存分に楽しませていただきました。