くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ミス・マルクス」「アイダよ、何処へ?」「君は永遠にそいつらより若い」

「ミス・マルクス

ロック調の音楽やモダンに編曲したクラシックを挿入する演出が個性的なのですが、映像とうまくマッチさせるだけの感性が整っていないので、とってつけたように音楽が入るのはちょっとどうかと思えた。また、核となる話が見えないので、主人公の家庭の話か、父の意思を継いだ活動家としての姿を見せるのかがどっちつかずになってぼやけてしまった気がします。ただ、映画全体としてはそれなりにまとまって仕上がっているので、駄作というわけではありませんでした。監督はスザンナ・ニッキャレッリ。

 

ロック調の曲に乗せたタイトルの後、1883年、カール・マルクスの葬儀の場面、娘エリノアの挨拶のシーンから映画は始まる。やがて彼女は劇作家エドワードと恋に落ちるが、本妻と離婚する気のないエドワードとは内縁の関係となる。金銭的な感覚に乏しいエドワードと生活を始めたエリノアは、一方で非難するも愛することをやめない。ドイツ労働党からの依頼で、イギリスの労働者の労働環境問題に積極的に取り組み始める。

 

家庭でのギクシャクと、労働党での仕事との物語が約10年余り交互に描かれていく。子供の労働の規制や女性労働の問題などを糾弾していく彼女の姿とともに、不義を続けるエドワードとの家庭における妻としての女性の在り方にも労働という視点から語る姿も描かれていく。

 

やがてエドワードは胸の病に犯され、さらに生活費も苦しくなる中、友人で裕福なエンゲルスの助けもありなんとか日々を過ごしていくが、エンゲルスの死の床で、エンゲルスが使用人に産ませたとされていた子供が実は父カール・マルクスの子供であったことなども判明し、エリノアは落ち込んでしまう。療養に海辺の街に行った夫エドワードも帰って来ず、追い詰められていくエリノア。

 

ところが、二ヶ月以上経って突然エドワードが帰ってくる。エリノアは、使用人の女中にある薬を頼む。老犬の最後のためにという毒薬だったが、女中が薬局に受け取りのファイルを届けて戻ってみると、老犬が居間にいて、奥に行く場面で映画は終わっていく。エリノアは自殺していた。テロップが流れエンドクレジットの中エリノアの活動が語られていく。

 

あまりに巨大なカール・マルクスを父に持ったエリノアら三姉妹の中で、エリノアが父の意思を継いで労働問題を糾弾していく物語なのか、夫エドワードとのヒューマンドラマなのかがはっきり見えない展開な上に、奇抜な演出を目指したのか、仰々しいほどの音楽が突然挿入される演出が映画全体としてまとまりに欠けていて、どうものめり込んでいかない作品でした。

 

「アイダよ、何処へ?」

1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で起きた大量虐殺事件「スレブレニツァの虐殺」の実話をもとにした作品で、正直、重い内容ということもあり映像表現の秀逸さを褒めるだけでいいのか複雑な一本だった。監督はヤスミラ・ジュバニッチ。

 

オランダ軍を中心のNATO国連軍の男たちとその通訳のアイダの姿を捉える映像から物語が始まる。国連の管轄下のスレプレニツァの町に進出してきたスルプスカ共和国セルビア軍に、最後通牒を連絡して空爆依頼をする作戦を詰めているカレマン大佐と町長らの姿に場面は移る。町長が反対するも空爆は決定、しかし、いざとなったら本軍から空爆機がやって来ない。やがてセルビア軍が町に入ってきて町長らは銃殺される。逃げた町民たちは国連軍の基地へ殺到する。しかしその多さに全員を収容できないまま膠着状態となる。

 

国連軍の通訳をしているアイダは、夫と息子が柵の外に残されたと聞き、大佐に頼んで、セルビア軍との交渉役として、元校長をしていた夫ニハドを無理やり柵の中に入れ、そのドサクサに息子二人も柵の中に収容する。そしてセリビア軍のムラディッチ将軍との交渉となるが、ムラディッチ将軍は、国連基地内にいる人たちの中に軍人がいないか確認のため無理矢理セルビア軍の武装兵士を基地内に送り込む。さらに、脱出計画を立てるというカレマン大佐の意見を無視するようにバスをチャーターしてきて次々と柵の外の町民を独自に移そうとし始める。男性と女性と分けて強引に進めるセルビア軍の姿を見て危機感を持ったアイダは、夫や息子たちを、オランダ軍と一緒に脱出させるべく、柵内に残そうと奔走する。しかし、結局、夫と息子らはセルビア軍が用意したバスに乗せられ何処かへ連れ去られる。

 

男たちを乗せたバスはとある建物に到着し、その中で銃殺されてしまう。そして時が経ち、平和に戻った街、アイダは夫と息子たちの遺体を探すが見つからない。アイダは、小学校の教師として復帰し子供たちを教えている姿で映画は終わっていく。

 

オープニングから緊張感あふれる展開と映像で、片時も画面から目を背けられない。アイダが家族を守るために奔走する姿、国連本軍が動こうとせず、焦燥感が募る大佐の姿、そして、どうしようも無く、セルビア軍の行動するままに市民たちに危険が及んでいく流れに胸が張り裂ける思いになっていきます。訴えかけるメッセージは圧倒的なものがあり、映像作品として相当なクオリティの一本ですが、映画を褒めるというわけには単純にいかないものがあることも確かです。じっくりと考えさせられる作品でした。

 

「君は永遠にそいつらより若い」

小説としてはあり得るが映像作品にして脚本にする段階で昇華すべきところはそうすべきだろうと思いますが、脚本力がないのか、薄っぺらい台詞と演出に仕上がってしまったのはちょっと残念。もっと奥の深い物語のように思えるのに通りいっぺんの上滑りの物語に見えてしまいました。監督は吉野竜平。

 

居酒屋で主人公堀貝の就職内定決定で盛り上がるゼミ生たちの会から映画は幕を開ける。この場面のセリフがまず貧相で情けない。原作通りなのかもしれないがここは映像として作るために工夫すべきだろう。遅れて吉崎という同級生がサークル仲間で、住んでいる下の階の子供を勝手に保護していて警察沙汰になった穂峰を引き取りに行ってきて参加、堀貝と話し始めて物語は本編へ。

 

児童福祉士として働くことになる堀貝は穂峰との帰り道、今度会ったら、何故その仕事を選んだかを話すからと別れる。ところが間も無くして、穂峰は死んでしまったと吉崎に聞かされる。堀貝は卒論のアンケートを友人に頼んで回っていて、回収してくれたアンケートをもらう代わりに、授業のノートを写してくることになったが、寝過ごして間に合わなかった。たまたまいた初対面の猪乃木という三回生になんとかノートを借りそこから猪乃木と親しくなる。

 

一方、穂峰の葬儀に行った吉崎は、実は穂峰は自殺だったと聞かされ、前日穂峰と飲んだ吉崎は何も気付けなかったと落ち込んでしまう。堀貝はバイト先の後輩から、自分の性器が大きすぎたので彼女とうまくできなかったと悩みを打ち明けられたりする。堀貝に部屋でしこたま飲んだ猪乃木は、堀貝に下宿まで送ってもらった帰り、耳にある怪我を見せる。

 

色々なことで悩む堀貝は卒業式の後、猪乃木の下宿で飲み明かし、その時、猪乃木が中学時代乱暴され耳の怪我をしたことを話し、いつのまにか猪乃木と堀貝は体を合わせる。そして、堀貝は、吉崎から頼まれていた穂峰の部屋の片付けに向かう。既に片付けられていた部屋で、吉崎は、穂峰の遺言を聞かされる。その言葉の最後に。下の階の少年をよろしくと書かれていたので、堀貝がベランダから入ってみるとネグレクトされた少年がいた。

 

そして三ヶ月が経つ。最後に会ってから猪乃木に会えていない堀貝は、猪乃木の故郷小豆島へ向かっていた。堀貝は和歌山で児童福祉士の仕事をしていた。小豆島へ向かうフェリーの中で猪乃木と電話連絡がつく。カットが変わり、堀貝が仕事で訪問した家のインタフォンを鳴らして映画は終わっていく。

 

とにかく脚本が悪い。エピソードを何もかも羅列していくので、中心の話が完全にぼやけてしまい、だらだら感が漂う上に、脇役への演技付けも力が入りすぎて、ともすると堀貝の存在がぼやけてしまっている。作りようによっては面白い物語なのでいい映画になりそうなのだがちょっと残念な一本だった。

 

 

映画感想「スイング・ステート」「カンウォンドのチカラ」「オー!スジョン」

スイング・ステート

面白かった。期待してなかったけど、楽しめました。アメリカはこれほどまで下品な国になったと言わんばかりの展開を徹底した後にひっくり返す鮮やかさは拍手ものでした。監督はジョン・スチュワート。

 

ヒラリー・クリントンドナルド・トランプの大統領選、民主党共和党の対決場面のフラッシュバックから映画は始まる。そして、タイトルバックに歴代の大統領選の模様が映され、民主党選挙参謀として敗北したゲイリーの事務所へと画面は進む。そんな頃、ウイスコンシン州ディアラーケンの村の町議会、町長ブラウンの町議会の場に反対意見を述べるため乗り込んだジャックの姿が映る。その真っ当な意見具申の動画がネットに広まり、それを見たゲイリーはこれは使えるとディアラーケンの村へやってくる。ジャックを次期町長選に立候補させ、民主党のイメージアップを図ろうとしたのだ。

 

ゲイリーが来てみれば、いかにも長閑な農村というイメージの町で、一晩でゲイリーの名は街の人たちに広まるほど地域の連携がなされている田舎町。ゲイリーはジャックを説き伏せて町長選立候補を決め、参謀として娘のダイアナを巻き込んで都会的な選挙活動を始める。ところが、再選を目指すブラウンのもとに共和党選挙参謀でゲイリーの恋人でもあるフェイスが多額の選挙資金を背景に乗り込んでくる。

 

本気モードになったゲイリーは、寄付金集めに力を注ぎ、富豪から次々と大金を寄付してもらう。お互い接戦となる中、ついに投票日となる。ところが蓋を開けると、お互い一票づつに引き分けで、町民は誰も投票していなかった。全てはダイアナを中心にした町民たちが、街に寄付金を貰うため、当初の動画投稿から仕組んだものだった。結局、ゲイリーたちは利用されたのだ。しかも、今の選挙管理法では、寄付金の使途などは全く公表する必要がない。ダイアナたちはその金で街に公共施設を作る資金とする。ゲイリーとフェイスも呆れながらの恋人同士に戻って映画は終わる。エンドクレジットで、現代のアメリカの法律の穴をコミカルに見せていく。

 

とにかく、ゲイリーとフェイスのスラングだらけの応酬戦が、いかにもアメリカは下品だと言いまくってきますが、ジャックの笑顔が物語の本筋を崩さなかったという感じで、ラストのどんでん返しは完全にはめられました。面白かったです。

 

「カンウォンドのチカラ」

交錯する二つの物語のオーバーラップを楽しむ作品で、この監督の得意なパターンですが、男性の顔がうまく見分けられなくて、後半部分、しっかり理解できなかった。でも面白い映画でした。監督はホン・サンス

 

列車の中、ジソクが友達と現地集合でカンウォンドに旅行に行くために向かっている。二人の友人と合流したジソクは三人で観光を始める。そこで一人の警官と知り合う。三人が帰宅後、ジソクは一人で警官ともう一度会うためにカンウォンドに行く。その帰り、ジソクは高速バスの中で泣き、暗転。

 

大学の教授サングォンは後輩とカンウォンドにいく。列車の中で、後輩がビールなどを車内販売で買うがその時、ジソクの冒頭の場面と重なる。実はサングォンは学生であるジソクと別れたばかりだった。映画は、交錯する人間ドラマをオーバーラップを繰り返して描いていく。

 

顔がわかりづらくて、締めくくりの面白さはわかったのもののすっきり整理できずに終わった。出来れば後半をもう一度ゆっくり見直せたらと思います。それがホン・サンス作品の面白さなのですが、その点では十分堪能できました。

 

「オー!スジョン」

例によって交錯するストーリーが繰り返され、その微妙な相違が真実と思い出の狭間を描いていく手法を楽しむ一本。これが個性なので面白いのですが、では本筋はどれだったのかと考えてしまう作品でした。監督はホン・サンス

 

ジョフンがホテルからスジョンに電話しているが、都合が悪くなって来れないと言う。スジョンは自宅でこれまでを回想する。カットが変わり、ある画廊から出てくるスジョンとヨンス。遅れて画廊からヨンスの後輩のジョフンが出てくる。こうしてジョフンとスジョンは出会う。ヨンスは映画監督で、スジョンは構成作家である。後日、撮影に来ていたスジョンにジョンスは再会する。こうしてジョフンとスジョンは付き合い始める。

 

映画は、スジョンが回想する思い出を前半で、ジョフンの現実を後半で描き、やがて二人は結ばれるまでを描いていく。繰り返しの映像と、記憶と現実の微かなズレが映画の見せ場になるあたりはさすがにうまい。モノクロ映像も美しい作品で、全体の完成度はとってもいい感じに仕上がった作品でした。

 

 

映画感想「レミニセンス」「マスカレード・ナイト」

「レミニセンス」

面白く作ろうと複雑に組み立ててはいるのですが、そもそも、壮大な舞台の割にはお話がこじんまりとしていて、悪役のスケールも小さくて、小さくまとまった感満載の作品。たしかに、二転三転していく話と、感動のラストシーン、そこへ至る謎解きの流れは楽しめるし、ストーリーテリングもよくできているので、わかりやすいのですが、どうも小さい。まあ、この程度だろうなという想像レベルに楽しんだ作品でした。監督はリサ・ジョイ。

 

都市が水に沈んだ近未来、記憶潜入=レミニセンスという装置で、人の過去の記憶を探る仕事をしている主人公ニックの姿から映画は始まる。この日もかつての戦友で足のない男の懐かしい記憶を呼び起こしてやってやる。ニックの相棒にワッツ遠い女性がいて、彼女の娘は行方不明のままである。そんなニックの元に一人の女性メイが現れる。鍵を無くしたから探って欲しいという。彼女の記憶を辿るうちに、ニックは何か惹かれるものがありどんどんのめり込んで愛し合ったいくが、彼女は行方不明となる。

 

ニックは彼女の記憶を辿る中、一人のバッカという麻薬の売人ジョーの愛人になる場面を発見、ニックは、ジョーに近づくが返り討ちにされかける。そこへ助けにきたのがワッツで、このワッツがやたら強いのが爽快。というより従軍経験のあるニックがやたら弱いのが不自然。そして、ジョーの動画を見ているうちに、悪徳警官ブースの存在を見つける。ニックはブースを追い詰め、ついに彼を捉えて記憶を再現する。

 

ブースは不動産王の愛人エミリーと息子フレディを殺すように不動産王の息子から依頼されていた。それは不動産王が亡くなり、その相続財産を独り占めしたいが故のことだった。ブースはメイを使ってニックに近づき、ニックを誘惑して、保管庫のエミリーの記憶のデータを盗ませようとしたのだ。エミリーもまたニックの顧客であった。メイとニックが出会ったのは全て仕組まれたものだったが、メイはニックを愛してしまったのだ。

 

エミリーのデータから、ブースはエミリーを発見、エミリーは殺されたが、息子にフレディはメイが助けて逃してやる。その行き先を見つけるためにメイを捕らえたブースだが、メイは自らの命をかけて記憶を守る。その記憶の再現する中、メイはニックにフレディの居場所を教えていた。フレディは、かつてメイが津波が襲った時海上で助けられた海の上の家にいた。ブースの記憶から全てを知ったニックはブースをバーン(レミニセンスによる記憶の暴走で発狂させる)させる。

 

ニックは全てを検察に知らせる代わりに、自分はメイとの楽しい思い出だけに浸るためレミニセンスの中にとどまることを許される。その前に、ワッツの元を訪れ、ワッツに想いを届ける。時がたち、年老いたワッツは、行方不明だった娘といっしょにニックが眠る装置のところを訪れる。ニックはメイとの楽しい思い出の中にいた。こうして映画は終わる。

 

お話の複雑な構成の面白さはさすがに脚本が整理されていてよくわかるが、とにかくスケールがこじんまりして小さい。物語の本筋が愛人を亡き者にするための犯罪というのはさすがにしょぼい。でも面白かった。

 

「マスカレード・ナイト」

前作同様、普通に面白かった。真犯人は大体途中でわかるほどフェイクが効きすぎていたとはいえ、まあ楽しめる娯楽作品には仕上がっていたので満足です。監督は鈴木雅之

 

新田刑事がなぜかタンゴのレッスンを受けていて踊っている。一方、何かの犯罪の目撃情報がファックスで入ってくる。そして、ホテル・コルテシア東京ではコンシェリジュとなった山岸が働いている。風船を小道具に小気味良いカットで転換して、都内で起きた殺人事件の捜査会議から、次の現場はホテル・コルテシアのカウントダウンパーティで起こると連絡が来て物語は本編へ。

 

例によって新田と山岸の掛け合いから、刑事たちが潜入捜査に入り、カウントダウンパーティが仮装パーティであることから、パーティまでに犯人の目星をつけなければという緊張感が走るはずが、全く緊張感はなく、何のための時間制限設定かと思う。そんな中、次々と怪しい人物が客としてやってくるという前作同様の流れは、今回真新しさがないのは残念。

 

そして、それほどの緊迫感もないままに仮装パーティが始まってしまい、誰が誰か分からない中での最後の推理で盛り上がるべきが、種明かしの鮮やかさだけを一気に映像で見せていく慌ただしさは、もう一工夫欲しいところでした。しかも、新田が犯人と目星をつけた人物とタンゴを踊るというサービスもある。

 

少し遡って、山岸は怪しい人物を一人でつけていき、何故か犯人に狙われて、被害者であるターゲットの貝塚と一緒にタイマーで繋がれるというかなり雑なクライマックスは、原作がどの程度かわからないけれど、さすがにお粗末。新田が駆けつけ、冒頭の山岸の腕時計の伏線が生かされて、タイマーが5分ずれていて助かるのですが、というより、現場に飛び込んだ刑事たちが被害者に手も触れずに死んだことになって落胆するってお粗末この上ない演出はさすがにないでしょう。

 

結局真犯人仲根緑(途中でわかってしまう)を問い詰める迫力にもかけたままに、ハッピーエンドで大団円。怪しい一人日下部もホテルのロスの支店からの関係者という落ちも、それまでの流れがしつこすぎたのが仇となっての幕切れ。そして山岸がロスに行きことになり何もかもおさまって映画は終わります。

 

原作もそうなのでしょうが、いかにもフェイクなエピソードがしつこすぎるのと、メリハリのない中盤までの流れ、大慌てで締めくくるクライマックスと、少々バランスの悪い出来栄えでしたが、まあ面白かったから、この手のエンタメはこれでいいと思います。

映画感想「シュシュシュの娘」「スパイラル ソウオールリセット」

「シュシュシュの娘」

典型的なインディーズ映画ですが、単純に面白さのエッセンスをかき集めた感が最高の一本。少々、移民反対を糾弾するという偏ったメッセージが見え隠れしないわけではないけれど、痛快なアクション映画というか、マカロニウエスタン調というか、遊び心も堪能できる一本でした。監督は入江悠

 

田舎の小さな街、遠景からカットを繋いである一軒の家、テンポの良い曲に合わせて、一人の女性未宇が軽いダンスやらをしている。彼女は市役所に勤めているがうだつが上がらず目立たない。両親はいなくて祖父吾郎の面倒を見ながら毎日を送っている。この日、市役所の先輩間野が吾郎の元をおとづれていた。吾郎はかつてジャーナリストで、市長が進める外国人排除の条例に反対をしていて市役所では疎まれていた。

 

間野は上層部から公文書の改竄を強制されていて、それを悔いた間野は市役所の屋上から飛び降りる。未宇は泣きながら帰るが、途中青年会のリーダーでもある司と会い、送ってもらう。間野の死を聞いた吾郎は、未宇に、間野が隠した公文書偽造の証拠動画を奪取するように言う。実は未宇の家系は代々忍者だった。とまあ驚きの展開。未宇は早速忍者衣装を縫う。これも笑う。そして、何か道具はないかと吾郎に聞くが、秘伝書は大空襲でほとんど焼かれたという。そして、未宇が目立たないのはそれが特技で、ちくわが好きなので、吹き矢を作ることになる。遊ぶ遊ぶ(笑)

 

そして忍者衣装で間野の家にやってきたが、すでに役所の事務員が来ていた。事務員はまんまと動画のUSBを盗み、上司の車に乗る。上司と事務員はできていて、早速カーSEXを始める。未宇は吹き矢でパンクさせようとするがうまくいかない。そこへもう一人の忍者がやってきて吹き矢で車をパンクさせる。その隙に、未宇はUSBを盗む。ってあの忍者は誰?は置いといて、吾郎がUSBを開こうとするとパスワードが入っている。未宇は、近所の外国人労働者が働く産廃業者へ行く。そこでは市役所職員だからと断られるが、一人の外人が間野から預かったというメモを渡す。そこにパスワードが書かれていた。なんとも簡単。

 

で、吾郎はそれで動画を開き、クラウドにアップしてマスコミに広めようとする。やたらデジタルに詳しい吾郎がまた笑う。一方、未宇は密かに惹かれ始めていた司にデートに誘われ、帰りに神社の境内でカーSEXをする。ところが戻ってみると家が荒らされ、USBが盗まれていた。吾郎は病院へ入る。どうやら自警団のような集団も暗躍しているのを知る。親友からも司とやったことがバレて絶交になった未宇は、山にこもり、毒薬を作る植物を手に入れ調合、一方体も鍛える。親友も、司は実はヤリチンの最低野郎だと仲直りする。

 

自警団や市長らが集まる居酒屋にやってきた忍者姿の未宇は、次々と吹き矢で倒していく。そして、全員退治してバイクで帰ろうとするが、ガス欠になり歩いていると、もう一人の忍者が現れる。実は司だった。未宇は躊躇うことなく吹き矢で司も倒し、悠然と夕日の中に歩き去って、カット編集で遠景になって映画は終わる。背後にウエスタン調の曲がかかる。

 

たわいない小品ですが、限られた予算で楽しめるように作り上げた典型的なインディーズ映画。でも、カット割やカメラワークはしっかりしてるので、十分に見れる一本です。遊び心満載の楽しい映画でした。

 

「スパイラル ソウオールリセット」

無理矢理なんの意味もない惨殺シーンを繰り返し、犯人に繋がるサスペンスも工夫もないただのスプラッターホラーという感じの作品で、「ソウ」とのつながりの理由もないし、途中で犯人は大体分かるほど脚本も普通やし、期待はしてなかったとはいえ、目を背ける残酷シーンだけで眠くならなかった感じの一本でした。監督はダーレン・リン・バウズマン

 

賑やかなお祭り騒ぎの中、一人の男ボズ刑事が歩いている。横をひったくりが通り抜け、前の女のカバンを持って走るので、ボズは後を追って地下道へ。そこで何者かに拉致され、目覚めると舌を挟まれ、地下鉄の坑道に吊るされていた。目の前にあったテレビから画像が流れ、舌を抜いて逃げるか、地下鉄に轢き殺されるか選択しろという。そして、地下鉄に轢かれて、映画は、警察署へ。

 

かつて、悪徳警官を報告したために署内で嫌われている刑事ジークは、若い相棒ウィリアムをつけられ、不機嫌なまま地下鉄での事件へ向かう。ジークの父は元署長で、彼が署長時代に好き放題に行った警官の不正の結果、殺人事件こそ減ったが、一般市民は容赦なく抹殺されたりしていた。ジークの相棒ピートも、証人を強引に銃殺した過去があった。フラッシュバックで描かれるこの辺のシーンはかなりしつこい。

 

ジークに届いた動画に、裁判所に書かれたスパイラルの落書きがあったので、そこへいくと、ボズの舌が置かれていた。さらに、ジークに協力してこない刑事たちは次々と惨殺され始める。彼らはかつて、不正行為を普通に行なってきた悪徳警官でもあった。しかも、ウィリアムさえ殺されてしまう。

 

追い詰めていくジークは突然拉致され、気がつくと、手錠でパイプに繋がれているという「ソウ」第一作へのオマージュへの後、今は警官もやめたピートが吊るされている現場に出くわす。そして、結局ジークはピートを助けられず、数日前から行方不明の父マーカスがいる場所へ向かう。そこにいたのは死んだはずのウイリアムだった。彼はピートに証拠隠滅のために殺された証人の息子だった。ウィリアムはジークに一緒に悪徳警官を退治しようと提案するがジークは拒否。しかも、マーカスは血を抜かれる装置の中で吊るされていた。ここまで来るとなんでもありです。

 

ウィリアムは緊急連絡でSWATを呼び、ジークに最後の選択を迫るが、結局、ジークはウィリアムの仲間になることを拒否し、マーカスを助けようとするが、ウィリアムともみ合っているうちにSWATが突入してきて、マーカスは撃ち殺されてしまう。一方、ウィリアムはまんまと脱出し映画は終わっていく。

 

ウィリアムが犯人だというのはすぐにわかってしまった。彼だけが過去の悪徳警官の類ではないのに殺されるのがおかしいのだから、さすがに脚本が甘い。さらにやたら凝った殺戮の装置がどうやって作られていくのか全く描写のない雑さ。ソウシリーズを再開するなら、もうちょっと工夫して練り込んだ脚本と演出が見たかったです。

 

映画感想「恋の病 潔癖なふたりのビフォーアフター」「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」

「恋の病 潔癖なふたりのビフォーアフター

もっと軽いコミカルなラブストーリーかと思っていたら、意外にラストはシリアスに締めくくった。そのシリアスさがこの映画の価値をあげた気がします。決して出来の良い作品ではないけど、一見の価値がありました。面白かった。監督はリャオ・ミンイー。

 

主人公の青年ボーチンは過度の強迫観念症で潔癖症である。彼の日常を紹介する場面から映画は幕を開ける。出かける時はレインコートを着て、決まった日、決まった時間にスーパーに買い物に行く毎日。ところがこの日、いつものスーパーが臨時休業で、仕方なく電車に乗って別の街のスーパーに向かう。

 

ところが、電車の中で自分同様にレインコートを着ている女性に出くわす。しかも行き先はボーチンと同じスーパーだった。同じ症状に違いないと観察していると、なんと彼女は万引きもしていた。外に出た彼女に声をかける。彼女の名前はジンと言った。ジンはボーチンをある場所へ誘う。そこは美術学校の生徒がモデルを写生している学校で、ジンはそこでモデルをしていた。そんなジンにボーチンは自分か稼ぐからモデルをやめろという。

 

ボーチンは自宅で翻訳の仕事をしていた。彼はパソコン入力が極端に遅く、一方、ジンは入力作業に秀でていた。こうして共同作業も始まり、同様の病気で苦しむ二人は急速に接近し、二人で示し合わせてゲームをしたりして過ごすが、ボーチンは一緒に住んだ方がいいと提案。外出して太陽に当たると湿疹が出るジンは即刻で了解し、ジンは自宅を出てボーチンの家にやってきて、似た二人の同居生活が始まる。キスも試し、お互い恋人同士と認め合うようになる。そして、万が一どちらかが変わってしまっても、これまでと同じに過ごすという約束をする。

 

ところが約束をした翌朝、ボーチンは、外に止まっている一羽の鳩を見かけ、つい表に出るが、潔癖症が治っていることに気がつく。ジンはかかりつけの病院へ彼を連れて行き、元の潔癖症に戻してほしいというが叶うわけもなく、占いや様々な手段を試してみるがうまくいかない。そんな時、ボーチンに就職に話が来る。それまで自宅で翻訳の仕事をしていたが、通勤が可能になり誘われたのだ。

 

しかし、普通の生活に慣れてくると、ボーチンは次第に汚れてくる。ジンから見て不潔な対象へと変わっていくボーチンを我慢しながら生活を共にしていたが、ボーチンの会社のイベントの帰りが深夜になり、しかも酔い潰れたボーチンを介抱していたジンは、たまたまボーチンのスマホにかかってきた女性からのメッセージを目にしてしまう。嫉妬心が膨らむジンは、湿疹を覚悟でボーチンの会社を訪れ、待ち伏せして、ボーチンが会社の女性とランチをし、キスして別れる現場を目撃してしまう。

 

帰ってからジンはボーチンを問い詰めるが、ボーチンはついジンの潔癖症を異常だと言ってしまう。ジンは家を出る決心をし、実家に戻るが、家を空けていたので埃だらけになっていた。ある日、スーパーに行くとボーチンが女性と買い物をしている現場に出くわす。視線が合ったが、ボーチンは知らない人だと連れの女性に話しているのを聞き絶望したジンは、死ぬつもりで睡眠薬を飲みベッドに横たわる。

 

眠り込んでしまうジンは、ボーチンの潔癖症が突然戻り、連れの女性を驚かせる夢を見る。そして眠りから覚めたジンの横には以前と変わらずボーチンが眠っていた。ジンは一人ベッドを出て窓を開けるとヤモリが張り付いている。慌てて外に出て箒ではたき落とそうとしてしまうが、自分の潔癖症が治ったことに気がつく。慌てて出てきたボーチンは、ジンが変わったことに気がつく。ジンは、このまま同じ生活をしても、立場が逆になるだけで、結局不幸になることがわかっているからと判断する。そして映画は終わっていく。

 

ラストはかなりシリアスなエンディングで、この締めくくりがこの映画のメッセージを集約しているように思える。その意味で面白い作品ですが、ジンが窃盗癖があったり、出だしは極端な潔癖シーンが続くのに途中から曖昧になっていく甘い演出が勿体無い。ボーチンの潔癖症が治るまで正方形のフレームで、その後一気に通常サイズになるのは、意図があるとはいえ、必要なのかは疑問でした。でも一見の価値ある映画だった気がします。

 

「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」

デビッド・リーン監督によって「陽気な幽霊」として映画化もされたノエル・カワードの名作戯曲の映画化。さすがに原作が一級品ゆえに物語は抜群に面白いのですが、映画として昇華しきれず、ほんの僅かなテンポの狂いが全体的にまとまり切らずに展開してしまった感じです。しかも、演者それぞれが生きていないのは、明らかに演出家の演出力不足。とは言っても普通の作品としては実に面白いし、決して駄作というわけではなかった。監督はエドワール・ホール。

 

犯罪小説の売れっ子作家のチャールズは、映画化にあたっての脚本作りが全く進まず四苦八苦していた。というのも、彼の著作は7年前に他界した前妻エルヴィラが書いていたものであったからだ。チャールズは映画プロデューサーの父を持つルースと5年前に結婚していた。ルースは夫が成功するようにと焚き付け、何かのヒントにならないかと、街で話題の霊媒師マダム・アルカティのショーに連れ出す。このオープニングの物語の発端が全くうまく映像として表現されていないので、この後の展開は、セリフの中で読み解く流れになる。

 

ショーの途中、大失敗したアルカティは、楽屋で落ち込んでいたが、チャールズが押しかけ、自宅で降霊術をしてほしいと依頼する。ここも、チャールズが、何故押しかけて頼んだのかという心理が描かれていない。そして、アルカティはチャールズの自宅で降霊術をすることになるが、アルカティはこれまで体験したことのない何かを感じる。そして、アルカティはその場は帰るのだが、なんとチャールズの目の前に死んだはずにエルヴィラが現れる。エルヴィラは、自分の趣味と正反対の室内やらに驚くが、自分が死んだことにさらに驚く。そして、チャールズにルースという後妻がいることで、嫉妬心を燃え上がらせ、ライバル意識を持ち出す。

 

チャールズは、エルヴィラの登場で脚本が進み一気に完成するが、エルヴィラは、チャールズを自分に取り戻すべく、様々な悪事を始める。エルヴィラの存在を感じ始めたルースは、アルカティに除霊を依頼するが、アルカティもやり方が定かでなく、霊媒師協会を訪れ、謎の除霊術の本の中のページを教えてもらうことに成功する。

 

一方、エルヴィラの悪さはどんどんエスカレートし、チャールズを殺し自分の世界に引き込むことでルースと引き離そうとする。エルヴィラに恐怖さえ覚え始めたルースのところに、アルカティから、準備が整ったという連絡が入る。嬉々として車で迎えに行こうと飛び出したルースだが、エルヴィラが、チャールズを殺すために車に細工がしてあった。ルースも事故で亡くなり、失意の中、エルヴィラに復讐しようとするチャールズの姿を見た友人たちはチャールズを精神病院へ入れる。チャールズは、エルヴィラに助けられ、アルカティの元へ向かう。この辺りにエルヴィラの心理描写も希薄すぎる。

 

アルカティは、除霊の儀式を始めるが、何を間違えたかルースも甦らせてしまう。しかも、最後の最後に、アルカティの元夫まで蘇る。やがて、チャールズの脚本による映画撮影が始まる。そこへ、チャールズの過去の本全てが盗作だったことが判明したと記者が押し寄せる。エルヴィラが現れ、そういうことだとチャールズに告白、飛び出したチャールズにルースが運転士している車が飛び込みチャールズは死んでしまう。エルヴィラとルースが車で嬉々として去る。誰も彼も亡くなったという新聞が出て映画は終わる。

 

面白い話なので、少々肝心の部分が描ききれていなくても、十分に楽しい。しかし、映画としての出来栄えは非常に普通すぎるのがなんとも残念な一本でした。

映画感想「浜の朝日の嘘つきどもと」「ムーンライト・シャドウ」

「浜の朝日の嘘つきどもと」

なんともダラダラした脚本で、前半はまだテンポが良かったが、後半はとりあえず作ったという感じでしかない展開とエンディングにため息が出てしまった。ほとんど高畑充希大久保佳代子の演技力だけで引っ張っていく作品で、いくらテレビドラマの前日譚だからといっても、もうちょっとしっかり作ろうよという映画だった。監督はタナダユキ

 

朝日座という映画館にサイレント映画がかかっていてその最後が終わったところから映画は始まる。一人の女の子、浜野あさひが福島に降り立つ。道に迷った末たどり着いたのは取り壊しが決まった朝日座という映画館。映画館主の森田は手持ちのフィルムを燃やしていた。そこへ駆けつけた浜野は必死でフィルムを守る。浜野と森田のコミカルなやりとりの後、この映画館がスーパー銭湯に生まれ変わる話、不動産屋に駆け込む話、そして、森田の借金のためにクラウドファンディングを立ち上げる話までテンポよくコミカルに進む。

 

高校時代、東日本大震災で、人を助けるために個人タクシーで頑張った父が財を成したために逆にいじめられ、居場所がなくなる浜野の過去が語られ、自殺を決意した浜野は破天荒な女教師田中と知り合う。やがて浜野の家族は東京へ移るが母はノイローゼになり、父は出て行き、浜野は家出して田中のアパートに転がり込む。男遍歴の多い気のいい田中との展開から、やがてベトナム人パオと田中のラブロマンス。

 

実家に連れ戻された浜野は映画の配給会社に入るが、そんな時田中が乳がんで余命幾ばくもないと聞かされ、その遺言に朝日座を守ってほしいと言われる。そこで浜野は朝日座にやってきた。クラウドファンディングもそれなりにお金は集まるも、思った以上に費用がかかることがわかり頓挫。解体が決まった朝日座を見つめる浜野と森田のところに、突然、浜野の父とパオの参加で、目標の資金が集まったという知らせが届き、無理やりハッピーエンドで映画は終わる。

 

前半の、小ネタ満載のコミカルなドラマを、高畑充希の持ち前の感の良さで牽引していくが、田中が亡くなり、取り壊しが決まってからのダラダラした長台詞の連続には流石に芸がなさすぎる。結局、無理矢理終わって締め括るものの、コロナの影響で企画が無くなってきたのを目の当たりにする一本だった。

 

「ムーンライト・シャドウ」

断片的な映像を繰り返し繋いでいくちょっとシュールな詩的な面白い作品で、しかもカメラが抜群に美しく、色彩と光の演出にこだわった画面に引き込まれて行きます。光がゆっくりとオレンジに変わったり、明かりが当たったり閉じたりを繰り返すこだわり、さらに衣装の色にも工夫が見られるのにも魅了されます。広角レンズと開放した露出を多用した極端な背景のぼかし、さらに奥行きのある構図、とにかくテクニカルを駆使した画面が秀逸。技術にこだわりすぎたためにストーリーテリングが弱くなるかと思うとそうでもなく、全体が見えた上での作画に酔いしれました。映像監督はエドモンド・ヨウ。

 

一人の女性さつきがマイクの前で語っている場面から映画は始まる。カットが変わり、川にかかる橋を歩く。鈴の音が始まりだったというような呟きから、河原を何かを探し歩くさつき。インサートで挿入されるカットが抜群に美しく、そしてイヤリングも落としたようで探していると、河原の草に引っかかった鈴を持って一人の青年等が現れる。後ろからさつきを捉える明かりがゆっくりオレンジに変わる。続いて二人がボートの上で抱き合っている。二人は意気投合し恋人同士になった。

 

等には弟の柊がいて、ぜひさつきに会って料理を披露したいと言っているらしい。柊が恋人のゆみこと現れ、四人は柊の作った食事を食べ和やかに歓談し、四人で遊ぶようになっていく。月影現象という使者と再会できる現象があるという柊。柊は遊んでいても突然眠くなって寝てしまうのだという。

 

さつきが一心にジョギングをしている。音のしない鈴をグラスに置くさつき。フラッシュバックして、さつきに柊から電話が入ったシーンへ。柊が眠ってしまったのでゆみこを車で送って行った等が事故を起こし、二人とも死んだという。ゆみこが生前着て、水の音を聞いていたセーラー服を柊が着ている。これを着ることで平静を保てるのだという。さつきもほとんど食事をとっていないままだった。かつて等が、この街の地下には網の目のように地下水の川があると話していた。その話は井戸掘り職人の充さんに聞いたという。柊は充さんに会いに行こうとさつきに言う。

 

充さんの傍で世話をする蛍という女性がいた。蛍はさつきにも声を録音してみようと提案、冒頭のシーンとなる。さつきは突然涙を流し、お腹が空いたと語る。柊は、蛍が月影現象を見るための案内人ではと聞く。蛍は明後日の夜明け前に橋に来るようにと二人に告げる。その朝、さつきは高熱で寝込んでいた。しかし部屋に現れた蛍は彼女を連れて川へ行く。そこには柊もいた。まもなくして河岸の向こうにゆみこが現れる。続いて、草むらから等が現れる。柊とさつきは街に戻り、道で分かれる。さつきは、これからまた新しい出会いがあると呟いて映画は終わっていく。

 

全編、淡々とシーンをつなぎ合わせて流れていく。カメラが美しいので、一つの詩篇のような色合いを帯びてくる独特の作品で、この監督の前作「Malu 夢路」もシュールでわかりにくかったが、それよりは良かった。とにかくカメラが美しいこと、衣装の色使いにも拘った映像が好感の一本でした。

映画感想「先生、私の隣に座っていただけませんか?」「スザンヌ、16歳」「ショック・ドゥ・フューチャー」

「先生、私の隣に座っていただけませんか?」

これは面白かった。脚本の出来の良さと、演者の演技力の賜物と言う一本でした。プロットの基本は渡辺淳一の「あじさい日記」ですが、それを日記から漫画に置き換え、さらに二転三転、虚構と現実を交錯させた構成は面白い。終盤、もうちょっとアッサリ感があれば爽快感が残ったが、そこをもう一捻りしたミニシアター的なエンディングはあれはあれで評価できると思います。監督は堀江貴大

 

漫画家の夫婦左和子と俊夫の自宅、左和子が連載の最終回の原稿を仕上げたところから映画は始まる。夫の俊夫は人気漫画家だったがこの5年ほど全く書けていなくて左和子の背景などを手入れしていた。編集担当の千佳が左和子の原稿を受け取る。実は千佳は俊夫と不倫関係にあり、薄々気づいている左和子は俊夫に千佳を送ってあげるように言う。この時の左和子を捉える細かいカットは秀逸。ここにこの映画の真相を一気に見せてしまう。

 

ところが、突然左和子に母から電話が入り、事故に遭ったのだという。俊夫が運転して左和子たちは母の元へ向かう。左和子の母は人里離れた田舎に住んでいた。左和子は、連載も一段落したこともあり、実家にいる間に運転免許を取ることにする。俊夫が教習所まで送り迎えをすることになるが、左和子は教習の初日、全く運転できなかった。

 

ところが次の日、運転できたと喜ぶ左和子の姿があった。たまたま、朝送って行って、迎えに行くまで左和子の母の自宅に戻った俊夫は、左和子のデスクに次の漫画の原稿があるのをみつけ読んでしまう。そこには、俊夫と千佳の不倫のことが、先日の出来事そのままに描かれていた。しかも、左和子は教習所で知り合った教官新谷と懇ろになっていくのが描かれていた。題名は「先生、私の隣に座っていただけませんか?」だった。

 

ある迎えの帰り、俊夫は我慢できなくて左和子を問い詰める。対して、左和子はあれが現実そのままなら、不倫しているのかと聞かれ、していないと俊夫は答えてしまう。左和子の原稿はどんどん進み、新谷のことが気になる俊夫は教習車の後をつけたりする。やがて、免許を取った左和子は、ある時一人で車で出かけて帰って来なくなる。

 

心配した千佳もやってくるが、行方不明と思われていた左和子から原稿の続きがFAXで届く。左和子は新谷と出かけていた。原稿を見た千佳は、次の連載に嬉々とし、しばらくここに泊まることになるが、そこへ左和子が帰ってくるという筋書きが届く。しかも新谷と一緒に。待ち構える千佳や、左和子の母、俊夫の前に新谷と左和子が現れる。そして左和子はそそくさと2階へ行き、原稿の続きを書き始める。

 

俊夫は思い切って新谷に問い詰めると、それはみんな左和子の空想だと答える。安心した俊夫は左和子のところへ行き、原稿の物語と交錯させながら、自分の不倫を謝る。左和子は、俊夫にペン入れを頼む。俊夫はかつて左和子の先生だった。そして左和子にとっては俊夫は私の隣に座って欲しい先生なのだと告白する。なかなか降りてこない二人を千佳と新谷が覗きに行くと二人仲良く机に向かっている姿を見る。

 

やがて朝が来て、寝落ちしていた俊夫が目覚めると、左和子がいない。部屋にも下にもいない。そして、原稿が残っていて、左和子はまんまと騙した俊夫らを後に、新谷と出て行ったとなっていた。しかも左和子の母は、左和子が俊夫の不倫を許していなかったのを見破る。そして最後に、この原稿の流れは編集長に連絡済みで、千佳のところに連載スタートの知らせが入り、原作左和子、作画俊夫という形式になると告げられる。あっけに取られる俊夫、車を運転し、隣にいる誰かに微笑みかける左和子のショットでエンディング。

 

果たして、ラストはフィクションか現実か、どこまでが虚構かはぐらかして終わる流れは実に上手い一方で、もう一歩芸がないように感じる。終盤、登場人物全員が揃って舞台劇のような様相になる映像作りは面白いのだが、前半の動きのある展開が静止したのはちょっと勿体無い。でも、なかなかの佳作でした。

 

スザンヌ、16歳」

ちょっとセンスのいい映画でした。シンプルなお話を一時間少しにまとめ、映像全体が綺麗にリズムを生み出しています。所々に挿入されるシンクロしたダンスシーンやパフォーマンスシーンも効果的で、どこか甘酸っぱい思春期の少女の恋が瑞々しく描かれていました。監督はスザンヌ・ランドン。

 

16歳のスザンヌが友達とカフェで喋っている場面から映画は始まる。同級生たちの会話が退屈でそそくさと出てくる。滅多に顔を出さないパーティに行ってみてもこれと言って面白くもない。そんな彼女はたまたま近所の小劇場の前でラファエルという舞台俳優を見かけ、気になり始める。

 

なかなか言葉をかけられないスザンヌは、何かにつけ視線を送ったり、稽古場を覗いたりするが、そんな彼女に気がついたラファエルがスザンヌに話しかけてくる。たわいのない会話の後、朝食を一緒に食べようと誘われる。舞い上がったスザンヌは思わず一人で道で踊り出してしまう。このシーンがとってもいい。

 

そして、スザンヌとラファエルのたわいないながらもデートの時間が繰り返され始める。朝食だけでなく、夕方のラファエルのパーティなどにも顔を出し始めるスザンヌ。毎日が楽しくなっていくスザンヌの心の様子が、二人で一緒に聴くオペラのCDに合わせて体をシンクロさせる場面などで表現していく。ラファエルは35歳だが次第にスザンヌに恋を感じ始めていく。

 

明らかに毎日が変わってきた。そんな実感に嬉しくてたまらないスザンヌは、深夜に両親の寝室を覗いて声をかけたり、母に突然泣きじゃくり縋りつき、自分は恋をしていると告白する。そして、この日も学校の帰り劇場の入り口を見つめている彼女のショットで映画は終わる。

 

一人の少女のほんの一瞬の恋の時間を切り取った作品ですが、その瑞々しさに引き込まれる一本でした。

 

「ショック・ドゥ・フューチャー」

主人公の部屋の中からほとんど出ない絵作りは面白いのですが映画としては普通で、ひたすら電子音楽を見せるという作品でした。その意味では楽しい一本。監督はマーク・コリン。

 

CM曲を頼まれている主人公アナは、この日締め切りが迫り担当者からせっつかれてきた。なんとか誤魔化そうとするが気持ちは焦るばかり。そんなタイミングで機器が故障して、修理を頼む。やってきた男はたまたまパリに3台しかないローランドのリズムマシンを見せる。その音に魅了されたアナは、しばらく借りたいと申し出る。

 

夕方、再び催促に来た担当者にCMの仕事はやらないと蹴ってしまう。まもなくしてCM曲を歌う予定だったクララが訪ねてきて、アナがリズムマシンで即興で作った曲に歌詞をつけて歌ってくれた。今夜大物プロデューサーも交えてのホームパーティを予定していたアナは、楽曲を完成させ、パーティに備える。しかし、パーティで聴かせたがそのプロデューサーはいい顔をしなかった。落ち込んだアナに友人のポールが、たまたまスタジオで録音中の現場に連れていく。アナはそこの歌手に電話番号を聞かれ、少し未来が開けたと気を取り直し慌てて自宅に帰り、作曲を始めて映画は終わる。

 

なんのことはない物語ですが、レコードコレクターの男やら傍のキャラクターが多彩で面白い。1970年台後半、電子音楽全盛期の前夜を描く女性ミュージシャンの物語という空気感はそれなりに感じられた一本でした。