「夢二」
鈴木清順監督の浪漫三部作と呼ばれる三本のうちの最後の一本である。残念ながら見逃していた映画を今回ニュープリント上映ということで見る機会がありました。
鈴木清順の美的センスと映像感覚が炸裂し、陶酔間に浸る不思議なムード満載の秀作でした。
独特の女性画でファンの多い竹久夢二がその本当に美しいものを追求し、探求し続ける果てにさらにその極限を見いだせないもどかしさを心象風景を映像に描きつつ綴っていく物語はまさに映像美の極致といえます。
主人公竹久夢二が紙風船の飛び交う中を飛び出してくるところから映画が始まる。何かを追い求めるように飛び出した彼の前に向こうを向いた女性の姿。その女性の顔を見てやるという彼の叫びがここからの物語をどんどん発展させていく。
金沢へ旅立ち、彼を追ってくる駆け落ち相手の女性彦乃を待つ。金沢で耳にした地元の富豪の主人と妻の物語に絡み、竹久夢二が求める美学の象徴としての物語が絡んでくる。
本物の女性の美を求め、さすらい、その発見にたどりつかないもどかしさからくる恐怖さえも様々な出来事に具体化させていく展開のシュールな味わいこそがこの映画の見応えと呼べる。
例によって鈴木清順の色彩感覚と映像のお遊びが炸裂する。ちょっとお遊びがすぎてやや退屈なテンポになっていないともいえませんが、現実か心象風景か、リアルな出来事か空想の出来事か、いりみだれるストーリーと映像、そして竹久夢二の叫びが頂点に達するラスト。ススキの中で「待っている女は来ませんよ」と問いかける。
宵待草のメロディが彼のただひたすら求めた本当の美への探求心がすべて語られているかのようです。ストーリーを具体的におっていけないのですが、時間と空間が交錯する現実と非現実の狭間の物語に酔いしれてしまう映画でした。
「陽炎座」
浪漫三部作の二作目で、始めてみたときは「ツィゴイネルワイゼン」の直後でそれほど感銘を受けた覚えがなかったので、はたして30年あまりたってどれほど感じ方が変わったかが一番気になる一本でした。
今回見直してみて、始めてみたときの退屈だった原因がわかった気がします。後半から終盤が非常にくどいのです。特に子供劇が演じられるあたりからそれまでの絵画のような色彩映像からどんどんエスカレートして色の氾濫に変わっていく。もちろんこれが鈴木清順の映像美の世界なのかもしれませんが、完全にタッチが変わってしまうために前半と後半の二つの別物にさえ見えてしまう余計に長く感じてしまうのです。もう少しコンパクトにまとめればさらに傑作になっていたような気がします。
いきなり始まる物語はほうずきを口に含んでいる女性と主人公松崎との出会い。抑え気味の色彩で捉える背景の中にオレンジのほうずきが浮き上がるように画面を彩る演出のすばらしさはさすがに色彩へのこだわりが光る鈴木清順監督ならではの魅力ですね。
そして、ジャンプカットを多用したぶちきられたような画面の組み合わせで綴る編集演出の醍醐味はこれこそが鈴木清順の独創性と呼べる魅力のひとつで、シュールかつ怪異なムードをかもし出していく展開がまさに泉鏡花原作の伝奇小説の映像化の面白さでもあります。
品子とイネのどこか物の怪のような二人の女性の登場、そしてそのどちらともなく惹かれ情交を繰り返す主人公松崎のとぼけたような存在感、そこに絡んでくる玉脇の不気味さがなんともいえない映像美の中でどんどん引き込まれていきます。
夢か現実化、生きているのか死んでいるのか、その混沌とした境目の中を彷徨するようにさまよう主人公松崎のもがく姿が鈴木清順ならではの感性でスクリーンに表現されていく映像芸術はまるでひとつの絵画のごとく二時間あまりを完走していく。
こういうまさしく映像という表現のみでストーリーを進めていく作品は物語を具体的に語ることの意味をなさない。これこそが映画の原点ともいえるマジックであり、それを鈴木清順がイメージとしてひとつの作品として昇華させた動く芸術であると思うのです。ちょっと長いといえなくもないというのは冒頭でも書いたのですが、それでも他の人がなしえない卓越した才能が生み出した映画という芸術であると思いました。