くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「あの橋の畔で」(完結篇)「モンローのような女」

「あの橋の畔で」(完結篇)

いよいよ最終章、この頃のお決まりか、病による悲劇的な物語で幕を閉じるが、いかにもメロドラマというやっつけ演出と脚本が実にうまくて、ある意味、これこそこの映画の見どころではないいかとさえ思ってしまう。監督は野村芳太郎

 

能登で再会した光晴と葉子だが、信介の父の死で、葉子は再び東京へ、その遺言で、信介の家の財産は父の事業の失敗で無一文となったことを知る。信介は葉子との離婚に執拗に反対し、慰謝料を請求してくるが、それも結局信介の弁護士のやる気なさのなせることで、信介は逆上して弁護士に怪我を負わせ逃げてしまう。

 

一方、光晴と葉子は札幌へ移り住んだが、たまたま信介がタクシー運転手をしているのを葉子が見かける。信介を訪ねると今は平和に暮らしているという。そんな頃、葉子は頭痛に襲われて、病院で脳腫瘍が見つかる。手術は成功したものの、腫瘍は取りきれず、一年半の余命を宣告される。

 

葉子に告知せず、光晴は結婚を決意し、式をあげる。しかし、期限と言われた一年半を超えても葉子はいたって元気だった。不安と希望が渦巻く中、東大で再度検査したが、やはり診断は変わらず、春先までの命と宣言される。

 

やがて結婚記念日、親しい友人たちが集まり、ホームパーティーを開く、そしてそれから数日後、光晴の職場に葉子から電話が入る。頭が痛く、手も痺れてきたという。慌てて帰る光晴だがまもなく葉子は死んでしまう。

 

一人になった光晴は、葉子の面影を日々思い出し、隣の奥さんが心配で立ち寄った時も、雨の中幻を追っていた。葉子の田舎に骨を埋めに行ったが、そこで、葉子がすでに自分の余命を知っていたことを知る。そして、回想しながら、葉子が覚悟して光晴に接していたさまざまを思い出して映画は終わる。

いかにもなメロドラマですが、そのいかにもさがとっても面白い作品でした。

 

「モンローのような女」

マリリン・モンローの死後、その若き日をモチーフにしたドラマですが、今見れば時代錯誤的な展開が、どこかシュールでリアリティを醸し出してくる不思議な空気のある作品でした。監督は渋谷実

 

飲み屋を営むお鈴の寝室で、旦那の蜂屋という男が遅い目覚めをするところから映画は始まる。お鈴は妾で、姪で、隣に住むいち子が抜群のプロポーションなので、写真家の水口がぜひヌード写真が撮りたいというのを聞いていて、なんとかと思っている。いち子の父は飲んだくれの鉄道員で母は気が触れて精神病院に入っている。

 

いち子は、お金のこともあり高校を辞めてしまう。いち子を密かに好いているお鈴の息子の孝太郎は、何かにつけお鈴を罵ったり、いち子に絡んだりする。お鈴の友人のまさ枝が、お鈴と結託し、いち子に上手く言って水口のところに連れていく。しかし、いち子は水着にはなるがあと一歩脱がない。お金が必要ないち子は、悪徳写真家のところであわやというところまで行ったりする。また、若いいち子を蜂屋が狙ってきたりする。

 

そんなドタバタ劇が展開し、ある夜、飲んだくれたいち子の父は、職場で寝込んで鉄道事故を起こす。精神病院にいたいち子の母が抜け出し、蜂屋がいち子に迫ったというのを聞いて、ハサミで蜂屋を刺す。お鈴は、せっかく大きくした店だが、孝太郎に責められて手放す決心をする。

 

何もかもが雪崩のように悪い方向に落ち込む中、絶望したいち子は水口を訪れ、ついにヌードになる。カメラの前でポーズを取るいち子の姿で映画は終わる。

 

第一部終とクレジットに出るのですが、意味不明。シリアスドラマなのかコメディなのかはっきり見えないどこかシュールな映像作りがちょと特異な作品でした。