くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「息子の面影」「白いキャラバン」「エリソ」「アラヴェルディの祭」

「息子の面影」

慌てず騒がずじっくりと映像だけで物語を語っていく、恐ろしいほどの傑作でした。物語の背景、登場人物の心の動き、何もかもを映像で描いていき、そこに言葉さえもいらないのではないかと思えて来る。もちろんカメラが美しいのだが、それは全て計算上なのである。実際クライマックスで、字幕さえ出ずに映像だけ語る場面さえある。物語はかなり辛いものですが映像作品としてはずば抜けた傑作だと思います。監督はフェルナンダ・バラデス。

 

メキシコのとある村、霞のかかる景色の中、一人の青年ヘススがこちらに歩いて来る。窓越しのカメラアングルで、その青年は友人のゴダとアメリカへ行くと告げる。窓のこちらにはおそらく母マグダレーナがいるのだろう。ところがカットが変わると、マグダレーナとゴダの母は、二ヶ月経って、息子たちが行方不明だという。警察らしい担当者が持ってきたには無惨に殺された人たちの写真だった。マグダレーナは、息子を探すために国境へ向かう決心をする。ゴダの母は父の反対もありいけないからと金だけを託す。

 

一方、一人に眼科医の女性が母の遺体を確認するために国境に向かっていた。マグダレーナは国境までやってきたものの、ゴダの焼死体とヘススの鞄だけが見つかる。確認の書類を提示されるが、字を読めないので困っていると眼科医の女性が助けてくれた。諦めきれないマグダレーナは、国境へ向かうバスの会社を訪ねる。そこで、二ヶ月前、ヘススが乗ったと思われるバスに乗っていた乗客の存在を知る。

 

画面が変わると、一人の青年ミゲルは、アメリカからメキシコに強制送還される。母の待つ家に向かうものの、途中、怪しい兵士たちの検問を受ける。不穏な情勢になっている現実を見たミゲルは母の家へと急ぐ。一方、マグダレーナは、バスに乗っていた乗客の男の村を目指していた。そして、なんとかそばまでやって来るのだが、そこで、村に帰ってきたミゲルと出会う。マグダレーナの目指す村はダムのー向こうだから、今夜は自分のうちに泊まるように勧める。ところがミゲルが家に戻ってみると母の姿はなく、家畜は皆殺されていた。母も殺されたと知ったミゲルを慰めるマグダレーナ。そして彼女は一人ボートを雇って目的の村に行く。

 

そこでバスに乗っていた老人と会い、顔にあざがあるゴダを覚えていたことから、ヘススと同じバスに乗っていたと確信する。老人はバスが突然停められ、悪魔たちがやってきたと語り始める。この老人の言葉は娘らしい人物が通訳するところから、先住民の言語なのだろう。バスが停められ、悪魔の兵士たちが乗客を次々と殺す映像がフラッシュバックされるが、老人の語る言葉に字幕もつかず、映像が次々と状況を語っていく。そして、ゴダが殺され焼かれる様子、炎をバックに悪魔の姿のシルエットが浮かぶ。老人はなぜか殺されなかった。

 

息子の死を確信したマグダレーナは、ミゲルの家に戻って来る。意気消沈して暗闇に座るミゲルに、マグダレーナは一緒に暮らそうと提案、二人は床に入る。ところが深夜、車のヘッドライトが近づいてきたので、ミゲルはマグダレーナを起こし、逃げようと叫ぶ。二人は藪に中に隠れるが、車から降りてきた兵士が銃を持って迫って来る。そして、ミゲルが見つかり、手を上げて近づくがあっけなく撃ち殺される。そしてマグダレーナを見つけたその兵士がマグダレーナに迫って来る。ところが明かりがその兵士の顔を照らすと、なんとヘススだった。

 

彼は悪魔の組織に捕まったのだという。そして、バスの乗客が殺戮される現場で、ゴダを殺した奴を助けると叫ぶ兵士たちの声から、ヘススがゴダを殺したらしいカットが続く。フラッシュバックが終わると、ヘススはマグダレーナに、車が去って静かになったら逃げろと言って立ち去っていく。こうして映画は終わります。

 

とにかく、圧巻の映像表現で、メキシコの政情不安の様子などは具体的にテロップされることもなく映像だけで見せて来る。時折挿入されるインサートカットの変化で人物の心の状況を映し出す。そして、光と影を操った演出が物語を先へ進めていく。もう素晴らしいの一言です。絵と音の表現こそ映画の本質だと言わんばかりの映像世界に息を呑んでしまいました。素晴らしい作品でした。

 

「白いキャラバン」

いい映画です。しっかりとしたモンタージュで描かれる映像の組み立ても秀逸な上に、ストーリーの展開も実に上手い。終盤の締めくくりはちょっと唐突で、どう解釈するのか難しいですが映画としては一級品の一本でした。監督はエルダル・シェンゲラヤ、タマズ・メリアヴァ。

 

家長マルティアの家族の紹介がほのぼのした演出で描かれて映画は幕を開ける。大勢の子供たち、村の人々との心温まる会話、そして、何千頭という羊を伴って冬を越すために毎年麓の漁村へ家族共々降っていく。何十年何百年と続いたこの風習の中で家族が一つになり、繰り返し繰り返しその生活の中に幸せを感じている。降っていく羊の群れを俯瞰で捉える映像にまず引き込まれます。そして、それぞれの兄弟や父との物語を説明する。

 

麓のいつも家族が暮らす小屋に着いてみると、村の女マリアが雨宿りをしていた。マルティアの家族は彼女を快く受け入れ、一緒に食事をして親しくなる。兄弟のうちゲラが、彼女に一目惚れし強引にアタックして恋仲になってしまう。しかし、ゲラは遊牧の生活に嫌気がさし、街に行く決心をしていた。ゲラとマリアの婚約が家族のうちでも公になったにも関わらず、ゲラはマリアと疎遠になる。それはマリアがゲラと街について行きたくないからでもあった。漁村での生活を捨てたくないのである。

 

年の暮れ、漁村でマリアを見かけた兄が、新年のパーティにマリアを誘いマルティアの小屋に招待するが、ゲラの態度は冷たく、結局喧嘩をしてゲラは出て行ってしまう。兄がマリアを村に送り届けたものの、寂しくその場をさっていく。ゲラは街に出て、自分の馬や鞍を全て知人に与えると自暴自棄に公言して知人の怒りを買ってしまう。そんな頃、マルティアの小屋に嵐が襲い、羊たちが脱走する。マルティアらが必死で追うが、浜辺まで羊たちが逃げ、回り込んだマルティアは波にさらわれてしまう。

 

戻ってきたゲラは小屋が空っぽなのに驚き、浜辺に行きマルティアが死んだことを知る。ゲラのせいだと食ってかかる末の弟に、ゲラは全て自分のせいだとつぶやいて映画は終わる。

 

前半のスペクタクルな羊の大群、そして中盤の恋物語と家族のドラマ、そしてクライマックスの嵐の場面の豪快なモンタージュ編集の見事さ、映画の構成もしっかりとしていて、非常に良質なクオリティの高い映画でした。

 

「エリソ」

サイレント映画で、前半はテンポ良く進むのですが、後半、ちょっと間伸びして来る上に、ストーリーが横道に逸れていく感じで、しかも、無理矢理感のあるエンディングでちょっとしんどい映画でした。監督はニコルズ・シェンゲラヤ。

 

コサックを移住させるべく、村々の人たちを移住させる計画が進んでいる。エリソが暮らす村に、牧草の権利をめぐってモアジャが交渉に来ていた。モアジャはエリソの恋人でもあった。この村にコサックを移住させるべく画策する将軍たちは、無理矢理鉄砲などの武器があるかに見せかけようと、まず牛を略奪する。しかし、それは、帰り道だったモアジャによって阻止されてしまう。

 

モアジャは将軍の事務所に行き、牧草地を利用できるように交渉するが、たまたま、エリソの村の人々を無理矢理移住させる陰謀を耳にする。そしてモアジャは、将軍を脅して移住はしなくても良いという書面を手に入れるが、脱出の際に足を痛めてしまう。そんな頃、村では巧みに村人たちが移住を望んでいるかに見せる文書が作成され、村人は村を捨てて出て行き始める。なんとかエリソに文書を手渡したモアジャだが、エリソはそれで村に火をつけて燃やしてしまう。

 

住むべきところも無くなった村人たちのところにモアジャが追いついて来る。そして、二人を含めて村人たちが進んでいって映画は終わる。

 

と、理解しきれていないところもあるけれどこんなお話だったと思います。

 

「アラヴェルディの祭」

ドキュメンタリータッチで展開しますが、主人公と思われる人物、私、が客観的に祭りを見るという視点の映画でした。監督はギオルギ・シェンゲラヤ。

 

役所の中でアラヴェルディの祭の話題が上がっている。毎回、酔っ払って踊るだけの祭りに否定的だが、一人、私だけはこの祭りに興味がある。そして、私が祭りを冷ややかに見つめていくのが本編となる。終盤、暴れた馬を盗み、自分で乗って、祭りの場に駆け込んできて馬主たちに引き倒される。夜が明けて、祭りも終わって、私も何処かへさって行って映画は終わる。

 

大胆で豪快なカメラは面白いけれど、それだけの映画でした。