「イニシェリン島の精霊」
恐ろしいほどのクオリティの映画だった。映像がそのままひとつの映画になっているから、個別のシーンの感想など書けるはずもない。淡々と伝わって来る何物かをただ感じるままに画面を見つめ、鑑賞していく作品。しかも、絵作りは一級品に完成されているし、散りばめられるさりげないユーモアに苦笑いさえ浮かんでしまう。何を言わんとしているかなどという俗っぽい感想の書けない逸品、これが映像芸術としての映画の完成形かもしれません。圧倒されてしまいました。監督はマーティン・マクドナー。
1923年、アイルランドの孤島イニシェリン島、カメラは、彼方に海、手前にパッチワークのような平原を俯瞰で見下ろしゆっくりと物語に入っていきます。パードリックは、この日も親友のコルムを誘ってパブに行こうと家にやって来る。コルムが返事をしないので、先にパブに行くが待てど暮らせどやってこない。仕方なく帰ってくる。家には妹のシボーンが待っていた。
再度コルムのところへ行くがどこかよそよそしく、会話さえもかわそうとしない。パードリックは、何か気に触ることを言ったのかと問い詰めても返事をしない。しかも、親しくするなと言われてしまう。
翌日が4月2日だったので、エイプリルフールだったのかとパードリックは再度コルムの所へ行くが、話しかけてくるなと言い、バイオリンで忙しそうに作曲をしている。しかも、今後話しかけて来たら、自分の指を一本づつ切り落とすと言う。パードリック冗談かと思って、つい話しかけてしまうが翌日、指を玄関に投げつけられる。
パードリックの家にはジェニーというロバがいて、パードリックは仲がいいが、家に入れるのはやめて欲しいとシボーンは言う。友達のドミニクとたわいない話をするが、ドミニクの父は警官で、ドミニクを殴るのだという。この日、父に殴られ血だらけになったドミニクをパードリックは家に泊めてやる。村にはマコーミックという老婆がいて、何やら意味ありげな予言めいたことを告げたりする。
コルムはパブで、音大の学生たちとバイオリン演奏したり作曲したりしていて、パードリックはその学生の一人に嘘をついて島を離れさせたりする。話し相手がいないパードリックはコルムの家に押しかけ、思いの丈を叫び、自宅に帰る。ドミニクはシボーンに告白するが振られてしまう。パードリックとシボーンが家に帰る途中、コルムとすれ違う。彼の四本の指は切られていた。家に戻ると、ジェニーが指を食べて窒息して死んでいた。シボーンは、本土で仕事が見つかったということで突然島を離れることにする。パードリックは崖の上からシボーンの船を見送るが、背後の彼方に人影がある。コルムだろうか?
パードリックは、コルムに、ジェニーが死んだことを告げ、翌日の二時に家に火をつけるから犬は外に出しておけと告げる。翌日、ミサの後、パードリックはコルムの家に火をつける。窓から覗くとコルムは家に中にいた。警官がパードリックの家にやって来るが、途中でマコーミックに呼び止められる。ドミニクが池に落ちて死んだのだという。パードリックがコルムの犬を連れて外に出ると、海岸に人影を見つける。犬が駆けつけると、それはコルムだった。彼は死んでいなかった。
海岸でパードリックとコルムが会話をする。これでおあいこだというコルムにパードリックは、争いはこれからだと告げる。カメラが美しいイニシェリン島の景色を捉えて映画は終わっていく。
一応物語を思い出してみるとこういう感じですが、では、何がどう意味があるのかと言われれば具体的なものはない。コルムの犬が、コルムがまた指を切らないように鋏を外に出そうとしてみたり、食いしん坊のロバが指を食べて窒息死してみたり、ドラッグストアの女主人が勝手にシボーンの手紙を開いて、暑さで開いたのだと言い訳してみたり、周囲の登場人物や動物も絶妙の存在感を醸し出し、それが知的なユーモアになって映画を彩っている。老境に近づいたコルムは、孤独というものを実感し始め、毎日をのほほんと生きている親友のパードリックに、その真実を伝えるべく、あえて絶交を言い渡す。それは真の友情の明しでもあり、凡々と生きて来た自身への戒めでもあるにかもしれません。そう考えると恐ろしいほどの友情さえも見えて来ます。しかも、手前から奥に広がるカメラアングルも息を呑むし、さりげなく黄色や赤を入れる色彩演出も見事。一枚の絵画の如き一つの映像芸術の完成形、その素晴らしさに、ただ感嘆するのみでした。
「エンドロールのつづき」
いい映画でしたね。ストーリー展開のテンポもいいし、それよりも、人間味溢れるドラマに仕上がっているのがとってもいい。もちろん、「ニューシネマパラダイス」に比べられるように映画愛に溢れた物語なのですが、現代という時の流れをちゃんと把握した上で、ノスタルジーに浸るだけでなく主人公の成長のドラマとして描いたのはいい。やや古臭さを感じなくもないけれど、こういう映画はなくしてはいけないと思います。監督はパン・ナリン。
真っ直ぐに続く線路の上に釘を並べる少年サマイの場面から映画は幕を開けます。列車が通ると釘はペチャンコになり、それを木の先につけて矢にして飛ばして遊ぶためで、私も子供の頃やった遊びです。家に帰ると父は突然、映画に連れて行くという。映画を馬鹿にしている父だが、信仰しているカーリー女神の映画だからと家族で見に行くことにしたのだ。そしてサマイは生まれて初めてみた映画に魅了される。それは光の魔法だった。
チャイを駅で売って生計を立てているサマイの父はサマイに手伝いをさせながら毎日を暮らしている。すっかり光のマジックに魅せられたサマイは、映画館に忍び込むようになるが、館主に摘み出される。それをみていた映写技師のファザルはサマイが持っていた弁当が気に入り、弁当を食べるのと引き換えに映写室にサマイを連れ込むようになる。映写室から様々な映画を見たサマイは自分も映画を作りたいと思うようになり、クズフィルムを集めては自宅でのぞいていたりした。学校の先生はサマイに、やりたい事をしたければ、英語を勉強することとこの村を出ることだと諭す。
友達と近くのお化け屋敷に集まって、フィルムに光を当てて遊んでいたが、ある時、フィルムを収めた缶が駅の倉庫に一時保管され各地に輸送されるのを見たサマイらは、フィルム缶からフィルムを盗み出し、お化け屋敷で上映してみようと考える。しかし、単純に光にフィルムを通しただけでは何も映らず、サマイはがっかりするが、そんな時、ファザルはどういう仕組みで映画が映されるのかをサマイに教える。それを聞いたサマイらはガラクタ置き場からミシンや様々な材料をかき集め、フィルムを上映する仕組みを完成させてしまう。ところが、フィルムの盗難を調べていた警察がサマイらを発見、サマイは自分一人がしたことだからと一人留置所に入る。
やがて釈放されたサマイは、友達に、音を出す方法を思いついたと話す。それは上映しながら各自が効果音や歌を入れるものだった。チャイの手伝いにいつまでも来ないサマイを不審がった父は、いつもの鞭を持ってお化け屋敷に向かう。ところがそこで見たのは、サマイたちが一生懸命歌ったり効果音を交えながらの映画上映だった。しかもサマイの母や妹、学校の友達も大勢いるのを見て、父は黙って家に帰る。
突然、ファザルから電話が入る。慌ててファザルの劇場に向かったサマイたちは、そこで、フィルム上映の機械からデジタルの機械への入れ替える現場と、ファザルが失業した事を知る。ファザルは英語ができないので新しい機械はさわれないと言うのである。サマイは大量に積まれたフィルム缶の乗ったトラックを追って行く。
上映機械やフィルムの処理工場についたサマイは、そこで、機械はスプーンなどの食器に、フィルムは溶かされ女性の腕輪に変わって行く現場を見る。映画は新しい時代を迎えようとしていた。
サマイは、チャイ売りの仕事を一生懸命するようになり、サマイの友達も他の遊びに夢中になるようになった。ファザルはサマイの友達の父が駅長なのでその荷受けの仕事に紹介してやる。ある時、父はサマイを呼ぶ。そして、自分の友達が街にいるからその人を頼ってこの村を出て行くように進める。しかも、後14分後に来る列車に乗るようにと送り出す。
列車に乗ったサマイを、友達や学校の先生やらが見送る。車内に入ると、フィルムを加工した腕輪をつけた女性たちがたくさん乗っていた。その腕輪に被って様々な映画監督の名前が流れて映画は終わる。
時代の流れを背景にして一人の少年の成長のドラマを丁寧に描いた感じの映画で、前半こそ「ニューシネマパラダイス」のパクリのような場面がなきにしもあらずですが、次第に主人公の少年に感情移入して行くのと、時代の流れを感じさせられて行く自分がいました。いい映画でした。