くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「アジアの天使」「憂鬱な楽園」

「アジアの天使」

悪い映画ではないのですが、ちょっと長かったですね。韓国と日本が言葉以外に自然と打ち解ける感じがもうちょっと上手く見えていたらもっと良かった気がしますが、期待しすぎたというのもあります。淡々とした展開はそれはそれでいい感じなのですが、もう少しコンパクトに引き締めても良かったかもしれません。監督は石井裕也

 

小説家でもある剛は息子と韓国にいる兄を訪ねてやってくるところから映画は始まる。韓国には仕事もあるし、住まいも準備できるという言葉に、日本の家も引き払い、子供も連れてやってきた剛だが、兄の透はその日暮らしのしかも怪しい仕事をして食い繋いでいるだけだった。仕方なく、とりあえず兄と暮らし始める剛たち。

 

ここに、かつてアイドル歌手だったが、今は過去の栄光だけで食い繋ぎ、事務所の社長との肉体関係を続けて仕事をしているソルがいた。この日もショッピングセンターの余興で歌っていたが、たまたま透らと買い物に来ていた剛がソルのステージを見る。そして、仕事の後、自分の今を悲しんでいるソルを剛はみけかけるが言葉がわからない剛はソルに悪態をつかれるだけだった。

 

ソルは妹のポムに公務員になるように勧め、兄ジョンウと三人で暮らしていた。ある時、事務所へ行ったソルはいつの間にか首になっていることを知る。ソルは社長に誘われるままにズルズル肉体関係を続けていたが、自分は社長の女の一人に過ぎないことを知り、社長の元からさる。一人橋のたもとで泣いていたソルは、橋の欄干に天使を見かける。

 

一方、透は仕事のパートナーに騙され、在庫の商品を持ち逃げされてしまう。仕方なく、以前から考えていたワカメの輸出をしようと港町カンウンへ行くことにする。

 

カンウンへ向かう列車の中、ソルたちも両親の墓参りをしようと乗っていた。そこで、学がうろついていたのを迷子と間違えたソルたちは剛と出くわす。そして、手前の駅で降りた五人は、透の提案で一緒のホテルに泊まることにする。そこへやってきたソルの事務所の社長からソルを守った透と剛はジョンウと急速に親しくなり、一緒にカンウンを目指しジョンウの先輩のトラックで向かうことになる。映画はこのロードムービー部分が中心になり、お互いのこれまでや、天使にまつわる話が語られる。

 

剛たちとソルたちは、お互い言葉は直接通じないが、ソルと剛はカタコトの英語で一言二言交わすようになる。やがて、ソルたちの墓に着いた五人は墓参りをし、別れ別れになるところだが、墓を掃除していたソルたちの叔母に挨拶をすることになり、全員で叔母の家に行き泊まる。浜辺に一人佇むソルはそこで奇妙なおっさんの天使を見かける。一方剛も昔天使を見て肩を噛まれた話をする。

 

その後、透を残して残りの四人は特急でソウルに戻る。そこで別れるところだが、とりあえずビールを飲もうと全員で食事をしている場面で映画は終わる。

 

これという大きなうねりのあるドラマではなく、何かの象徴か希望かの天使を介在にしての韓国人と日本人の何気ない心の結びつきを描いた感じの作品。そのさりげなさは実によくできているのですが、二時間を超える作品にするのは少し無理を感じました。オダギリジョー扮する透がもう少しソルたちに絡めたら良かったのですが完全に浮いているし、全く喋らない学の無言の存在感が表現する何かは、最初は良かったのですが後半息苦しくなってくる感じです。ただ、さりげなく登場する天使は良かったと思います。

 

「憂鬱な楽園」

長回しを多用する特徴的な映像が面白い作品ですが、全体の出来栄えは普通のレベルの一本。物語に大きなうねりを作らず、チンピラの兄弟のドラマというややスケールがこじんまりした姿の作品でした。監督は侯孝賢(ホウ・シャオシェン)。

 

一人の男ガオが列車に乗っている場面から映画は始まる。40歳を超えて未だフラフラしているチンピラの彼には何かにつけて血気盛んでトラブルを起こす弟のピィエンがいた。この日も賭博中に暴れたピィエンを宥めるガオ。ガオは上海でレストランを開いてみないかという話などもあるが、その日暮らしの毎日から抜け出せない。

 

実家の財産処分の問題で、いとこの刑事リーとトラブルを起こしたピィエンは、仕返ししてやろうと銃を調達しようとする。そんな彼のためにガオが叔父のシィに話を通すが、何故かばれて二人とも逮捕されてしまう。

 

二人を釈放させるためにシィは議員を使って手を回し、問題を起こさず台北に返す段取りで釈放してもらう。帰り道、ガオとピィエン、ピィエンの恋人のマーホァは車で夜道を走るが、突然道を外れて脇の田んぼに落ちてしまう。なぜかピィエンが兄貴のガオを呼ぶ声で映画は終わる。ガオに何かあったようだがそれは余韻として残す。

 

田舎に走るガオとピィエンの延々とバイクを走らせる場面はなかなかの見応えもあるものの、やはり全盛期の侯孝賢の迫力には及ばなかった。それでも独特の空気感は健在の一本でした。

映画感想「風が踊る」「珈琲時光」

「風が踊る」

さわやかな、まさに風が吹き抜けて行くような青春映画でした。監督の第二作目で、まだスタイルが確立する前とはいえ、とってもテンポの良い音楽の使い方と軽快な場面転換が楽しい作品でした。監督は侯孝賢(ホウ・シャオシェン)。

 

洗剤の宣伝映画撮影にスチールカメラ担当で来ていたシンホエは、目の見えないチンタイという青年と知り合う。撮影が終わり、台北に戻ったシンホエは、たまたまチンタイに再会、次第に二人は親しくなって行く。まもなくしてチンタイは角膜の移植が成功して目が見えるようになる。

 

たまたま、小学校の代用教員で一ヶ月台北を離れていたシンホエにチンタイは会いに行き、さらに二人は親しくなって行く。そして、チンタイはシンホエにプロポーズする。シンホエは撮影の時の監督と親しくしていたが、結婚まで考える仲ではなかった。しかし、シンホエはその監督とヨーロッパへ旅行に行く予定をしていた。

 

渡欧するまでの一週間、チンタイはシンホエとさらに親密になるが、シンホエが監督と渡欧すると聞いて複雑な気持ちになる。シンホエは、チンタイへの気持ちは変わらないのと結婚の承諾の手紙をチンタイの部屋に残し空港へ向かう。手紙を見たチンタイはシンホエの元へ向かい、空港で抱き合って映画は終わる。

 

当時の台湾の流行歌でしょうか、とにかくテンポの良い曲を散りばめた上に、シーンからシーンへの切り替えがとってもリズミカルで、それでいて、面倒なエピソードは排除して、チンタイとシンホエの恋物語を小気味よく描いて行くストーリーが本当に風がそよぐようにさわやか。見終わって、気持ちよくなれる一本でした。

 

珈琲時光

特に起承転結のあるドラマでは無く、日常の一瞬を捉えたという感じの物語で、全体に長回しを多用し、屋内シーンはフィックスで延々と会話を映し出して行く映像は明らかに小津安二郎を意識した作りになっています。面白い作品ですが、ちょっとしんどいかった。監督は侯孝賢

 

主人公陽子が、自室で洗濯物を干している場面から映画は始まる。彼女は台湾の音楽家江文也を研究しているという設定だが、ほんのワンシーンしか出てこないので、その辺りは解説頼み。この日、知り合いの肇の古本屋へ行き、江文也のCDを手に入れる。肇は鉄道マニアで、鉄道の音集めを趣味にしている。

 

この日、陽子は実家に帰ってきた。両親に妊娠していることを告げ、台湾の男性が父親だが結婚する気はなく、一人で育てるという。娘の言葉にこれという反応もしない両親。淡々と日常が描かれて、再び陽子は東京へ戻る。

 

映画は、肇と陽子の日常をただひたすらカメラが追って行く形で展開し、終盤、両親が東京へ出てくるものの特に大きなドラマ展開はない。そのまま、列車のカットで映画は終わっていきます。なんとも淡々とした映画です。凡作ではありませんが、じゃあなんなのだろうと感じてしまう一本でした。

映画感想「ゴジラVSコング」「デカローグ5」「デカローグ6」

ゴジラVSコング」

無駄に超大作のB級娯楽映画という感じで、支離滅裂な展開も全て大作という勢いで突っ走って行く。今やアメリカ人も怪獣映画のなんたるかを忘れてしまった感のある映画ですが、退屈せず楽しめたのでいいかと思う。監督はアダム・ウィンガード

 

水辺でくつろぐキングコングのシーンから映画は幕を開ける。背後にのどかな曲、ここは髑髏島のコングドームの中である。一人の少女ジアがコングに、人形らしいものを見せる。コングはドームに入れられていることには不満という様子。

 

そんな頃、アメリカのエイペックスという会社がゴジラに襲われる。この会社が何か隠していると潜入していたバーニーはゴジラに破壊された会社の建物の中で何やら奇妙な機械を見つけるが、次に行った時には消えていた。

 

一方、特殊機関モナークは巨大生物のルーツを調べていて、地球の地下深くにある巨大空洞がそこではないかと検討、コングを案内役に仕立てる計画を立てる。そしてコングは船に乗せられるが、それを察知したゴジラがコングを襲う。ゴジラがコングを海の中に引っ張り込み、コングは瀕死の状態で、ゴジラとの戦いに敗れる。

 

バーニーはというと、ジョシュやシモンズらとエイペックスの内部を調査しているうちに地下の研究室へ辿り着きそこから海底トンネルで香港へ連れて行かれる。そこには、巨大ロボットメカゴジラがあった。

 

ゴジラは、香港での異常を認めて香港に向かうが、コングは、南極の地球の地下空洞への入り口から地球の奥深くへと向かっていた。そこで、天地が逆さまになったような巨大空間に辿り着き、自分の居場所であるような玉座のようなものを見つける。

 

香港へ着いたゴジラは、地面に熱線を放射して、それはコングのいる空洞まで届き、コングも香港へ現れる。再度世紀の対決となるが、今度もゴジラが勝ち、コングは瀕死の状態となる。そこへ、エイペックス社が開発したメカゴジラが制御を失って登場して大暴れ、ゴジラと戦い始める。圧倒的な強さでゴジラは劣勢となるが、コングが息を吹き返し、ゴジラと一緒にメカゴジラをやっつける。というより、なんでメカゴジラが人類の敵なのかは全く描かれていない。この辺りかなり適当である。

 

メカゴジラをやっつけたコングとゴジラゴジラは海に帰っていき、コングは地下空洞のコングランドで暮らす姿で映画は終わる。登場する人間のキャラクターはストーリーに何の意味も加えない上に、別にいなくてもいいやんという展開。ジアというコングと話せる耳の聞こえない少女見必要なのかという感じだし、メカゴジラを操る小栗旬のキャラは完全に無くていい。エイペックスがいかに悪徳企業なのかというカリスマ性も描写されていない。そもそも、ゴジラやコングと人類という対比を完全に無視して、ただCG満載のバトルシーンだけを見せ場にしただけの映画で、娯楽映画と割り切ればそれでいいのかもしれないが、何か違う気がする。そんな映画でした。

 

「デカローグ5 ある殺人に関する物語」

これは傑作でした。映画はモンタージュで語るべしというのを徹底した絵作りと、緩急のつけた展開、先の読めない面白さを堪能しました。死刑に対する疑問を真っ向から見事に描いた作品。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

一人の男がバケツを持って歩いてくる。これから自分のタクシーを洗うのだが、階上から雑巾を投げられあわやというところで難を逃れる。一人の新人の弁護士ピョートルが、最後の実習を終え、自分の意気込みを話している。一人の若者ヤツェックが、何が不満なのか何かにつけて、反抗的なことを繰り返しながら歩いている。陸橋の上から石を落として事故を起こさせたり、カフェで悪戯をしたり、公衆トイレで男を突き倒したりする。カフェで持っていたロープを手に巻いている。タクシー運転手は、気に入らない客は巧みに逃げたりして流している。時々、ピョートルのカットも挿入される。

 

ヤツェックは、一台のタクシーに乗る。それは冒頭で車を洗っていたタクシーである。ヤツェックは、道路脇に止めさせ、背後から運転手の首を絞める。しかし、なかなか殺せないので、シートにロープを縛り付け、外から棒で殴る。そしてひきづり出して、湖のそばまで連れてくるがまだ息がある。運転手はダッシュボードの金を家族に渡してくれと懇願するがヤツェックは石でとどめをさす。

 

法廷では、ヤツェックの裁判の判決が言い渡された後だった。弁護士は新米のピョートルで、判決は死刑だった。ピョートルは自分の力不足ではなかったのかと判事に問い詰めるが、判決は妥当だという。死刑執行の部屋の準備が進み、そして死刑当日、ピョートルはヤツェックに呼ばれて面談に行く。ピョートルにはまだ疑問があった。ヤツェックは、若い頃の話などをピョートルに語る。しかし、待ちきれなくなった検事らは話を終え、強引にヤツェックを引き連れ刑場へ。死にたくないと叫ぶヤツェックを拘束して縄をかけ執行する。じっと見つめるピョートル。

 

一人車の中で、叫んでしまうピョートルの姿で映画は幕を閉めます。タクシー運転手、ヤツェック、ピョートルの三人の姿を順に描きながら一つにまとめて行く構成の面白さもさることながら、インサートカットを巧みに挿入しながら絵作りをして行く演出は見事というほかありません。傑作と呼べる作品だったかと思います。

 

「デカローグ6 ある愛に関する物語」

特異な物語ですが、愛するということ、男と女の心の複雑さを、思春期の青年と男好きの女性を通して描き切る物語は見事でした。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

郵便局の窓口に一人の女性マグダが、為替の送金通知がきたとやってくるところから映画は幕を開ける。受け付けたのはトメクという青年で、そんな送金は来ていないので、また通知が来たら来てくださいと帰らせる。トメクは夜、望遠鏡を盗み出す。その望遠鏡で隣の棟の女性マグダの部屋を覗く。トメクはマグダが好きだった。

 

マグダは男を引き入れてはSEXをしている。トメクは無言電話をしたり、情事の最中にガス屋を向かいに呼んだりしてマグダにちょっかいを続ける。為替の通知を勝手に作って郵便局に呼んだりする。トメクは友人の母親と二人暮らしだった。通知が来るのに送金がないと郵便局で苦情を言ったマグダは、局長に追い返される。そんな彼女をトメクは追いかけて、自分が通知を書いていたこと、部屋を覗いていたことを話す。そして愛していると告げる。

 

その夜、マグダはわざと男を連れ込みトメクに見せる。そして男はトメクを呼び出し殴る。トメクは牛乳の配達も請け負っていて、マグダの部屋に行った時に出てきたマグダに、喫茶店で一緒にアイスクリームを食べてほしいという。そしてついにデートが叶う。帰り道、マグダはトメクを部屋に招き、挑発して誘惑する。遊ばれたと感じたトメクは部屋を飛び出す。マグダは紙に謝罪の言葉を書いて窓で見せるが、トメクは自宅で手首を切り病院へ搬送される。

 

マグダはあの夜からトメクを見かけないので家にいったり、郵便局へ覗きに行ったり。自分から双眼鏡でトメクの部屋を覗いてみたりする。トメクと住んでいる母親に、入院していると聞き、郵便配達人には、手首を切ったらしいと聞く。どんどん気になって行くマグダは、郵便局の窓口にトメクが座っているのをやっと見つけ入って行くと、トメクは、「もう部屋は覗かない」と答えて、マグダのカットで映画は終わる。

 

19歳のトメクが大人の女性に心奪われ、そして、本当の愛を知って一つ成長する僅かな物語を見事に描き切っています。上手いという他ない秀作でした。

映画感想「デカローグ1」「デカローグ2」

「デカローグ1 ある運命に関する物語」

これはちょっと辛い話でした。神の存在と命の物語なのですが、そこにパソコンを絡めたストーリー作りがちょっと興味深いのですが、ラストは辛かった。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

女性が歩く姿、男性が歩く姿からタイトルの後、パヴェウと父クシシュトフの仲の良い親子の姿に物語は移ります。一緒にチェスをして、相手を負かして大喜びをしたりする親子で、父は大学の教授らしい。家にはパソコンがあり、息子のパヴェウは、パソコンからドアを開いたりするプログラムを作ったりして遊ぶいわば科学少年。

 

ある時、パヴェウは父に、死ということはどういうことなのかと問いかける。魂とか神とかを信じないクシシュトフは返答に困ってしまう。そんな時、普段ついていないパソコンの電源がついていて戸惑う。クシシュトフはクリスマスプレゼントにパニスケート靴をプレゼントする。近くに池があり、クシシュトフの計算では、15メートル沖まで行かなければ破れないからと話す。

 

学校が終わっても帰ってこないと、パヴェウの友人の母がクシシュトフのところへやってくるが、それほど心配せず受け答えする。仕事の書類の家のインク瓶が突然割れてシミが広がる。外では救急車の音がし始める。さっきの母が狂ったように池のところへ行く。大勢が集まっているのでクシシュトフもそこへ行く。さっきの母の友達は車の中で遊んでいただけだと言って母のところにやってくる。パヴェウもその子と遊んでいたと聞いたので、クシシュトフはその子に尋ねると、パヴェウはスケートをしに行ったのだという。

 

クシシュトフは、池から引き上げる死体らしいものを見てしまう。クシシュトフは近所で建設中の教会に駆け込む。そして最初は祈るものの、祭壇を壊して号泣。家に帰るとまたパソコンが電源が入っている。こうして映画は終わって行く。辛いラストです。何かの存在を語るようなシーンを挿入しながら、戸惑うクシシュトフの姿、それでも結局、神は子供を助けてくれなかった虚しさ、一つ一つのシーンに意味を持たせて語って行く絵作りのうまさに圧倒されます。いい作品でした。

 

「デカローグ2 ある選択に関する物語」

これは面白かった。一見、深刻なお話なのだがラストでひっくり返される展開とその皮肉に唖然としてしまいました。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

一人の老医師が自宅に帰り、風呂に湯を注ぐのだが、苦しげにその場にうずくまる。玄関に近所の男がやってくるが、何事もなく受け答えする。ある仕事の帰り、最上階に住むドロタという女性が訪ねてくる。夫のアンジェイの病状を確認したいというが、家族との面談は水曜日だからと帰ってもらう。ドロタは老医師の犬を2年前に轢き殺していた。

 

ドロタの執拗な申し出に、老医師は別時間に面談することにし、事前にドロタの夫の病状を再確認する。老医師はドロタに、アンジェイの病状は芳しくないというが命がどうかということまで話さない。ドロタはどうしてもどちらかはっきり聞きたいのだという。その場はドロタを追い返したが、後日切羽詰まったようにドロタが訪ねてくる。実はドロタは妊娠しているのだがアンジェイの子供ではなく、友人の子供なのだという。ドロタは音楽家で同じ音楽仲間の男性と親しくなったとのことだった。

 

もし、アンジェイの命が短いなら、このまま子供を産みたい。しかし、助かるのなら中絶するつもりだという。ただ、ドロタは二度と妊娠できない体なのだという。それでもはっきりしたことを言わない老医師に、ドロタは、諦めて中絶手術の予約を入れる。

 

手術の朝、ドロタはベッドで眠るアンジェイの姿を見つめる。そして、再度老医師を訪ね、一時間後に中絶するのだと告げるが、老医師は、アンジェイは助からないから中絶はやめなさいと初めてはっきり告げる。

 

ドロタが帰った後、老医師のところへ一人の男性が訪ねてくる。なんとそれは奇跡的に回復したアンジェイだった。そして子供が産まれることを喜び、協力してくれた老医師に礼を言って映画は終わって行く。

 

ストーリーの中身も面白いがラストのどんでん返もあっけに取られるほど面白い。練りにねった作品という感じで、アンジェイがベッドから傍のぽたぽた水が滴るのを眺めたり、挿入されるシーンも秀逸で、中編とは思えない充実した映像表現に圧倒されました。

映画感想「5月の花嫁学校」「デカローグ7」「デカローグ8」

「5月の花嫁学校」

スケールの小さなメッセージを描くためにああでもないこうでもないとエピソードを重ねてダラダラとしてしまった感じの映画でした。絵作りの面白さは買いますが全体にテンポが実に悪いのと、センスがないのか一つの映像にまとめあげることがうまくいっていない。90分くらいで締めたら良くなったかもしれない映画でした。監督はマルタン・プロポ。

 

窓を開ける、髪の毛をビシッと揃えるといういかにも規律正しいと言わんばかりの映像から映画は幕を開けます。この日、ヴァン・デル・ベック家政学校の新入生を迎える日だった。ポーレット、ジルベルト、マリー=テレーズらは颯爽と新入生の前に現れる。時は1967年、田舎に立ついわゆる花嫁学校である。今から考えるといかにも古臭い規律を延々と説明するポーレット。理事長で夫のロベールは経営には全く興味がなく、若い生徒を見て楽しむすけべ親父である。

 

物語は、何かにつけ古臭い規律で縛ろうとするポーレットたちに対しての生徒たちの反抗がある意味コミカルに描かれていく。ある時、ロベールが喉に食べ物を詰まらせて急死、学校の資料を調べていたポーレットたちは、すでに破産に近い財政状態であることを知る。早速ポーレットと義妹のジルベールは、債権者の銀行へ行くが、そこでポーレットは元彼のアンドレと再会する。一気に燃え上がる二人の恋。もう展開は支離滅裂になる。

 

そんなこととは知らないジルベルトは、アンドレに一目惚れしてしまう。学内では生徒たちの中で恋人と密会する子や、レズビアンの関係になる二人などのエピソードが挿入される。

 

そんなドタバタの中、学校はパリでの博覧会に出る話が持ち上がる。全員がバスに乗る時になり、ジルベルトはポーレットがアンドレと会っているところを目撃、失恋したジルベルトは吹っ切れて華麗に変身する。ポーレットたちも、古臭い考え方に良い加減うんざりしていたのだ。時は1968年、パリでは5月革命が勃発していた。

 

バスに乗ってパリに向かった生徒たちだが、途中で前に進めなくなり、ポーレットら全員バスを降りて颯爽と田舎町をパリへ突き進むことに。突然踊り出し、ポーレットが途端に自由を叫び始め、生徒たちもそれに賛同してミュージカルシーンのように行進していって映画は終わる。

 

やりたいことはわかるのだが、コネ回しただけのエピソードの羅列のテンポが実に悪く、思い切って三分の二くらいに再編集したら面白い映画になったかもしれない一本でした。

 

「デカローグ7 ある告白に関する物語」

これもまた良かった。紋切り型で終わるエンディングに、映像で綴ってきた何十倍ものメッセージを投げかけてくる余韻に圧倒されます。力のある監督の演出とはこれだと言わんばかりでした。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

公営住宅でしょうか、子供の鳴き声を背景にカメラが建物を捕らえます。一室に灯りが灯っていて、中に一人の少女がうなされている。若い女の人があやそうと来ますがもう一人の年配の女性が抱き上げてあやします。カットが変わり学校の事務局にさっきの少女マイカが出国の申請をしている。子供の分はまた取りにくるからと帰る。

 

子供演劇を見ている年配の女性エヴァとその横に少女アンカ。舞台上の役者たちとの交流でアンカは舞台へ上がる。一方袖からマイカがアンカを呼ぶ。実はマイカは16歳の時に子供を産んだ。その子がアンカだが、当時校長をしていた彼女の母エヴァがその子供を取り上げ育てていた。すでに6年が経っていた。マイカはそんな母から子供を取り戻すべく計画し実行に移した。

 

イカはアンカを連れて父親である男性の家を訪ねる。当時、その父親は国語の先生で、エヴァは説き伏せて娘と別れさせ子供を自分の子供として届けたのだ。マイカはアンカを自分の子として変更させるべくエヴァに連絡をするがエヴァは了承しなかった。マイカはアンカを連れて男の部屋を後にして遠くへ逃げるべく出て行く。マイカはアンカに自分が本当の母親だと何度も話すがアンカは理解できない。眠るとうなされるアンカにマイカはヒステリックに対応してしまう。

 

男はエヴァに連絡をし、エヴァは夫とマイカを探しに出る。男もマイカを探しに出るが見つからない。マイカは駅に行くが次の列車は2時間後だという。事情を察した駅員の女性はとりあえず駅舎で休むようにいう。そこへエヴァが訪ねてくる。駅員は適当な返事をするが、目を覚ましたアンカを見つけてしまう。

 

やがて列車が到着する。マイカはアンカを残して列車に飛び乗る。エヴァに抱かれていたアンカはエヴァを振り解き列車を追いかけ、さって行く列車をじっと見つめる。アンカはマイカのことを理解したのかもしれない。本当の母が去って行くのを察知したのかもしれない。そんなアンカをじっと見つめるエヴァ夫婦のカットで映画は終わる。

 

最後まで結論は見えないのですが、ラストシーンに全てが凝縮された気がします。見応えのある映画でした。

 

「デカローグ8 ある過去に関する物語」

少し入り込みにくいドラマでしたが、無駄のない画面作りで物語を描いて行く展開はこれもまた見事です。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

大学教授のソフィアがジョギングをしている場面から映画が始まる。この日、大学に行った彼女は、アメリカから来たエルジュビェタという女性を紹介される。彼女も聴講生としてソフィアの授業に出たいというので参加させる。その授業の中で学生の発言にエルジュビェタも意見を出してくる中で、ある少女の1943年の出来事を引用してきた。それはソフィアの話でもあった。

 

ワルシャワで、幼い少女だったユダヤ人のエルジュビェタは、匿われていた家族から次の家族へ移るのに後見人とある家族を訪ねた。ところが、断られてしまう。なんとか後見人の知り合いの家族に匿われ、2年を過ごして無事生き延びたのだ。

 

ソフィアはその時連れて行かれた建物にエルジュビェタを連れて行くが、今は別の人が住んでいる。仕立て屋をしているあの時の人物の場所を教えて、エルジュビェタは訪ねるが、その男は話題を逸らせて話すことはなかった。エルジュビェタが帰った先を扉の影から見つける男は、外にいるソフィアを認める。この男のカットで映画は終わって行く。

 

少女時代のエルジュビェタが、匿われるのを拒否される話が宗教的な部分を絡めた理由とゲシュタポに絡めたの理由とが交錯し、一瞬理解しないまま最後まで見たので、ちょっと話が見えなかったのが残念。でも、それほどワンカットも逃せない作りになっているのはさすがという感じでした。

映画感想「いとみち」「デカローグ3」「デカローグ4」「キングコング対ゴジラ」

「いとみち」

典型的なローカル映画かと思っていましたが、徹底的な津軽弁を駆使した映像作りが面白く、心地よい空気感でラストまで引き込まれていく秀作でした。少々、主人公のキャラクター作りの引っ込み思案の演出がくどかった気もしますがあれはあれで良いのかもしれません。自宅やカフェの美術のさりげなく雑多感も良かった。監督は横浜聡子

 

高校の教室、主人公の相馬いとは何事にも引っ込み思案で内気、しかもコテコテの津軽弁なので自分の気持ちも素直に伝えにくい性格だった。母は彼女が幼稚園の時に病気で亡くなり、父と祖母と三人暮らしだった。父が大学の教授で、この日も自宅に生徒を呼んで津軽弁の話をしていた。いとは、幼い頃から祖母の津軽三味線を見て覚え、地元のコンクールで賞をもらった腕前だったが、このところ三味線にも手をつけていなかった。

 

何をするでもなく目標のないいとは、何気なくスマホを触っていて、メイドカフェのアルバイト応募のサイトを見つける。そして軽い気持ちで電話をし、青森まで出かけ、その場で採用されてしまう。映画はこうしてメイドカフェで働くいとが、同僚のメイドやしっかりした店長、気の良いオーナーらとの交流で少しずつ気持ちがほぐれていく展開となる。いつも電車で頑張れと励ましてくる女子高生とも親しくなっていく。

 

そんなある時、オーナーの成田が、警察に捕まってしまう。昔の仲間の仕事を手伝ったために罪に問われたのだ。閉店を覚悟した店長はいとたちに退職金を渡して一ヶ月後に店を閉めると話す。オーナーの逮捕のことで父と喧嘩したいとはそのまま家出し、電車で知り合った友達のところへ行く。一方、悪気もなかった父も居づらくなり登山に出ていく。

 

最後の勤めをするいとの店に突然父がやってくる。いとは店長に無理を言って自分でコーヒーを入れて出す。父は帰りに、津軽弁で頑張れと言う。いとは決心をし、この店で三味線を弾きたいと申し出る。そして、祖母の元で一緒に三味線を弾いて感を戻して、メイド仲間も、常連さんもみんな協力し、メイドカフェ+三味線ライブの企画が進む。

 

そして当日、いとの祖母や常連さんらも含め大勢のお客さんの前でいとは三味線を弾く。後日、父と一緒に山に登るいとの姿。頂上でいとは大きな声で叫ぶ、彼方でいとの友達が手を振るカットで映画は終わる。

 

これと言うドラマティックなものもないたわいないストーリーですが、一人の女子高生の揺れ動く思春期の心が前に進み始める一瞬を捉えた画面がとっても爽やかで心地よい。傑作とかではないけれど、心に残る秀作でした。

 

「デカローグ3 あるクリスマス・イヴに関する物語」

これもまた良かった。ちょっととっつきにくい展開の話ですが、俯瞰を使った画面の構図が見事で美しい上に、さりげなくすれ違う人物の使い方も見事で、シンプルな話を映像に仕上げていく手腕に脱帽。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

イヴの夜、一人の男が車から降りようとしている。彼はサンタクロースの格好をしている。傍をもみの木を引きずった男が過ぎていく。サンタクロースの格好をした男はおもむろに自宅を訪ねる。そして家族にプレゼントを渡す。彼はこの家の夫ヤヌーシュである。

 

ここに一人の女エヴァが施設にいる叔母を訪ねクリスマスのお祝いをし、ミサに出かける。ミサにはヤヌーシュの家族も来ていて、ヤヌーシュは後ろにいるエヴァを見つける。ミサの後自宅に帰り子供達も寝かせた後ヤヌーシュは妻と話していると玄関のベルが鳴る。ヤヌーシュが出ると誰もいない、と思ったらエヴァがガラスに映る。この演出が実に上手い。夫が朝から行方不明なのだと言う。ヤヌーシュは、商売道具のタクシーが盗まれたらしいと妻に嘘を言って、警察に連絡させる一方、自分もエヴァのところへ行く。

 

ヤヌーシュとエヴァはヤヌーシュにタクシーで救急センターへ行くが、そこにエヴァの夫が担ぎ込まれた様子はない。ヤヌーシュとエヴァは警官の前を猛スピードで走り抜けたのでパトカーに追われる。止められたものの、自分の車なのでお咎め無く、車が見つかったことにしてその場を逃れる。そしてエヴァを家まで送ると車を動かす。

 

家についたエヴァは、夫が戻ってるかもしれないからと、ヤヌーシュを待たせるが誰もいないので、ヤヌーシュを家に入れる。エヴァはその前にいかにも二人で住んでるかに見せるため歯ブラシを揃えたりする。ヤヌーシュは洗面所へ行き二つの歯ブラシや髭剃りを確認する。しかし、エヴァは実は一人だった。

 

ヤヌーシュはエヴァを彼女の車を置いてある場所まで乗せる。なぜあんなことをしたのかと問いつめるヤヌーシュに、エヴァは、一人でいることが寂しかった。もし、ヤヌーシュに会えなかれば覚悟していたと、ポケットの薬らしきものを捨てる。エヴァは自分の車に乗り去る。朝になりヤヌーシュが自宅に戻ると妻が待っていた。ヤヌーシュの言葉に妻は「エヴァね」と答える。二人は寄り添って映画は終わる。

 

ヤヌーシュとエヴァはかつての恋人なのかもしれない。言葉の端々で推測しながら、いったいどうなるのかと言うサスペンスと、彼らの関係や妻との関係などミステリアスな部分がどんどん膨らんでいく展開に引き込まれます。俯瞰で捉える絵作りも美しいし、次々挿入される脇役の登場も面白い。優れた一本でした。

 

「デカローグ4 ある父と娘に関する物語」

これは傑作でした。一通の中身の見えない手紙が生み出すサスペンスフルな父と娘の物語、とりわけラストの処理には圧倒されてしまいました。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

父ミハウは間も無く仕事で出張する予定で、娘のアンカが見送る段取りになっていた。アンカは、ミハウの机の上にある一通に手紙が気になっていた。そこには「死後開封すること」と書かれていたのだ。アンカは空港でミハウを見送った後自宅に戻り、さっきの手紙を見つける。開けることをためらいながらも、思い切って開いてみたら、中にもう一通の手紙が入っていた。その当て名は自分になっていて、どうやら自分を産んだ後数日で死んでしまった母からのものだろうと推測された。

 

手紙を開こうとしたがためらわれ、アンカは母の筆跡を真似て封筒をもう一通作る。まもなくしてミハウが帰ってくる。アンカは引き出しの中に「死後開封すること」と書かれた手紙を開封したこと、そして中にあった母からの手紙を読んだことを明かす。そこには「ミハウはあなたの実父ではない云々」のことが書かれていた。ミハウは戸惑い、思わずアンカにビンタをしてしまう。

 

夜、ミハウとアンカは話し合う。ミハウは一枚の写真を見せ、写っている男性のいずれかが実父だと説明する。アンカは、なぜ今まで話さなかったのかなどなどミハウに詰め寄るが、話す機会を失ったのだと答える。アンカは、血が繋がっていない自分を待ってたのではないかと、服を脱いで迫るが、ミハウは優しくアンカに服をかける。

 

翌朝、アンカが起きるとミハウの姿がない。窓からミハウを見つけたアンカは、ミハウが家を出ていくと思い後を追いかける。アンカはミハウに、あの手紙は自分が筆跡を真似て書いたもので、本物は開封していないと告白する。そして本物の手紙を出してきて、燃やすことにする。しかし燃え滓が残る。残った文面には、「アンカへ、ミハウは…」までしか読めなかった。こうして映画は終わります。

 

小品なのにこの圧倒的な作り込みの凄さはなんなのだというほど打ちのめされてしまいました。焼いた手紙は本当に本物の方なのか、それさえも疑ってしまう練られた脚本が見事。ここまで描かれると、平凡な映画は見れません。それほど素晴らしい一本でした。

 

キングコング対ゴジラ」(デジタルリマスター版)

作れば売れた時代のかなり適当な脚本と大人の干渉に耐えられないほどなちゃらけた展開ではあるけれど、さすがに東西二大怪獣の決戦というだけあって、セットがすごくて、見せ場の連続のいかにも大作という作品でした。監督は本多猪四郎

 

地球温暖化で北極近海の氷山が溶けてゴジラが復活する。一方、大手製薬会社の宣伝目的で南方の島にいる魔神を調べに行き、キングコングを発見、まんまと眠らせて日本へ搬送する。

 

ところが、ゴジラは帰巣本能で日本上陸、一方途中で目覚めたキングコングは動物の本能でゴジラのいる日本へ向かう。こうして二大怪獣の決戦が始まる。

 

例によって、ゴジラは有刺鉄線を破壊したり、崖に突き落とされるも応えずに爆進。一方、キングコングは一旦はゴジラ放射能で逃げてしまうが、雷を浴びて強くなり、国会議事堂へ登る。ところが麻酔で眠らされ、再度ゴジラにぶつけるために吊り下げられてゴジラの元へ。

 

再度の決戦となるが今度はキングコングも負けていなくて、熱海城を舞台に大決戦の末海に落ちる。キングコングだけ浮かび上がってきて南の島に泳ぎ去り映画は終わる。多分、ゴジラは海の中ということです。

 

まあ、いろんな矛盾はさておき、さまざまな舞台で大暴れする大怪獣の迫力が楽しいし、やはりセット撮影により面白さが倍増します。さすが東宝でした。

 

 

 

 

映画感想「Arc/アーク」「デカローグ9」「デカローグ10」

「A rc/アーク」

シュールな物語なのですが、そのシュールなテーマをもうちょっと凝縮させたほうが良かったのではないかと思います。いかんせん、ものすごく長く感じた。実際二時間以上あるのですが、前半部分をあそこまで描く必要があったのかはわかりません。結局、命、不死についての物語なのかと思うのですが、前置きとしての死体処理の技術シーンが結局終盤にそれほど意味を加えていない気がする。監督は石川慶。

 

17歳というテロップと、傍に生まれたばかりの赤ん坊と寝ている一人の女性、主人公のリナのシーンから映画は始まる。カットが変わり、19歳のテロップ、ある怪しげな倉庫、中では女たちがエロティックなダンスを披露している。そこへ、いかにもVIPという出立ちの女エマが入っていく。席についてステージを見ていると、一人の女リナがひらひらと出てきて好き勝手なダンスをする。結局追い出され、外で座り込んでいると、エマがやってきて名刺を渡す。

 

その名刺のところへ来たリナは、そこには死体を生きた人間のように加工するボディワークスという技術の工房があった。ポーズを決めるのは、天性の才能があるエマで、あやつり人形のように死体を動かしてポーズを決めていく。このシーンはなかなか面白い。

 

エマの工房で働くようになったリナは、次第にのめり込んでいく。ある時、エマの弟で科学者でもある天音と出会う。それからまもなくしてエマは理事長の座を追われて出ていく。

 

30歳のテロップ、今やこの工房の代表となったリナの姿、一方天音はその頃、人間の細胞が永遠に再生を繰り返す不老不死の技術を完成する。そんな天音を批判的に見つめるエマ。エマはかつてのパートナーのボディワークスと自宅で暮らしていた。リナは天音と親しくなり、天音から不老不死の施術を提案される。やがて天音とリナは不死の体となり、世界的にもその施術を施されるようになる。そして天音とリナは結婚する。

 

50歳、天音とリナは、島に暮らしていた。不死の施術ができないあるいはしない選択をした人々の施設天音の庭を運営しながら、平穏な生活をしていた。しかし、先天的な遺伝子異常があった天音は、突然体調が異常になりまもなく死んでしまう。しかし、死の間際、精子を冷凍保存していた。

 

89歳、リナは相変わらず若い姿のままだが、傍に5歳の女の子ハルがいた。ある時、余命幾ばくもない妻を施設に入居させるためにリヒトという男性がやって来る。妻を施設に入れて自分は海辺に住み始めるが、リナはリヒトが若き日に病院で置き去りにした息子だと知る。やがてリヒトの妻は亡くなり、半年ほどして、船で沖に出たリヒトは帰って来なくなる。

 

135歳、リナは定期的な施術を拒み、今や老人となっていた。傍には娘の姿になったハルがいた。浜辺で遊ぶハルたちを見ながら、リナは空に自分の年老いた手をかざす。それは、天音が亡くなった時ボディワークス処理した天音の年老いた手を思い出させるものだった。こうして映画は終わっていきます。

 

不死というものを捉えながら、肉体の衰えと命の物語をシュールに描いた感じの作品なのですが、どうも、その意図がはっきりと迫って来ないのは、あえてそうしたのか、上手く描写できなかったのかわかりませんが、思い切ってもっと濃厚な映像に仕上げたらもっと迫るものがあった気がします。

 

「デカローグ9 ある孤独に関する物語」

面白かった。疑念が疑念を生み、一方で愛情がどんどん膨らんでいく夫婦の物語がウィットに富んだ展開でどんどん進んでいく。なるようになるのかと思えば、とっても良いお話でエンディング。そのラストの締めくくりにほんのり感動してしまいました。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

外科医のロマンが、医師から、検査の結果不能であることがはっきりしたと診断されるところから映画は始まる。帰り道、車を暴走させてバックミラーを吹き飛ばしたりする。家に帰って、妻ハンカに言い出せず雨の中立っているとハンカが中に招いてくれる。妻は、愛情は下半身だけではないと慰める。

 

ある時、ロマンが電話に出ると妻宛の若い男性の声で、要件を言わず切れてしまう。一抹の不安の中、たまたま車のダッシュボーに学生のものらしいノートを見つける。ロマンの妻への疑念が高まる中、ロマンは仕事に行くと言って、部屋の前に隠れていると、案の定若い学生風の男が出てきて、妻が見送る現場を目撃する。ロマンは自転車を狂ったように走らせて、川に飛び込む。不能となった自分の不甲斐ない切なさも重なり涙ぐむ。

 

ロマンがクローゼットに隠れていると、ハンカを訪ねて若い学生がやってくる。ハンカは夫が最近何やら落ち込んでいる様子なので、2人の関係はここまでにしようと別れ話をするが学生は執拗にハンカに食い下がる。しかし断固ハンカは彼を追い出す。そのあと、ハンカはクローゼットに隠れているロマンを見つけ、2人に子供もいないからだと話し、養子をもらうことにする。

 

ハンカは気分を変えるためひとりスキーに出かける。しかし、学生は執拗にハンカを追いかけてスキー場へ向かう。一方、ロマンはたまたま学生がスキーを積んで出かけるのを見かけ、まさかと思って学生のバイト先に確認するとスキーに行ったという。ロマンは、やはりハンカと学生の関係は続いていたと思い、手紙を書いて、自転車で飛び出す。一方、ハンカがリフトを待っていると追いかけてきた学生が声をかける。ハンカは、ロマンに疑われてはいけないと、自宅に電話するが通じない。慌てて帰りのバスに乗り自宅へ向かう。

 

一方ロマンは自暴自棄になって自転車を走らせ、道路から転落し大怪我を負う。自宅に着いたハンカは夫の姿が見えないので必死で探し、電話のところの手紙を発見、全てが終わったと思った矢先、入院先からロマンが自宅に電話をする。その電話をハンカが取り映画は終わる。

 

不能だと診断され打ちのめされたもののハンカのことを愛しているロマンの愛おしいほどの恋心、一方、ひと時のアバンチュールに浸ってしまったハンカだが、夫の愛情に目が覚めてロマンの元に戻るハンカ。なんとも言えない夫婦愛が一気に放出してくるクライマックスがとっても素敵な作品でした。

 

「デカローグ10 ある希望に関する物語」

これもまた面白かった。金が兄弟関係を狂わせていくなんとも皮肉な展開から、ほのぼのしたラストシーンへ流れるストーリーがなかなか胸に迫ります。良い作品。監督はクシシュトフ・キェシロフスキ

 

ロックバンドでしょうか。熱唱するアルトゥルを兄のイェジーが迎えにきたところから映画は始まる。父が孤独死したらしい。葬儀を終え、父の自宅に行ってみると、窓は釘打ちされ、水槽の魚は放ったらかし、金庫を開けてみると、切手のコレクションが大量に見つかる。そこへ、金を貸していたという男がふらっとやってくる。イェジーたちは父の放蕩ぶりに呆れながら、収集している切手もたいしたことはないだろうとイェジーの息子のために、ツェッペリンの3枚の切手をみやげに持ち帰る。

 

残りの切手も金に換えないととアルトゥルは切手の交換会の会場へいく。そこで会長と言う人に会い、後日、父の家でイェジーも交えて話すことに。そしてその会長がいうには、イェジーたちの父は物凄いコレクターで、コレクションの品は億単位の値打ちがあると言う。驚いたイェジーは、息子に持ち帰った切手も値打ちものだろうと息子に聞くと、交換したと言う。イェジーはその交換相手に取り戻しに行くがすでに売ったという。売り先の切手商のところに行くと、切手商に法外な値段をふっかけられる。アルトゥルは、再度その切手商を尋ね巧みに引っ掛けて脅し取り戻す。

 

一方、父のコレクションの値打ちを調べていたイェジーは、ある三連シリーズ切手を見つけ、その切手のうち二枚が揃っていて、あと一枚の行方を父が探していたというノートの書き込みを見つける。アルトゥルは友人の勧めでドーベルマンを番犬に置くことにする。イェジーとアルトゥルが、再度切手商のところに行くと、その最後の一枚のある場所を知ってるからと血液検査の書類を持ってこいという。

 

イェジーたちが検査結果を持っていくと、実は最後の一枚は切手商が持っていて、孫の少女の腎臓移植のドナーになってくれれば譲るともちかけられる。イェジーの腎臓と切手を交換することになり、イェジーは病院へ入院、無事手術は終わる。

 

アルトゥルは切手商から最後の一枚を手に入れたが、イェジーが退院の日、アルトゥルはイェジーに、部屋が泥棒に入られ切手全部盗まれたと言う。番犬も役に立たずベランダの警報は音がうるさいとイェジーが切っていた。

 

2人は警察に捜査を依頼するが、後からイェジーは弟が怪しいから調べて欲しいと刑事に言い、一方アルトゥルも兄が怪しいからと刑事に話す。ところが、二人がそれぞれ街に出ると、通りの向こうでドーベルマンを連れた切手商、息子が切手を交換した青年、などが話しているのを見かけ、結局自分たちが馬鹿だったと気づく。

 

イェジーは郵便局で平凡な記念切手を三枚買い父の部屋に行くと、そこにはアルトゥルが平凡な三枚の切手を並べて見ていた。それはイェジーが買ったものと同じで二人で苦笑いして映画は終わる。なんともウィットに溢れた良いお話でした。テンポの面白さと書き込まれたストーリーも見事でした。