くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「汽車はふたたび故郷へ」「SHAME」

汽車でふたたび故郷へ

「汽車はふたたび故郷へ」
グルジア共和国の映画ですが、宣伝によれば作りたいものが作れない映画青年の物語かと思いきやこれがなんとも退屈な、それでいてちょっとシュールな映像の映画でした。

映画が始まると一人の女性が車でやってきて、男性が迎える。廃墟のような場所に入るとこれから映画を上映するとのこと。そこで映されるのが花花がブルドーザーなどで押しつぶされたりする画面。

女性が、今一つというような感想を言って去る。

画面が変わるとこの三人の子供時代。学校の帰りにどこかの遺跡で盗みをしたり、いたずらばかりするシーンが語られて、オーバーラップして青年時代へと進んでいく。

普通の展開だなと思っていたのですが、主人公らしい青年ニコは映画監督となり映画を撮っている。しかし本国では監視や検閲がうるさくて全く映画を撮れないような描写が続き、フランスへ。しかしそこでも今一つ自由がない。自分の作った映画に文句ばかり唱えるプロデューサーたち。このプロデューサーが高齢者ばかりというのも意味があるのかと思うが、結局別の意味でニコの映画に自由がないと言うのが映されるのである。

しかし、そんな様子も主人公ニコの不満な姿ばかりが描写されて、これと言ったせりふも語らないのでただすねているようにしか見えない。なにが気に入らないのか全く不明のまま物語が進む。しかも、カメラはほとんど据え付けでワンシーンが長く、淡々ととらえていくのでさらに退屈になってきます。このオタール・イオセリアーニ監督はクローズアップや切り替えしは映画ではないという信念を持っているようで常に振るショットですえつけた映像で俳優を捕らえていく。
終盤、人魚が顔を出し、なにやらシュールなイメージへと物語は進んでいくあたりからさらに不可解になってくる。

フランスで映画を撮った後、それもうまくいかず本国へ戻る。そこで野外のパーティの席、近くの水たまりの池でニコらがつりをするが人魚が現れニコをつれて水の中へ。そのまま潜っていって映画が終わる。

結局、なにがどうといえるわけもなくしんどかった。長回しのシーンも途中でフィルムが途切れたのかぷつりと途切れるカットもあり、それでもさりげなく続いて撮影するという監督のこだわりか無頓着さもイオセリアーニ監督の主義であると見える。いわゆる監督自身の半自伝的な物語なので、かなり主観が混じりプライベート映像のようなイメージが入り込んだために観客に伝わりきれないところがあったのだと思う。そのためにニコのせりふが極端に少なかったのかもしれないと推測します。

映像にリズムは大切だと監督は語っていますが、そのリズムがうまく生み出されなかったのかもしれません。この監督の他の作品も見てみたいですが、見る機会があるか不明なのが残念です。

「SHAMEーシェイムー」
これはなかなかの秀作でした。カメラワークが抜群に美しくて艶やかであるし、延々ととらえる長回しと短いカットの編集の緩急が見事。これはもう監督の映像センスによるもの以外にありません。しかも、背後に流れる静かなピアノの曲やチクタクと鳴る時計の音の効果、さらにはフルコーラスでキャリー・マリガンに歌わせる「ニューヨークニューヨーク」の意味深な挿入など音楽のセンスも抜群。写真家で彫刻家でもあるスティーヴ・マックィーンという監督の卓越した才能をまざまざと見せつけられました。

映画が始まると横長の画面に真上からベッドの上でシーツ一枚をきて横たわる主人公ブランドンのカット。さっとシーツがはがれるとタイトル。カチカチという時計のような音をバックに細かいカットと繰り返しでブランドンが電話の留守電を聞き、商売女とSEXをし、地下鉄で女性を見つめるショットが描かれる。この女性を追いかけ湯とするが見失ってすごすごと地下鉄へ。この導入部だけで一気に作品に引き込まれてしまう。

ある日上司と飲んで誘った女性と路上でSEXをして帰ってみると部屋の中に音楽が聞こえる。そっとシャワールームへ飛び込むとなんと全裸(当然ですが)でシャワーを浴びる妹のシシー(キャリー・マリガン)。この初登場で惜しげもなく体を見せる演出の妙味とそれに答えるキャリー・マリガンの意気込みに度肝を抜かれる。

一人でアダルトサイトを見たり、トイレで自慰をする主人公のカットが何度か挿入され、突然やってきた妹との同居生活が始まる。しかし、カメラはこの二人の生活をとらえるのではなくほとんど主人公のSEXへの異常な傾倒をつづっていく。シシーと上司がSEXしている部屋にいたたまれず夜のジョギングへでる主人公。延々と彼の走る姿を横からとらえるカメラの美しいこと。これほどの長回しにも退屈しない演出の工夫はどこにあるのかと思ってしまう。

さらに、会社の黒人の同僚とのデートシーンで夜の町を歩くときの長回しキャリー・マリガンが”ニューヨーク・ニューヨーク”を歌うシーンで顔のアップを延々ととらえる画面なども決してだれることがないのはその前後に入れるカットの絶妙の緩急のバランスがなせる技である。

おそらくブランドンとシシーの間には何らかの関係がある。その微妙な感覚が画面から漂ってくる艶としたムードと入り混じって実に美しくもなまめかしい。

そして、終盤、耐えられなくなったブランドンが二人の女性と狂ったようにSEXをし、そのあげく地下鉄に乗っていると前方で飛び込みでもあったか緊急停車。胸騒ぎを覚えたブランドンが自宅に帰ると手首を切って血塗れのシシーが横たわっている。泣きじゃくりながら抱きしめ、病院で一命を取り留めたものの、どうしようもなく雨の中泣き崩れるブランドンが何とも痛々しい。

そして、地下鉄。冒頭で見つめていた人妻がらしい女性が装いを変えて今度はブランドンを誘っているかのようで、手すりを握って、主人公ブランドンがたつのかたたないのかわからないショットで暗転。

夜の町で電話をするシーンでのマジックミラーによるゆがんだ映像や会社でのガラスのしきりを利用したモダンなシーンなど細かい映像テクニックもさりげなく用いるこのスティーヴ・マックィーン監督の感性もすばらしい。

おそらく、アイルランドからでてきたこの兄と妹は苦渋の末に現在の立場になったのだろう。その中で二人はそれぞれがそれぞれを慈しんできたのかもしれない。その中で妹は兄を兄は妹を兄弟以上の感情で見るようになったのだろう。その微妙な背景さえも行間に漂ってくるこの作品のなんとも危険で妖艶な魅力に引き込まれてしまいました。