「舟を編む」
「川の底からこんにちは」の石井祐也監督作品なので期待の一本でした。
辞書を作るという、あまり知らない世界を、さりげなくサスペンスフルに盛り込んで、淡々と静かに進む緩い作品でした。
悪くいえば普通の映画だった気がするし、前半の三分の一がなかなか軽快で、楽しく展開するのですが、中盤からちょっと凡々たる展開に変わっていき、12年後となるクライマックスに至ると、ちょっと物足りない出来映えになってしまったのが、ちょっと残念ですね。
とはいっても、作られる辞書を描写するように、緩やかに流れるストーリーは心地よいし、決して退屈で眠くなることもなかったから良しとしようかな。
改めて、宮崎あおいの演技力のすばらしさを垣間見た気がします。とくに馬締に筆で書いたラブレターをもらって、玄関先で馬締に詰め寄るシーンの台詞のリズムのうまさは絶品。ただ、それ以外の俳優陣があまりにも普通すぎて、演技が生き生きとしてこない。もう少し弾むようなテンポが加わればおもしろい作品に仕上がっていたかもしれませんが、メジャーにはいった石井祐也監督が、ちょっとプレッシャーを感じた結果、無難な作りになったのではないかと思えなくもない。
映画は玄武出版社、今まさに、「大渡海」という辞書を作る作業が進んでいる。ところが、中心になっていたベテランの主任荒木が退職することになり、後任が必要に。そこへ白羽の矢が当てられたのが、うだつの上がらない営業職だった馬締光也。自宅のアパートにはいくつかの部屋を借りて本だらけで、人との関わりが特に苦手な変わり者。こうして物語はこの辞書編纂の話を中心に、普段ふれることのない苦労話を実にコミカルに描いていく。
相棒の西岡が馬締との漫才のような掛け合いをし、馬締は本だらけのレトロなイメージのアパートで、気のいいおばあさんタケと二人きりで暮らしている、という設定がまた楽しい。そこへ、タケの孫娘香具矢がやってきて、馬締くんの恋の物語なども絡んでくる。
とまぁ、てんこ盛りにエピソードが存在するのだが、それぞれが今一つ面白味を生み出せていない。西岡の同姓の彼女麗美ももっと個性的に、おしゃべりに描いてもおもしろかったが、これも普通に描いている。なんと大好きな池脇千鶴だったのがうれしい。
ラストは、無事辞書は完成、監修をお願いしていた加藤剛扮する松本先生が直前に死んでしまうという、ある意味おきまりの大団円となる。
12年後に移ったときに、新人としてやってくるみどりさんも生かし切れておらず、第一、スタートの1995年の世相をさりげなく入れたにも関わらず、辞書づくりのおもしろさの中に盛り込み切れていないところへ、12年後との時の流れによる時代の変化のおもしろさも描ききれなかった。
おそらく、原作はきっちりと描写されているはずのこの物語の骨格が、やや弱くなったのが本当に口惜しいですね。おもしろい題材だし、もっと思い切った映像表現に昇華させてもよかったと思うのですけどね。
といっても、まぁ、最後まで楽しめたのだから、良しとしましょう。
「海と大陸」
南イタリアを舞台に島の家族と難民の母子の心の交流を描いたヴェネチア映画祭審査員特別賞受賞作品。監督はエマヌエーレ・クリアレーゼという人である。
映像が実に美しい。解放感のある海のショットを多用し、水の色と町の色合い、人の服装に至るまでが、くっきりと美しい色調で画面を彩る。さらに、大胆なカメラワークと音を効果的に使用した映像が、物語を引き立たせているのが、この作品のもっとも優れた部分でしょうか。なかなかの秀作に出会いました。
水の中からカメラが水面をとらえる。ごぼごぼという水の音に混じって一隻の船が頭上にやってくる。続いてその船の後ろから魚の網が下ろされてている。カメラが引くと、甲板の舟の一部がクローズアップされる。このオープニングはすごい。
船の上では主人公フィリッポがまっ黄色な合羽を着て船の甲板ではしゃいでいる。祖父と一緒に漁にでてきたのである。
フィリッポの父はいなくて、母ジュリエッタと祖父エルネストと暮らしている。叔父のニーノは漁業に見切りをつけ観光業をしている。最初の数シーンでこの人間関係を実に見事に紹介するのである。
後日、再び祖父と漁にでたフィリッポは難民を目撃、法律では通報のみだが、祖父は漁師の掟で、海に飛び込んだ数人を助ける。それがきっかけで、船は差し押さえられる。その時、一人の妊娠していた難民女性サラを自宅にかくまうことになる。
夏の間、家を宿として、バカンスにきた人に貸すことにしたところへ三人の若者が。その中の一人の女性マウラにほのかな恋心を抱くフィリッポ。物語は地元の漁業の衰退、観光業による生き残り、難民の問題、古い漁師たちと若者たちの感覚のずれなどを描いていくのだが、カメラのアングルも非常に美しい構図を作ってくるので、地味な話が決して退屈しないのです。
フィリッポはマウラを誘って夜の海にボートででると、向こうから大勢の難民が泳いで迫ってくる。このシーンが、暗闇と相まってぞくっとするほどに恐ろしい。必死で振り落として逃げ帰ったフィリッポだが、祖父の言葉や人間としての自分の弱さに耐えられなくなり悩む。
翌日、浜辺で、昨夜の難民たちが流れ着くシーンに背筋が寒くなる。スローモーションで警察につれていかれるのをみるフィリッポの心に、何かが沸々と沸き上がったことは確かである。
そして、この伏線から一気にクライマックスへ流れるのだ。
かくまっていた女性サラと赤ん坊を大陸に逃がすために、祖父たちが車で夜の港へいくが、難民の取り締まりで、とてもフェリーに乗れないと判断しいったん自宅に戻る。しかし、祖父と母が降りたとたん、フィリッポが一人でもう一度飛び出し、差し押さえられていた船に女性たちを乗せて海にでる。カメラが真上からその船をとらえる。周りに広がる波しぶきが実に美しい。そして彼らの行く末を映し出さないままに暗転、エンディング。これが映画である。
冒頭の波のシーンから船上のロープを巻きとる器具のアップ、そして、人のショットと始まり、このあとも実に技巧的なカメラワークをくりかえす。ストーリーテリングのうまさといい、映像演出の妙味といい、映画、映像表現の醍醐味を味わえる見事な一本でした。
「少年」
40年近く前にみたきりで、当時はほとんど印象に残っていなかったが、今回見直してみてそのすばらしさに圧倒されました。少しは鑑賞眼が備わってきたようです。
物語は当たり屋をしながら暮らす家族の物語である。しかし、映像づくりにもその才能を発揮する大島渚の長所が見事に作品に反映されているし、一本筋の通った彼のメッセージも徹底的に映像化されている。その意味で非常にバランスのとれた名作としても、完成されているのである。
いきなり画面のど真ん中に黒い日の丸が映し出され、カットが変わると少年のクローズアップから映画が始まる。そして、シンメトリーな構図で少年が語り始める。この導入部にまずは度肝を抜かれる。
画面の至る所に日の丸を配置した構図は、ややあざといのであるが、それはさておいても、横長のスクリーンの左右のほんの隅に配置した少年や家族と、画面中央にとらえる調度品や障子の模様、町並み、海岸の船の影など見事なほどに芸術的に演出されているから、本当にぐんぐん引き込まれていくのである。
傷病兵として、ことあるごとに戦争の被害者面をして、妻や少年に強く当たる父親の姿は、明らかに戦後、英霊に対する日本人の冷たい視線への強烈なメッセージであり、日の丸をところ狭しと画面に映し込んだり、母親の服が真っ赤で日の丸を想起させたり、その中で、当たり屋という犯罪を繰り返す家族の姿は、戦争による犠牲の上に存在する日本人の悲劇の物語でもあると言いたいかのようだ。
究極は、宇宙人だと、小さな弟に説明する少年が作った雪だるまである。真っ白な姿の中央に真っ赤な長靴を置く。明らかに日の丸の象徴であり、その雪だるまを正義の宇宙人だと豪語する少年の言葉に、大島渚の痛烈な皮肉が見えてくる。
そして、その雪だるまをがむしゃらに少年は壊していくのである。
日本国家とは何なのだ?戦中は軍人をたたえ、戦後は戦犯だと軍人をさげすむ。時代によって正義というものの定義が変わるこの国の矛盾を、恐ろしいまでに芸術的な映像表現で描ききっていく大島渚の真骨頂がこの作品ではないかと思う。
一見、ぐうたらな亭主に仕えるこれまた不良妻と、けなげについていく子供たちのロードムービーのごとくであるが、その裏に背筋が寒くなるほどの皮肉と風刺を織り交ぜたこの作品の恐ろしさに身動きがとれないほどの衝撃を受けました。まさに、傑作である。