くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「預言者」「あ、春」

預言者

預言者
2010年のフランス映画祭で公開され、カンヌ映画祭グランプリなど数々の映画祭で絶賛された作品である。監督はジャック・オーディアール

真っ暗な画面、懐中電灯で照らしたような光の中にクレジットが現れて映画が始まる。タイトルが終わると1人のアラブ系青年マリク。これから中央刑務所へ収監される。

刑務所内ではコルシカマフィアが勢力を持ち、牛耳っているのはセザールという男である。セザールに目を付けられたマリクは保護と引き替えに1人の男を殺すよう命じられる。
なんとか殺人をこなしたマリクはセザールに取り入り、自らコルシカ語をマスターし次第に右腕となっていく。

刑務所内という限られた空間で繰り広げられる物語をオーディアール監督は時に手持ちカメラを駆使し、接近したカメラアングルでぐいぐいと訴えていく演出は緊迫感と迫力に満ちている。アラブ人とコルシカ人を中心にした勢力争いの構図を庭で行き来する囚人たちの視線で語らせ、自然と集団を組む姿でその勢力関係を語っていく。

一年が過ぎ、すっかりセザールに信用されたマリクはある日外出許可をもらってある取引をしてくるようにセザールに依頼される。コルシカマフィアのメンバーが敵対するメンバーに拉致されその男を取り返すべく捨て身の仕事だったが、見事にやり遂げたマリクはさらに信頼を得ていく。

しかし、マリクにはさらなる野望があった。外で暮らすマリクの友人リヤドはガンで余命わずかである。出所後の生活のためにその男と連絡を取り合い麻薬売買を営み始める。その商売にセザールの力を利用していくのだ。

マリクには時に幻覚のような男が背後に現れるようになり、庭で散歩する囚人の行動や雪が降ってくるなどの気候の変化などが何気なく予知できるようになる。これが題名の「預言者」の由来だろうが、これがさらに飛躍するという物でもなく、いわゆる彼の野望の視覚化ではないかと思う。

次第にコルシカ人の囚人も減ってくる中でセザールの力を維持するためにアラブ系囚人にも取り込むように進めるマリクだが、実はこれは自分がアラブ系囚人に取り入っていくための手段であった。まんまとアラブ系の囚人ともコネクションをとったマリクは、ある日セザールから大仕事を依頼される。

それは次の外出許可でセザールのボスを亡きものにし、セザールがその組織のトップへの上ろうとする手助けをするための段取りを組むという物である。しかし、セザールが用意した男は性格がよくないとマリクの友人リヤドにいわれ、勝手に計画を変更し、友人とマリクだけでセザールのボスを襲う。しかし、殺しはせず、セザールの命令であると密告し、刑務所内でコルシカマフィアの内部抗争を起こさせる。

戻るのにわざと遅刻したマリクは懲罰房で40日間を過ごし、その間にセザールの部下たちは次々と殺されていく。

庭で1人座るセザール。やがて懲罰房をでたマリクがアラブ系囚人の集団とともにやってくる。セザールがよぶがこたえず、近づいてくるセザールをアラブ系囚人の部下に殴らせて引き下がらせる。自分が新しい権力を得たのだ。

一方リヤドはガンで死んで、残された妻と子供が出所してきたマリクを迎える。マリクの後ろには外の組織のたくさんの部下の車が続いていてエンディングである。

骨太のフィルムノワールである。ストーリーの組立が実に鮮やかで、主人公マリクが次第に力を得ていく展開は息詰まる緊張感がある。

一見、カメラ演出にテクニックを駆使していないようだが、格闘シーンや殺戮シーン、外での敵対集団との取引のシーンは非常に細かなカットつなぎで緊張感を最大限に高めていく。息苦しいほどのストーリー展開と緊迫感が全編を覆っているにも関わらず、友人リヤドの妻と子供が出迎えるラストシーンにはふっと暖かいものが見え、単なる裏社会の物語に終始させない組立は見事でした。

確かに、一般公開されにくい暗さがあるのは事実で、しかも余りなじみのないヨーロッパマフィアの抗争を中心に据えた物語ですが、見応えのある優れた映画であったと思います。

「あ、春」
一匹の猫がフレームインして、一見の家に入っていく。庭が広く、その隅の犬小屋に金網をつけた鶏小屋に鶏が飼われている。そこへ猫がやってきてタイトル。この日はこの家でお葬式の真っ最中。お経の音と、家族と坊さんのショットが続く。

のどかすぎるファーストシーンに思わずいやされながら引き込まれる導入部です。相米慎二ならではの長回しも今回は非常にゆっくりとしたリズムを作品全体に生み出していく。

主人公紘は両家の娘瑞穂と結婚しこの家に瑞穂の母と暮らしている。子供は男の子が1人。紘は証券会社のサラリーマンという平凡そのものである。しかも紘の生まれはどうやら田舎町らしく鶏を飼うのが好きという設定からその子供時代が想像できるという見事なショットです。

ある会社帰り、浮浪者のような格好の1人の男に声をかけられる。自分は紘が五歳の時にでていった父笹一であると告げる。死んだと知らされていた紘は戸惑うが、仕方なくとりあえずその日は家に泊める。

こうして、どこかのどかで、どこか悲日常のようで、どこかいやされるようなお話が始まります。

結局、最後はこの笹一が死んでしまってエンディングですが、紘の母で今は兄に世話になっている元妻の公代や笹一がでていって尼崎で住んでいるころに世話をした女千鶴子、さらに瑞穂の母郁子との男と女の微妙でのどかな心の交流が何ともいえないムードで作品の中に流れていくのが実に心地よいです。

一見、笹一をいみきらっている周りの人たちですが、関わっていくうちになぜかつながっていって、他人と思えないような絆ができあがっていく下りの展開が本当にほのぼのしています。

物語の終盤に紘の会社が倒産し普通ならストーリー展開が暗くなるのですが、笹一が現れ、それぞれの家族が振り回されながらもそのことに関わらざるを得なくなっている状況が作られているため、最悪の状況がさらりと交わされていく。この物語の組み立てのうまさはなかなかのものだと思います。
そして、笹一が死んだ時、ベッドの布団をはがすとなんと自分の体温で卵がひよこにかえっているというユーモアあふれるエピソードから散骨にいたるラストシーンへと流れる展開は見事なもので、笹一の骨を散骨するのにかつての三人の女が船に乗り込み、紘と瑞穂も会社倒産という不幸に見舞われていながらもこれからの生活に何とかなると励ましあってエンディングです。

平凡な毎日に突然現れる笹一のキャラクターがストーリーを見事にかき回しながらもどの出来事もしつこくなく、癒されるほどに温かみがある。それゆえに、ラスト、鳥小屋にペンキを塗る子供、それを見る祖母、縁側を見下ろすカメラアングルとこいのぼりというなんともいえないショットが本当に和まされる感じがするのです。

相米慎二監督の演出はこのあたりに来るとかなり角が取れて無難な一種の完成の域に達した感が伺えますが、冒頭の猫のシーンやホームレスと笹一とのエピソードなどファンタジックな演出は健在で、その魅力に魅了される一本だった気がします。