「香華」
有吉佐和子原作の作品であるが、さすがにここまで完成度が高いと言葉がでない。七色に変化するようなカメラアングルのすばらしさも冒頭の葬儀の場面から引き込まれてしまう。
同じ有吉佐和子原作の映画では「紀ノ川」が自分のベストテンにはいるが、なんの木下恵介の映像演出、場面から場面の転換の美しさは絶品と呼べる。
二度目の婚礼で郁代の嫁入りの人力車が動き出す。こちらへ向かってやってくる車がカメラの手前で左に回る立体感ある動きのあるカメラワークの見事さ。いつものように見上げるような俯瞰でとる叙情的なショットはこの作品では目立たないが、ゆっくりと左右に流れる動きからズームインアウトを繰り返す奥行きのあるワーキングがこの作品では目立つ。
朋子がつとめるお茶屋での廊下を捉えるショットに多用されるのみならず、人物が歩く姿をワンショットで追いかける場面でも非常に流麗な映像演出となってこの作品を支える。
冒頭にも書いたが、一つ一つのシーンからシーンへの切り替えの流れが実に美しく、なにがどうであると具体的に文章にできないくらいにリズム感が整っている。
物語は主人公朋子の幼い日に始まる。父が亡くなった葬式のシーンが俯瞰で捕らえる行列のショットは圧巻。そして続く母郁代の二度目の婚礼へのストーリー展開を小気味よく語っていき、一気に物語の本筋へ流れていく。
わがまま放題の母に翻弄されながらやがて芸者となるために静岡へ売られていった朋子はそこでどんどん腕を磨きその美貌故に華族の神波にみそめられる。こうして朋子の波乱の生涯が淡々とつづられていくが、緻密なくらいに画面の隅々まで演出が行き届いた画面づくりと俳優たちのほんの一言までこだわったせりふのうまさ、さらに原作の味を残しつつ木下恵介ならではの微に入り細に入った脚本のうまさにもうならされる。
明治から大正、さらに昭和から戦後へと重ねられていく朋子の人生は一方で母親の男好きに翻弄されながらも周囲の人々に頼ることなく力強く生き抜いていく。ラストで自分の入院に駆けつけようとして死んだ母のシーンには思わず涙があふれてしまった。あれだけ子供をいいように利用してきたかに見えた母がつい感情的に飛び出してしまってジープにはねられる最後になる。親子の絆が一瞬で描写されたシーンである。
そして、物語は母の遺骨を和歌山へ納めるべくやってきた朋子が実家で拒否され、仕方なく地元の岡本廊をたずねてそこの主人と和歌の浦の片男波を見下ろすシーンでエンディングである。この寸切りのようなのラストが実にみごとで、「紀ノ川」にみる文芸大作としての名作とはまた一つ違った意味での傑作足り得るゆえんだろうと思う。すばらしい。
「プロメテウス」
少し映画の情報を気にかけている方ならこの作品がかなり以前から企画されていた下手物映画の傑作「エイリアン」の前章の物語であることはご存じだと思う。
「エイリアン」の冒頭でノストロモ号が受信した救難信号によってたどり着いた惑星で化け物におそわれるが、その元となったのが今回の作品の物語だ。
映画が始まると不気味な男が滝に飛び降りる。この作品のキャッチフレーズが「人類誕生の起源・・」などとしているのでやたら高尚で理屈っぽいストーリー展開をしようとしているが行き着くところ下手物映画であるのだ。そのあたりもう少し割り切ったらおもしろい映画になったろうに、おもしろいのだが理屈っぽい。
「ハローディヴィッド」というコンピューターの声に始まる。明らかに「2001年宇宙の旅」へのオマージュだ。声を受けたのがアンドロイドのロボット。冷凍睡眠のクルーたちの監視をしていて孤独。ひとりビデオで語学を学習したり「アラビアのロレンス」を見たりしているシチュエーションも「2001年・・」のボーマン船長と同じである。
まぁ、考えすぎかもしれないが、今回の航海を企画した会社の総帥はまるで「2001年・・」のクライマックスで老人になったボーマン船長のイメージに酷似しているように思えるのは考えすぎだろうか。
たどり着いた星で神とおぼしき生き物に遭遇。その周辺にある筒はまさにエイリアンの卵である。
「エイリアン」の前章としてのストーリーを壮大なスケールで描いた大作であるが結局人類発祥の謎は明らかにされず女航海士エリザベスがその起源の星へ旅立って映画が終わる。といってパート2が作られるには無理があるエンディングにも見える。
確かにおもしろい映画だったが、「エイリアン」を知るものにとっては結局、あのシリーズの一環にしか見えなかった。それならもっと極端な下手物映画に終始してほしかったと思うのは私だけかな。