くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」「翔んで埼玉」「ビール・ストリートの恋人たち」

「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」

脚本家や演出家のこの物語への思い入れが先走った感じのする作品で、グイグイとメッセージが押し付けられてくるのですが、映像表現としてのセンスが今ひとつなので、ミュージカル仕立ての展開であったり、背後を徹底的にぼかした浮き上がるような画面は、そのポイントポイントでは美しいが全体にまとまっていない感じのする作品でした。監督はデイモン・カーダシス。

 

主人公ユリシーズの父親の葬儀の場面から映画は幕を開ける。母も働かざるを得なくなり、ユリシーズと弟のエイブの世話をするため叔母のローズがこの家に入り込む。

 

ユリシーズは、トランスジェンダーで、そのことを母は薄々感じているが、ローズは断固として彼の行動に干渉をする。

 

ある夜、自宅にいたためれなくなったユリシーズが夜の街を歩いていて、エボニーというトランスジェンダーの女性に声をかけられ、サタデイナイト・チャーチというところに連れて行かれる。そこは個人個人が自分の境遇を自由に楽しむ場としてダンスや歌に興じていた。

 

ユリシーズは、その自由さに憧れて、エボニーたちと付き合うようになり、今まで後ろめたい思いで行ってきた行動を積極的に行うようになる。ところが勇気を出して買ったヒールをローズに見つけられ、罵倒されたユリシーズは家を飛び出してしまう。

 

いく場所もなく、エボニーたちに会うすべもない彼はホームレスのようになり、誘われたマークという男性に体を売ってしまう。

 

一方母親のアマラは、ローズを非難し、必死でユリシーズを探し始める。戸惑っていた弟のエイブも兄の帰るのを心待ちにする。

 

ユリシーズは、打ちのめされた末に、ようやく土曜日を迎え、エボニーたちに会う。そして、ようやく未来への第一歩を踏む出す決心をし、エボニーに付き添われ家に帰ってくる。アマラは彼を温かく迎え、罵るローズを追い出してしまう。華やかにスポットライトを浴び、モデルよろしく歩くユリシーズのシーンで映画は終わる。

 

所々に歌やダンスシーンを盛り込みミュージカル風に映像が展開するが、ミュージカルではない。理解のある母親、執拗に拒否する叔母、兄を慕う弟、主人公を温かく迎えるトランスジェンダーたち、非常にスタッフ側の思い込みが都合よく見えなくもなく、彼らを認めなさいという押し付けがちょっと偏っているように思えて、映画としてはメッセージが強すぎて素直に受け入れられなかった。

 

「翔んで埼玉」

ぶっ飛んだ茶番劇のはずなのですが、脚本、演出共に普通なので、映画が小さい小さい。無理やりの大げさなスペクタクルのクライマックスさえも非常にしょぼくて、正直退屈になってしまった。ギャグのテンポがとにかく弱いのです。監督は武内英樹

 

一台の車が走っている。埼玉に暮らすある家族。娘の結納で東京に向かっている。ラジオから奇妙なラジオドラマが流れてくる。それがなんとも茶番な埼玉を悪ふざけした物語。映画はこうして始まる。

 

東京の白鵬学園に一人のアメリカ帰りの転校生麻実麗がやってくる。生徒会長で東京都知事の息子壇ノ浦百美は麻実に一目惚れしてしまう。東京の周辺の特に埼玉は蔑まれていて、東京至上主義の奇妙な社会が存在していた。

 

実は麻実は埼玉解放戦線の男で、彼を怪しんだ東京都知事に仕える執事阿久津は、麻美を調査し始める。しかし阿久津もまた千葉解放戦線の闘志であった。

 

こうして、東京打倒を目論む千葉、埼玉の軍勢は、通行手形の撤廃などを求め大規模な行動を起こし始め、一方彼らを駆逐するべく東京都知事が動くのだが、そこに麻美と壇ノ浦のラブストーリーが絡んでくる。

 

大筋はそういうことなのですが、馬鹿馬鹿しい茶番の連続とギャグのオンパレードが完全に滑っている。タイミングと演出のリズムが実に悪いのです。脚本の組み立ても適当で弱く、無理やりクライマックスの大群衆のシーンで大作ぶってはいますが、とにかく画面がちっこい。

 

せっかく二階堂ふみを男役にして面白い配役を取ろうとしているのに盛り上がらない。もったいないくらいに雑な映画に仕上がっていました。これで、話題作を作ったつもりなら、今の映画関係者のレベルは最低なのかもしれない。とにかくもったいない映画でした。

 

「ビール・ストリートの恋人たち」

絵も綺麗だし、上品な映画でクオリティも高いのはわかりますが、正直しんどいです。淡々と映像が紡がれていき、ひたすら理不尽な黒人差別を訴えかけてくる。わかりますが、さすがに商業映画としては退屈でした。監督はバリー・ジェンキンス

 

黒人の若いカップルがこちらに歩いてくるのを見下ろしたカメラが捉える。周辺の木々の美しい色合いが作品の質の高さを見せてくれます。そして二人が目を合わせ、カットは二人が面会室でガラス越しに会っているカットへ。

 

女性はティッシュ19歳、収監されているのは恋人のファニー22歳。身に覚えのない罪で捕まり、ティッシュは彼の無実のための奔走している。この日、ティッシュはファニーに妊娠したことを報告に来た。

 

家に帰ったティッシュは両親や姉に報告し祝福されるが、ファニーの家族には父を除いて全員に反対されてしまう。それでも、ティッシュは産む決意をし、両親と優しい姉のサポートを受けることにする。ティッシュの母はファニーの無実を晴らそうとするが、いかんせん金がかかりなかなか前に進まない。

 

映画は、ティッシュたちが奔走する姿を描きながら、なぜファニーが逮捕されたかをフラッシュバックしていく。そこには白人による執拗な黒人差別が内在していた。

 

ちょっとしたいざこざで白人警官に目をつけられたファニーは、たまたま起こった白人のレイプ事件の容疑者とされ、面通しで警官の誘導により被害者に犯人だと指摘されたようである。

 

その後、その女性は失踪していたが、プエルトリコにいることがわかりティッシュの母が向かうが、すでに精神錯乱していて、真実の証言をもらうのは不可能と判断する。

 

その報告を知りファニーは減刑を嘆願、やがてティッシュは男の子を生み、数年の時が経つ。

家族面会室でファニーとティッシュ、息子が和やかに話す場面で映画が終わる。結局無実のまま裁判も長引き出所できないままなのだ。

 

まったく理不尽なラストシーンだが、絵作りが実に美しいし、画面が上品である。しかも、エピソードの構成もしっかりしていて、とってもクオリティの高い映画ですが、どうにも地味すぎる感じです。訴えるメッセージはわかりますがしんどかった。