くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「恋の病 潔癖なふたりのビフォーアフター」「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」

「恋の病 潔癖なふたりのビフォーアフター

もっと軽いコミカルなラブストーリーかと思っていたら、意外にラストはシリアスに締めくくった。そのシリアスさがこの映画の価値をあげた気がします。決して出来の良い作品ではないけど、一見の価値がありました。面白かった。監督はリャオ・ミンイー。

 

主人公の青年ボーチンは過度の強迫観念症で潔癖症である。彼の日常を紹介する場面から映画は幕を開ける。出かける時はレインコートを着て、決まった日、決まった時間にスーパーに買い物に行く毎日。ところがこの日、いつものスーパーが臨時休業で、仕方なく電車に乗って別の街のスーパーに向かう。

 

ところが、電車の中で自分同様にレインコートを着ている女性に出くわす。しかも行き先はボーチンと同じスーパーだった。同じ症状に違いないと観察していると、なんと彼女は万引きもしていた。外に出た彼女に声をかける。彼女の名前はジンと言った。ジンはボーチンをある場所へ誘う。そこは美術学校の生徒がモデルを写生している学校で、ジンはそこでモデルをしていた。そんなジンにボーチンは自分か稼ぐからモデルをやめろという。

 

ボーチンは自宅で翻訳の仕事をしていた。彼はパソコン入力が極端に遅く、一方、ジンは入力作業に秀でていた。こうして共同作業も始まり、同様の病気で苦しむ二人は急速に接近し、二人で示し合わせてゲームをしたりして過ごすが、ボーチンは一緒に住んだ方がいいと提案。外出して太陽に当たると湿疹が出るジンは即刻で了解し、ジンは自宅を出てボーチンの家にやってきて、似た二人の同居生活が始まる。キスも試し、お互い恋人同士と認め合うようになる。そして、万が一どちらかが変わってしまっても、これまでと同じに過ごすという約束をする。

 

ところが約束をした翌朝、ボーチンは、外に止まっている一羽の鳩を見かけ、つい表に出るが、潔癖症が治っていることに気がつく。ジンはかかりつけの病院へ彼を連れて行き、元の潔癖症に戻してほしいというが叶うわけもなく、占いや様々な手段を試してみるがうまくいかない。そんな時、ボーチンに就職に話が来る。それまで自宅で翻訳の仕事をしていたが、通勤が可能になり誘われたのだ。

 

しかし、普通の生活に慣れてくると、ボーチンは次第に汚れてくる。ジンから見て不潔な対象へと変わっていくボーチンを我慢しながら生活を共にしていたが、ボーチンの会社のイベントの帰りが深夜になり、しかも酔い潰れたボーチンを介抱していたジンは、たまたまボーチンのスマホにかかってきた女性からのメッセージを目にしてしまう。嫉妬心が膨らむジンは、湿疹を覚悟でボーチンの会社を訪れ、待ち伏せして、ボーチンが会社の女性とランチをし、キスして別れる現場を目撃してしまう。

 

帰ってからジンはボーチンを問い詰めるが、ボーチンはついジンの潔癖症を異常だと言ってしまう。ジンは家を出る決心をし、実家に戻るが、家を空けていたので埃だらけになっていた。ある日、スーパーに行くとボーチンが女性と買い物をしている現場に出くわす。視線が合ったが、ボーチンは知らない人だと連れの女性に話しているのを聞き絶望したジンは、死ぬつもりで睡眠薬を飲みベッドに横たわる。

 

眠り込んでしまうジンは、ボーチンの潔癖症が突然戻り、連れの女性を驚かせる夢を見る。そして眠りから覚めたジンの横には以前と変わらずボーチンが眠っていた。ジンは一人ベッドを出て窓を開けるとヤモリが張り付いている。慌てて外に出て箒ではたき落とそうとしてしまうが、自分の潔癖症が治ったことに気がつく。慌てて出てきたボーチンは、ジンが変わったことに気がつく。ジンは、このまま同じ生活をしても、立場が逆になるだけで、結局不幸になることがわかっているからと判断する。そして映画は終わっていく。

 

ラストはかなりシリアスなエンディングで、この締めくくりがこの映画のメッセージを集約しているように思える。その意味で面白い作品ですが、ジンが窃盗癖があったり、出だしは極端な潔癖シーンが続くのに途中から曖昧になっていく甘い演出が勿体無い。ボーチンの潔癖症が治るまで正方形のフレームで、その後一気に通常サイズになるのは、意図があるとはいえ、必要なのかは疑問でした。でも一見の価値ある映画だった気がします。

 

「ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!」

デビッド・リーン監督によって「陽気な幽霊」として映画化もされたノエル・カワードの名作戯曲の映画化。さすがに原作が一級品ゆえに物語は抜群に面白いのですが、映画として昇華しきれず、ほんの僅かなテンポの狂いが全体的にまとまり切らずに展開してしまった感じです。しかも、演者それぞれが生きていないのは、明らかに演出家の演出力不足。とは言っても普通の作品としては実に面白いし、決して駄作というわけではなかった。監督はエドワール・ホール。

 

犯罪小説の売れっ子作家のチャールズは、映画化にあたっての脚本作りが全く進まず四苦八苦していた。というのも、彼の著作は7年前に他界した前妻エルヴィラが書いていたものであったからだ。チャールズは映画プロデューサーの父を持つルースと5年前に結婚していた。ルースは夫が成功するようにと焚き付け、何かのヒントにならないかと、街で話題の霊媒師マダム・アルカティのショーに連れ出す。このオープニングの物語の発端が全くうまく映像として表現されていないので、この後の展開は、セリフの中で読み解く流れになる。

 

ショーの途中、大失敗したアルカティは、楽屋で落ち込んでいたが、チャールズが押しかけ、自宅で降霊術をしてほしいと依頼する。ここも、チャールズが、何故押しかけて頼んだのかという心理が描かれていない。そして、アルカティはチャールズの自宅で降霊術をすることになるが、アルカティはこれまで体験したことのない何かを感じる。そして、アルカティはその場は帰るのだが、なんとチャールズの目の前に死んだはずにエルヴィラが現れる。エルヴィラは、自分の趣味と正反対の室内やらに驚くが、自分が死んだことにさらに驚く。そして、チャールズにルースという後妻がいることで、嫉妬心を燃え上がらせ、ライバル意識を持ち出す。

 

チャールズは、エルヴィラの登場で脚本が進み一気に完成するが、エルヴィラは、チャールズを自分に取り戻すべく、様々な悪事を始める。エルヴィラの存在を感じ始めたルースは、アルカティに除霊を依頼するが、アルカティもやり方が定かでなく、霊媒師協会を訪れ、謎の除霊術の本の中のページを教えてもらうことに成功する。

 

一方、エルヴィラの悪さはどんどんエスカレートし、チャールズを殺し自分の世界に引き込むことでルースと引き離そうとする。エルヴィラに恐怖さえ覚え始めたルースのところに、アルカティから、準備が整ったという連絡が入る。嬉々として車で迎えに行こうと飛び出したルースだが、エルヴィラが、チャールズを殺すために車に細工がしてあった。ルースも事故で亡くなり、失意の中、エルヴィラに復讐しようとするチャールズの姿を見た友人たちはチャールズを精神病院へ入れる。チャールズは、エルヴィラに助けられ、アルカティの元へ向かう。この辺りにエルヴィラの心理描写も希薄すぎる。

 

アルカティは、除霊の儀式を始めるが、何を間違えたかルースも甦らせてしまう。しかも、最後の最後に、アルカティの元夫まで蘇る。やがて、チャールズの脚本による映画撮影が始まる。そこへ、チャールズの過去の本全てが盗作だったことが判明したと記者が押し寄せる。エルヴィラが現れ、そういうことだとチャールズに告白、飛び出したチャールズにルースが運転士している車が飛び込みチャールズは死んでしまう。エルヴィラとルースが車で嬉々として去る。誰も彼も亡くなったという新聞が出て映画は終わる。

 

面白い話なので、少々肝心の部分が描ききれていなくても、十分に楽しい。しかし、映画としての出来栄えは非常に普通すぎるのがなんとも残念な一本でした。