くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「バチカンで逢いましょう」「祖谷物語 おくのひと」

バチカンで逢いましょう

バチカンで逢いましょう」
それほど期待もしていなかったのですが、これは掘り出し物の一本でした。
ヨーロピアンコメディの秀作です。

ストーリー展開のテンポが実にいい。台詞の応酬のリズム感も、エピソードの組立もとっても楽しい。笑いながら、どこかどんどん引きこまれて、それでいて、いつの間にか人間のドラマがちゃんと伝わってくる。ラストは、思わず涙が流れたりして、すばらしい作品でした。

荒野で主人公マルガレーテが、亡き主人の遺灰を自分のロケットにそっといれ、「バチカンローマ法王に逢って、許しを交うてくる」とつぶやいて立ち上がる。タイトル。背後の音楽がとってもリズムよくこのファーストシーンを彩ります。

マルガレーテは、家族からオマ(おばあちゃん)と呼ばれて、孫たちからも慕われている。しかし、場面が変わると娘のマリーが、オマの家を処分し、引っ越していくシーンへ。オマには老人ホームのようなところに移ってもらう手はずになっている。

しかし、新しいマリーの家で、納得のいかないオマは一人イタリアへ旅立つ。

物語は、イタリアにすむ孫娘で、まじめに生活しているはずのマルティナを頼って行くが、マルティナはロック歌手のシルヴィオと同棲していて、あわてるマルティナのシーンへ、ストーリーは小気味良く展開していく。

細かいエピソードの数々が、とっても楽しくちりばめられているのが、この作品の最大の特徴す。
続く、ローマ法王に逢うために並ぶオマのそばに、盲目の紳士ロレンツォが現れ、先頭に並ぶが、実は彼は目が見えているという場面が、続くベスパで走り去るのを目撃して見つかる。

ロレンツォのいとこのディーノは、レストランをしているが、それがまたはやっていなくて、たまたまオマがそこへ立ち寄り、料理の腕を振るうというエピソードから、それぞれの人物が見事に絡み合ってくる。

大勢の謁見の場で、マリーから送られた刺激スプレーを法王に誤ってかけてしまったオマは、一躍新聞沙汰になる。それをロレンツォが助け、一方、カナダからマリーが飛んでやってくる。

ぽんぽんとエピソードがエピソードを生んでいく下りのおもしろさに、スクリーンに釘付けになるのです。

ロレンツォはオマと疑似結婚をすれば、新婚を祝福する法王に会えるということで、そんな画策もするが、すんでのところでオマが逃げる。このあたりから、冒頭の、オマが法王に会う理由が気になり始めるというサスペンスへ。

マリーが駆けつけ、オマはマリーに実は、一夜の過ちでできたのがマリーで、今まで父親だと思っていたのは本当の父ではないという真相が発覚。物語はクライマックスへ。

一度は、恋人シルヴィオに裏切られ、破綻しかけたマルティナだが、それもさらりとハッピーエンドへ。ロレンツォの計らいで、オマの料理をローマ法王に提供することになり、カナダへ戻る前に、マリーやマルティナも加わる大奮闘の末、オマはローマ法王に直接お礼を言われ、祝福される。

オマとマルティナはローマに残ることになり、ロレンツォとも仲が戻り、マリーが帰ろうとすると、夫がローマまで出迎えてくる。

なにもかもがハッピーエンドに締めくくられて暗転、エンディング。人間て本当にすbらしい生き物だと、思わず拍手してしまいそうになります。映像とストーリーのリズム感にすっかりノリノリになる一本で、本当にすばらしい、とってもハートフルな秀作でした。


「祖谷物語 おくのひと」
久しぶりに、35ミリフィルムの質感による美しい映像を堪能することができました。
かつては、こういう奥の深い映像に出くわすことが多かったのですが、デジタルになってからは非常に平坦な映像になってしまったのが本当に残念。その意味でも、この作品の存在価値、見た甲斐があったというものでした。

舞落ちる雪を、下からとらえる画面から映画が始まる。そのカメラの先にあるほこらから、一人の蓑と笠をかぶった老人が降りてくる。祖谷の山奥で一人生活するこの老人は、ある日、崖を落ちて事故を起こした車を見つけるのです。

フロントガラスから女の人が飛び出し、カメラがその先を老人の視線で探していくと、河原の雪の上に、女の赤ん坊がいる。何とも、ファンタジックな導入部に引き込まれる。老人はその赤ん坊を抱き上げ、タイトル。おとぎ話のような導入部です。

時は経って、女の子は春菜と名付けられ、高校生になって、お爺と二人で暮らしている。

近くに、かかしのような等身大の人形を所狭しとつくっている、一人暮らしの老婆などのシーンもあり、どこかファンタジックに展開していく。どのシーンも、フィルムならではの質感のみならず、光を意識した画面づくりがとにかく美しい。

一人の若者が、この村にやってくる。行き倒れる寸前に、村の若者に拾われ、春菜の家で食事をし、春菜たちの仕事を少し手伝ううちに、農業を始める。

村では、トンネル工事にたいして、自然破壊だと訴える外国人団体などがいるし、一方で、学校を出たら、都会へでていこうとする若者がいる。

過疎がどんどん進む祖谷の山深い村の現代が、美しい映像と、お爺と春菜の家の古風なたたずまいとが交錯して、自然をしっかりと見つめたカメラで描かれていくのである。

しかし、お爺も年をとり、みるみる弱っていく。人形を作っていた老婆も、やがて一人寂しく死んでいく。餌のない鹿などが、せっかくの農作物を荒らし、対処するために村人たちは鹿撃ちに出かけたりもする。

やがて、お爺はふらふらと冬山にさまよいでたりし始める。必死で世話をする春菜。ある夜、お爺と添い寝をしていたが、目覚めるとお爺がいない。老婆が作っていた人形が夜中に動き出し、バスに一体乗り、人形たちが田畑を耕したりする。

春菜は雪深い山に入っていくが、力つきたところに車が通りかかり乗るのだが、その車は崖から落ちて、目覚めると、冒頭に乗っていた車。はいでて、お爺を呼ぶが答えもなく、やがて意識が薄れると目覚めたら、都会で生活する春菜へと映像がジャンプする。

何度か、ファンタジックな演出が見られたので、この終盤は特に驚かなかったが、ここからしばらく続く都会のシーンが、やや間延びする。

社会人となり、研究をする春菜。しかし、その研究は中止になり、完成したマリモのようなものを川に流す。そこで、流れ着いた人魚を見つけ、それを持って、村に帰ってきて、幼なじみの旅館で宴会に参加し、気がつくと、お客はみんな眠っていて、そのまま春菜はかつての自宅へと山を登る。そして、そこで、かつて都会からきて、この村に居着いた若者が畑にいるのを見つける。そして「お爺」とつぶやいて、カメラは空撮となって、大きく引いてエンディング。

三時間ほどある作品ですが、祖谷の村の自然の景色がとにかく美しいので、飽きることはありません。しかし、構図が美しいかというと、それは別問題で、確かに、光を意識し、フィルムの利点を最大に利用した画面は見事ですが、構図はそれほど特筆するほどでも亡かったですね。

全体が、ファンタジーのような映像詩的な演出が徹底され、お爺は全くせりふを語らない。春菜が何の疑問もなく社会人にまで成長するという矛盾も無視し、非現実な世界、かけ離れた世界として祖谷の村をとらえているという感じです。

優れた作品で、一見の値打ちは十分にある一本だったと思います。