くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「パレードへようこそ」「マミーMommy」

kurawan2015-05-05

「パレードへようこそ」
1984年イギリスで起こった炭鉱労働者のストライキと同姓愛者の実話を描いた、カンヌ映画祭クィア・パルム受賞、ゴールデングローブ作品賞ノミネートの作品。監督はマシュー・ウォーカスである。

アップテンポなカットつなぎと、スローな描写を組み合わせた演出が、心地よいリズムを生み、背後に流れる1980年代のヒットパレードが、繊細なノスタルジーを呼び起こしていく、ちょっとした秀作でした。ただ、個人的にゲイの映画が苦手というのが、どっぷりとはまり込めなかったのはちょっと、申し訳ないと思う。

映画は、当時のニュース映像をバックにしたタイトルから始まる。時はサッチャー政権、政府の炭鉱労働者への弾圧に反抗したストライキが各地で起こり始めている。ここに一人の青年ジョーが、たまたま通りにでると、ゲイとレズの団体が炭鉱労働者を支援するという集団にぶつかり、成り行きでその団体LGSTに参加する。

しかし、各地の炭鉱労働者たちは、ゲイとレズの集団からの支援申し出をことごとく断る。

それでも何とかしたいマークたち団体は、ウェールズにある田舎の炭坑度労働者の組合に電話する。偶然が偶然を呼んで、招待されたメンバーは、おそるおそる、その招待に応じる。

こうして、保守的な時代のさらに保守的な田舎の人々の組合員たちと、ゲイとレズの集団のどこかコミカルながら心温まる友情物語が始まる。

展開は、特に奇抜な物もなく、実話なので、そう極端な脚色はできないのだろうが、それぞれのメンバーの背景描写がやや弱い。村人と、ゲイたちとの、次第に絡んでいく友情の波が、ストーリーの中心を形作っていくが、脇に配置されたエピソードが、今一つわかりづらい物があるために、政府に対して反旗を揚げたような物語の根幹がぼやけてしまった。

結局、ストは終了して、すべては元に戻ったかに見えたが、実は、LGSTの運動は、イギリス全土に反響を生み、その立場がしっかりと認められていく流れで物語は終わる。背後に忍び寄るエイズという新しい病気の発見による恐怖もさりげなく挿入し、メンバーたちのその後をナレーションしていくラスト、堂々とパレードするゲイとレズの団体とノーマルな人々との華々しい映像が、感動的な映像として幕を閉じるのだが、やはり、ゲイやレズの問題は、なかなか日本ではそのテーマに弱さがあるし、まだまだ、そのことに問題意識が弱いというのも確かで、これはお国柄の違いと呼ばざるを得ない。

ただ、ゲイやレズの人々が、ノーマル、ストレートと呼ぶ、一般人への呼び名は、逆に自分たちが特別だと主張しているようにしか思えないし、お互いに偏見をぶつけ合っているようにも思えるのです。

映画としては、良質の一本ですが、個人的には入り込みきれなかったです。


「マミーMommy」
ここまで、ガラスのように研ぎすまされた感性で描かれると、見ている方が、逆に神経質になってしまう。それほどに、危ういシーン、危ういせりふ、危ういカット、見事な映像が無駄なく、しかも、独創的な想像力で生み出されてくる。ただ者ではない以上に存在感を見せたのが、グザヴィエ・ドラン監督である。

2015年、カナダでは新政権が成立し、S18法案というのを成立させる。その中のS14号法案は、問題をだかえる子供を持つ親が、その経済的、精神的危機に陥った場合、法的手続きなく、養育を放棄し、施設に入院させるというものだった。

この架空の前提から始まるこの作品、画面の両方を隠して、画面中央の正方形の画面だけで物語が展開するのだ。その狭さが、見ている私たちに、必要以上に窮屈感を生み出してくれる。

映画が始まると、一台の車の運転席から前を走る車が見える。そして、横から飛び出した車が前の白い車にぶつかり、中から一人の女が悪態をついてでてくる。この映画の主人公ダイアンである。

施設にいる息子スティーヴが、食堂に放火し、その場にいた少年にやけどを負わせたから、引き取れといわれたのだ。さんざん悪態をついた末、スティーヴを引き取る。

彼はADSDという多動性障害で、突然切れて暴れ出すという問題がある。

スティーヴを引き取ってからもダイアンと、言いたい放題にののしり合う姿が、ぎくしゃくしているというより、親子のぶつかり合いに見えるから不思議である。

ある日、スティーヴが万引きしてきたらしいダイアンへのプレゼントのネックレスで、喧嘩になり、切れたスティーヴはダイアンの首を絞めてしまう。思わず、殴ってその場を逃げたダイアンは、部屋にこもって落ち着くのを待っていたが、いつの間にか、向かいに住むカイラがやってきて、スティーヴをなだめていたのだ。

カイラは、教師であるが、吃音で教壇に立てず、自宅で療養していたのだ。

どこか引かれるところのあったスティーヴとカイラは、仲良くなり、スティーヴはカイラに家庭教師にきてもらえるように頼む。

スティーヴが自宅に帰ったときに、自慰しているところをダイアンが見てしまったり、スティーヴが何かにつけ、ダイアンの胸を触ったり、カイラに不思議な熱い視線を送るあたり、スティーヴが思春期にさしかかり、恋に目覚めてきたことをダイアンが知るという、母親としての不思議な気持ちを描写するのだ。

終盤で、「いつかあなたの愛は、私とは違う方向に向かうことになる」というせりふから、さかのぼって、その伏線に納得してしまいました。

カイラはスティーヴを教えるようになって、吃音もましになり、ダイアンとも仲良くなって、これで順風満帆かと思われるシーンへ続く。スティーヴが画面中央を開くと、画面はフルスクリーンになるのだが、その直後、冒頭のやけどさせられた少年から、訴状がダイアンの元に届き、また画面は小さくなる。

金を工面するために、ダイアンに気がある近所の弁護士ポールに相談、その姿に反抗を露わにするスティーヴは、ポール。ダイアン、スティーヴの三人でいったカラオケバーで暴れて、ポールに愛想をつかれてしまう。

カイラとスティーヴ、ダイアンでスーパーで買い物をしているときスティーヴがいう「僕はじゃまなんじゃないの」。そしてふとカイラが目を離したとたん、ナイフで自殺未遂をする。

どんどん追いつめられるダイアンは、とうとうある決断をする。ピクニックと偽って、ダイアンとスティーヴ、カイラでくるまで出かける。運転しているダイアンが、空想で、スティーヴが成長し、大学に入学し、恋人を見つけ、結婚し、幸せになる姿を思い浮かべる。この場面はフルスクリーンになるが、すぐに元のサイズへ。

トイレに出たダイアン、助手席で待つスティーヴ、雨、彼方から三人の男、複雑な表情のカイラ。ダイアンは法律に基づき、子供の未来をかけて施設に入れて治療する道を選んだのだ。

最良と思えた決断だが、苦しむダイアン、やがてカイラも夫の仕事の関係で、ダイアンの元を去ることを告げにくるのだ。一人になり、泣き崩れるダイアン。

一方病院で拘束服を着せられたスティーヴ、ちょっとした好きに服を解かれた彼は、出口に向かって走り出す。そして暗転エンディング。

ダイアンが空想するクライマックスは、涙が止まらなかった。これが母の愛情なのだ。そして息子の母への愛情もまた、切々と映像で伝わってくる。この見事な感性が生み出した映像描写のすごさに、グザヴィエ・ドランの恐ろしいほどの才能を実感してしまう。すばらしいクオリティのある独創的な一本だった。