くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ローマ法王の休日」「The Lady アウンサンスーチー ひき

ローマ法王の休日

ローマ法王の休日
「息子の部屋」のナンノ・モレッティ監督作品で、何とも不思議な作品でした。

ローマ法王崩御され次の法王を選ぶべく枢機卿たちが集まってくるところから映画が始まる。次の法王を待ち望む民衆が、つい何年か前に現実にもおこなわれたコンクラーベという儀式を見つめている。

自分が選ばれないようにと祈る枢機卿たちの姿を映してややコミカルな展開が描かれるが、なぜか突然、本命に名を連ねていなかったメルヴィル枢機卿が次期法王へと選ばれる。そして、人々の前で挨拶をする直前、突然中に引っ込んでしまい閉じこもってしまう。外の世界からセラピストを呼ぶが解決することはなく、ほんのわずか外へ連れ出した隙にメルヴィルは脱走し3日間行方不明になる。

ローマ法王庁の中では外に漏れないように様々なことが行われ、帰れなくなったセラピストは枢機卿たちとカードをしたり、しまいにはバレーボール大会まで企画。このあたりからこの作品が一種の寓話であるというムードが漂ってくる。

現実にローマ法王庁の裏は一般には全く知られていないし、まさに秘密の世界である。そこをナンノ・モレッティ監督は想像を駆使し、さらに法王に選ばれた人物を一人の人間として描くことから物語を始めるが、さらに大陸の名前のチームを与えたバレーボール大会を描いて結局、決勝戦まですすむこともない。なぜかメルヴィルはかつて演劇を志したこともあるという描写もあり、観劇をしているメルヴィル枢機卿たちが本来厳禁である外出をして連れ戻す。

あきらめたメルヴィル法王庁に戻り、そして人々の前にたつが「私はこの任をこなすものではなく、人々を導くものではない」と語って暗転して終わる。

予想されていなかった法王が選ばれたのは神の仕業か。そして、その選ばれた法王が人々に語った言葉こそ、神が伝えたいめっせーじではないのか。

拠り所を求める人々の希望を打ち砕く形でエンディングを迎えるこの作品の意図はなんなのか。精神的なテーマ、社会的なテーマ、それとも、現代社会への風刺、皮肉。突然暗転するエンディングの裏に潜む監督たちの意図を考えると不思議な気持ちに包まれてしまう。

一見「ローマの休日」をもじったコメディであるかに思えた作品でしたが、見終わってみるとかなりシリアスなテーマが潜んでいるように見えた。これは一つの寓話だったのだろう。


「The Lady アウサンスーチーひき裂かれた愛」
どうも伝記映画というのは苦手なのですがさすがリュック・ベッソン、久しぶりの監督作品とはいえ映像にリズムを生む手腕はまだまだ衰えていなかった。素直に一人の女性の半生のドラマに感動してしまいました。すばらしかった。

軟禁されているスーチーの姿とイギリスオックスフォードでの夫マイケル・アリスの苦悩の姿を見事なテンポでショットを切り替えて繋いでいく演出はみごとなものである。そしてそこに生み出される映像のリズムは一人の女性の激動の生きざまを叙述に私たちに訴えてくる。これが映像としてのストーリーテリングの醍醐味である。

もちろん、いくら実話に基づくとはいえ、映画として作られる時点ではすでにフィクションになっている。さらにまだまだ十分な情報が手に入らないミヤンマーの現状の中では可能な限り事実を元にしても推測の部分が存在する。そこを埋め合わせるのがスタッフや俳優たちの手腕だと思うし、リュック・ベッソンにせよ、主演をしたミッシェル・ヨーも見事にその力を発揮したと思う。だから力強い映像のリズムがアウサンスーチーという指導者をストレートに私たちに語りかけてきたのだと思う。

さらにこの作品の優れているのは彼女の生活の背後にある家族の物語にも丁寧に描いている点である。しかも、本題であるミヤンマーでの物語の根幹を決して妨げない配分になっているのがすばらしい。これは脚本のなせるわざであろう。

一人の幼い女の子が軍服を着た父に抱かれている。時は1947年。女の子はのちのアウサンスーチー、話している男性はビルマ民主独立の立役者であるアウサン将軍である。

娘に別れを告げて車に乗り仕事に向かう。不穏な男たちが一人また一人と集まってくる。このあたりの演出はリュック・ベッソンお得意のシーンであろう。そして、アウサン将軍がリーダーとなっている会議室へ男たちがなだれ込んで、一気に将軍を銃殺。

時は1998年、オックスフォード。マイケル・アリスが病院でガンの宣告を受ける。しかし、妻はミヤンマーにいる。今、彼女が出国はできないと双子の兄に語る。

そして1988年にさかのぼり、アウサンスーチーの暖かいイギリスでの生活が映され、ミヤンマーの母の危篤の知らせにスーチーは一人ミヤンマーへ。そこは軍事独裁政権のもと弾圧が繰り返されている。

こうして、一人の女性アウサンスーチーの激動の物語が幕を開けるのである。この導入部のシーンがシンプルでこれからのすべてを的確に紹介している。脚本のうまさといい、演出のうまさというのはこういうところにでます。

そして、かつての英雄の娘であるアウサンスーチーが地元の民主政治をすすめる学者や学生たちに慕われ、一方でミヤンマーの現実を目の当たりにしたスーチーは父の意志を継ぐべく立ち上がる。当然軍事政府の弾圧が強くなり、誰もが知る軟禁生活に物語は流れていくが、その背後に夫マイケルの献身的な応援、努力もきっちりと描いていく。そのために先進国が描く途上国の姿というような偏った展開にならずに非常にまじめな物語として語られていくのである。

ノーベル賞受賞に至る経緯、軟禁状態が緩和される経緯なども一つ一つわかる範囲の史実を元に丁寧に映像として挿入していく。このあたりのバランスがさすがに演出者の力量を見せつけられます。

そして、夫が死に、それでもまだまだ完全な自由がないままにさらなる決意の中ですすむアウサンスーチーの姿でエンディング。いまだ、完全な民主化はなされずというエピローグのテロップとともにタイトルである。

もちろん、英雄としてアウサンスーチーを描いているのであるが、それが一方的なヒーロー像ではなく、一人の母として、夫として涙する場面が至る所に存在する。どちらかというと政治活動に奔走するシーンよりも回数は多いかもしれない。それが題名の「The Lady」の意味するところであり、そこがこの映画の人間ドラマとしての完成度が高い理由であるのかと思います。

そして、巧みな編集は単調になりがちな物語をドラマティックな展開に組み直している。あくまで商業映画なのだからこれは必修である。このあたりの配分がさすがにリュック・ベッソンではないか。最近、製作側にたつことが多くなったが、もっともっとリュック・ベッソンの映画を見てみたい気がします。いい映画でした。