くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「サタデー・ナイト・フィーバー」(ディレクターズカット4Kデジタルリマスター版)「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」

サタデー・ナイト・フィーバー

公開当時見にいけなかった映画を見る。普通のディスコ映画と思っていましたが、なかなか、当時の世相を巧みに背景に織り込んだ脚本が実に奥が深い。もちろん、ビージーズの曲のテンポに乗せた演出が一番の見どころだし、ダンスシーンは圧巻である。しかしそれだけでなく、行き場を模索する若者たちの苦悩や、恋、さらにアメリカの奥底に今なお残る差別意識などをちゃんと埋め込んである。傑作とはいえないかもしれないが、いい作品だった。監督はジョン・バダム

 

ビージーズのステインアライブに乗って、ペンキを持った主人公トニーが登場するオープニングがまずノリが良くていい。塗料店に勤めるトニーは毎週末土曜日ディスコでダンスをするのが生きがいの青年だった。この日も、仲間とディスコへ繰り出し、得意のダンスを披露する。近々催されるダンスコンテストに備えて、パートナーを探しているが、恋人のアネットは今ひとつダンスが上手くなかった。しかしアネットは献身的にトニーに夢中だった。そんなトニーは、抜群のダンスを見せるステファニーと出会う。

 

トニーはステファニーがダンススタジオで一人練習している現場で再会し、なんとかパートナーになってもらうようアタックを始める。一方、アネットはトニーに体を許してでも自分の方を向かせようとするが、トニーはステファニーのことしか頭になく、とうとうパートナーの承諾してもらう。

 

トニーの仲間の一人のボビーは恋人が妊娠してしまって悩んでいて、トニーに相談しようとするも相手にされず追い詰められていた。そんな頃、トニーの兄で司祭として仕事をしていたフランクが、教会の仕事に嫌気が差し戻ってくる。トニーの両親、特に母親は落胆し、狂ったように責めるが、フランクはいたたまれなくなり家を出ていく。トニーの父親は失業していたが、父親としてのプライドだけはあり、何かにつけ強硬的な態度をとって家族の雰囲気を悪くしていたが、とうとう仕事が見つかる。

 

やがて迎えるダンスコンテスト、明らかにトニー達よりも美味かったプエルトリコ人のチームは結局二位になり、トニーたちが優勝するに及んで、トニーはそんなことをする大人達の世界が嫌になる。結局、二位になったのはプエルトリコ人だったために、地元チームのトニーたちを優先したのだ。自暴自棄になったトニーは、ステファニーを強引にモノにしようとするが、ステファニーは怒って飛び出してしまう。

 

トニーは仲間と車で大騒ぎし、アネットもトニーへの思いが遂げられず、トニーの友人に体を任せる。トニー達は、いつもの吊り橋の上でふざけていて、悩んでいたボビーは、自殺まがいに橋から落ちてしまう。やるせなくなったトニーは仲間から離れ、一人地下鉄でステファニーのところへ向かう。そしてステファニーの部屋にたどり着いて、もう一度友達から始めたいと真面目に頼み。ステファニーと手をとり合って映画は終わる。

 

決して、完成度の高い映画ではないし、ビージーズの曲を楽しむという面が表に出過ぎているのですが、よく見ると、それなりに深い内容が埋め込まれている。その意味で、平凡な映画ではないと感じる映画でした。

 

「ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密」

お話や人物関係は、このシリーズほとんど把握できてないけれど、2時間越えの作品にしてはそれなりに面白かった。と言っても90分ぐらいでも同じレベルにできた気がしないでもない映画でした。監督はデビッド・イェーツ。

 

物語はシンプル。主人公ニュートの恩師ダンブルドアは黒い魔法使いグリンデルバルドと若き日、血の友情を交わしている場面から映画は始まる。血の友情によりお互いに闘うことができない関係となった。しかし、時が立ち、グリンデルバルドは、魔法界の最高権力者となるべく、その選定に力を発揮するキリンという聖なる生き物を手に入れて自在に操ろうと画策していた。

 

そんな頃、ニュートはキリンが生まれる現場に立ち会う。そして子供が生まれるや否や、親のキリンはグリンデルバルドの手下に殺される。そして一頭の子供のキリンは連れ去られるが、実は双子で産まれていて、もう一頭をニュートが保護する。

 

グリンデルバルドの悪事を阻止すべくダンブルドアはマグルのジェイコブを含め、仲間を募って計画を練り始める。間も無くしてグリンデルバルドは、キリンがもう一頭生まれたことを知り、ニュートらに迫ってくる。最高権力者の選挙の場で、キリンによって選ばれる儀式があり、グリンデルバルドは予め殺して複製を作り出していたキリンで自分を選ばせようとしていたが、ニュートらが本物を届けることで阻止する計画だった。

 

最後の最後に、グリンデルバルドらの追手から逃れたニュートらは無事に本物のキリンを届け、正しく選挙が行われる。そしてダンブルドアとグリンデルバルドは最後の決戦をし、グリンデルバルドは塔の下に落下していく。ジェイコブは、かねてから愛していた魔法使いのクイニーとの結婚が実現して映画は終わっていく。

 

シンプルな物語と程よい見せ場の数々で、2時間以上あるストーリーをあまり退屈せずに楽しめました。特に何か秀でたものもないけれど、娯楽映画としては良かったと思います。

映画感想「神経衰弱ぎりぎりの女たち」「三度目の、正直」

「神経衰弱ぎりぎりの女たち」

女遊びの好きな一人の男イバンを巡っての女たちのドタバタ劇で、ペドロ・アルモドバル監督らしい赤と青の色彩を多用した画面作りと、ウィットの効いたセリフの数々、遊び心満載のストーリー展開が楽しい映画でした。

 

女好きのイバンが次々と女に電話している場面をワンシーンで歩く姿で描いて映画は幕を開ける。極端なクローズアップの口元で巧みに女をくどいていく彼の姿から、テレビの女優をしているペパの場面へ。彼女は、留守電だけで恋人イバンが行方不明になってショックを受け、必死で連絡を取ろうとするが連絡がつかない。

 

ペパが悪戦苦闘してイバンと連絡を取ろうとする場面から、テロリストと付き合って大変なことになっている友人が現れたり、手放そうとしているペパの部屋を借りにきた若者カルロスはイバンの息子だったり、さらにカリロスのフィアンセもやって来たかと思うと、とうとうイバンの妻まで現れる。

 

ペパは、感が閃き、イバンは別の女とストックホルムへ行くのではないかと突き止める。やってきた妻は拳銃を持って、空港へ向かう。このままではいけないとペパも後を追い、空港で妻の行動を阻止、イバンに感謝されるが、もうイバンに興味はないとイバンを送り出して自宅に帰る。

 

自宅では、ペパが作った、睡眠薬入りにジュースを飲んだカルロスたちや、テロリストの通報でやってきた刑事たちが眠っている。先に目が覚めたカルロスのフィアンセに、ペパはこの部屋を手放すのはやめたと言って二人でくつろいでいるカットでエンディング。

 

次々と現れるイバンの周囲の女たち、そして、その周りで起こるドタバタがなんともテンポよくて楽しい。しかも、青と赤を効果的に使った絵作りも美しく、センスの良い映像と演出のリズムを楽しめる作品でした。

 

「三度目の、正直」

しんどかった。決して駄作だとは言いませんが、棒読みでセリフを語らせるという演出は意図したものかもしれませんが、登場人物の心理が見えてこない。淡々と描かれる物語のドラマがドラマに見えてこないのは、生きた人間として見えないということでしょうか。監督は野原位、濱口竜介作品の脚本を書いていた人です。

 

一人の少女蘭が留学するということで、ランを育てている春と夫らが送別会を開いている。しかし、蘭は一向に感情を見せず、周りの大人は妙にギスギスしてくる。春は結局、家を出ていくことになり実家に帰ってくる。春の弟毅には、精神障害のある妻美香子がいるが、毅はラップ音楽で細々生活をしている。毅にラップシーンがなんとも酷い。

 

春は、ある時、河原で記憶を無くした青年を拾う。自宅に連れ帰り、とりあえずしばらく世話をすることになる。春はその青年に、かつて流産した子供につけるはずだった名前の生人と名づける。そんな春に、元夫は冷たく接するし、周囲の人物も、少し異常だと言う。

 

物語は二つの家族を描きながら、それぞれの心の浮き沈みを淡々と描いていく。ある時、生人の前に、父親だという男が現れ、一緒に暮らそうというが、生人は拒否する。そして春の元もさった生人は、浜辺に立って海を見つめるアップで映画は終わる。

 

とにかく、しんどい映画だった。登場人物の中で男どもは自分勝手でクソ野郎ばっかりだし、女どもはどこか狂った人間ばかりで、どの人物にも感情移入できず、物語も迫ってくる何かも見えず、ただラストを待ってしまった。作品としてはそれなりのクオリティはあるものの、どうにも入り込めない映画でした。

映画感想「女子高生に殺されたい」「やがて海へと届く」

「女子高生に殺されたい」

傑作とまでは行かないけれど、相当に良くできたサイコミステリーの秀作。わざとらしいフェイクが全く見られないのにどんどんミスリードされていく演出が見事で、ラストがラストまで全く見えない脚本の妙味を徹底的に楽しむことができました。少々、締めくくりがくどい気もしますが、それでも長すぎず短すぎず、程よい余韻を残したエンディングも面白かった。監督は城定秀夫。

 

スタンダード画面で、白衣を着た主人公東山春人が話をしている。臨床心理士を目指していた頃、教室で質問されている授業での映像から映画は幕を開ける。カットが変わり、桜満開の新学期のニ鷹高校の登校風景、1人の新任教師東山春人が歩いている。その端正な容姿から早くも女子高生たちの噂になっている。

 

春人は希望を出してこの学校へ転任してきたのだが、彼は七年前からある計画を立て実行していた。そんな彼に、不穏なものを感じたのが小杉あおいだった。彼女はアスペルガー症候群で、並外れた感覚の持ち主で、親友の佐々木真帆と一緒に行動し、身近な死を感じたり、地震を予知などした。

 

東山春人はオートアサシノフォリアと呼ばれる精神的な病気だった。それは、自殺はしないが、誰かに殺されることを望むという精神疾患だった。春人は赴任し、計画に沿って、さまざまな女子高生に接触しながら、自分への好意を巧みに利用して計画を進めていく。彼が殺されるにあたって、犯人が罪に囚われず、しかも犯罪とわからないように完全犯罪でないといけないことという絶対条件があった。

 

春人は、自分のファンである君島に近づき、巧みに決行日の11月8日文化祭の日に上演する演劇の演目を操っていく。さらに、柔道部で腕力もある沢木にも近づき当日の役割を演じさせるべく心に入り込んでいく。春人はその演目の中で叫ぶ「キャサリン」の言葉が必要だった。そして、訓練した警察犬を使って、夜、公園に一人の女子高生を呼び出し、警察犬に襲わせ、君島の声で吹き込んだ「キャサリン」の言葉を拡声器で流す。次の瞬間、警察犬は女子高生に殺されてしまう。

 

翌日、教室に殺された警察犬が置かれていた。春人は予期しなかった展開に戸惑うが、それを巧みに利用しながら計画を進めていく。しかし、この事件で生徒のカウンセリングが必要と考えた学校側は心理カウンセラーを招致する。やってきたのは春人の大学時代の元カノで臨床心理士になった深川五月だった。

 

学生時代、同じ道を目指す春人と五月は自然と交際を始める。そんな頃、八歳の少女が大柄の男性を締め殺すという事件が起こる。その事件に興味を持った春人は資料を集め没頭し始め、やがて五月とも別れてしまう。その少女の名前は佐々木真帆だった。彼女は、父親からの暴力から逃れるべくカオリという人格を作り出していた。さらに、大男が家に侵入して襲われた際、たまたまテレビで流れていた洋画のセリフ、「キャサリン」から、次の人格キャサリンを作り出す。キャサリンは異常な怪力の持ち主で、襲いかかってきた大男を紐で締め殺したのだ。春人は彼女の成長を待ち、大人になる直前の十七歳の時に、再度キャサリンを覚醒させて自分を殺してもらおうと計画したのだ。

警察犬に襲わせたのは真帆で、キャサリンが今も存在しているかの確認だった。

 

五月は生徒たちとも仲良くなり、この日、保健室で一緒に真帆とあおい、そして真帆に気がある川原と一緒に弁当を食べていた。あおいが突然、大きな地震が来ると言い出し、慌てて真帆とあおいは布団をかぶる。地震がさって、五月が真帆に話しかけると、なんとそれはカオリという人格だった。五月は初めて真帆が多重人格者だと知る。そして、それがかつて春人が夢中になっていた八歳の少女の今の姿だと知った五月は、春人の計画を聞き出そうとする。

 

11月8日文化祭の日がやってきた。春人は、舞台の幕が機械で上がらないように細工をし、沢木と手動で幕を開ける。たるんだロープで自分を殺してもらい、そのまま、電動のスイッチを入れると自分がぶら下がって事故に見えるように細工をする。しかし、計画を未然に防ぐため五月は春人を呼び出し、コーヒーに睡眠薬を入れて現場に行かせないようにするが、春人は逆にコップを入れ替えて五月を眠らせ舞台へ向かう。

 

やがて、幕が開く。春人は、真帆に見えるように沢木を抱きしめ真帆に嫉妬心を起こしカオルの人格を呼び出す。そして、春人はカオルを綱元に連れ出す。そして春人はカオルを襲うふりをする。間も無くして、舞台では君島の「キャサリン」を絶叫するセリフが聞こえてきて、カオルはキャサリンを呼び出し、春人の首を絞め始める。

 

一方、目が覚めた五月はあおいや川原と体育館に飛び込んでくる。そして、あおいの鋭い感で舞台上部にいる春人と真帆を発見、飛び込んだ川原が春人とキャサリンになった真帆を引き剥がすが、誤って、春人は首を吊る形で落下してしまう。キャサリンになった真帆はあおいの必死の説得で真帆に戻ることができた。

 

命は助かった春人は記憶を失って入院していた。五月は、かつて学生時代に質問した映像を見せて、思い出すまで見るようにという。真帆やあおいも見舞いにやってくる。真帆は一人春人の病室に入る。春人は記憶が十分戻っていなかったが、真帆の一言に何かを感じ、また見舞いに来てほしいと告げて映画は終わっていく。

 

原作を大胆に改編した、ほとんどオリジナルに近い作品というのも良いし、伏線を散りばめるというよりも、時間と空間を前後させてミスリードしていくサスペンス仕立ての作劇が実によく成功している。それでいて、女子高生の危うい心理を巧みに操るストーリー展開も秀逸。大傑作とは行かないまでも、とにかく面白い映画でした。

 

「やがて海へと届く」

なんとも間延びしたダラダラした映画だった。これでお金取るのかと思えるような作品に久しぶりに出会った。無駄なシーンの繰り返しと、しつこいストーリーの重複に参った。浜辺美波を見に行っただけとはいえさすがにこの映画はいただけない。監督は中川龍太郎

 

アニメで何やら意味深な映像が描かれ、カットが変わると、夜のレストランに勤める主人公真奈の後ろ姿。来客があるという知らせでロビーへ行くと学生時代からの友人で親友すみれの彼氏でもあった遠野が来ていた。二人はそのまま、すみれの荷物をマンションに取りに行く。どうやらすみれは行方不明らしく、というかおそらくなくなっているらしく、荷物の整理をする。そこで、猫のポーチを真奈が見つけて時は大学入学の場面へ。

 

クラブ勧誘を通り抜けている真奈は猫のポーチを拾い上げる。そこへすみれがやって来て二人で同じクラブに入り、新歓コンパに参加。場に居づらくなり二人は先に帰る。やがて親友同士になり、すみれは真奈の部屋に住むようになり、間も無くしてすみれは遠野という彼氏ができる。そして真奈の部屋を出て、遠野と同棲するようになるすみれ。

 

すみれはある時一人で旅行に出る。そこで、東日本大震災津波で流されたらしい。真奈は遠野とすみれの実家に行く。そんな頃、真奈の勤めるレストランのチーフが亡くなり、真奈はしばらく行っていなかった、すみれが最後に旅に出た場所にシェフと一緒に行く。と、一体どんな展開かという感じである。ここから、実際に被害に遭った素人のインタビュー映像が入れられて、帰ってくる。もう勘弁してほしい感じである。

 

ここから、真奈と出会った頃からのすみれが歩んできた過去が語られる場面が再度繰り返され、最後に冒頭のアニメシーンから、すみれが溺れていく。さらに真奈の場面に戻り、すみれが大事にしていたカメラに、すみれに向かって話しかける真奈の映像で映画は終わっていく。

 

ダラダラした駄作。こういう映画に、今人気の俳優を投入して、なんとも安易な作品に仕上げた制作側の態度に腹が立つ一本でした。

 

映画感想「英雄の証明」「アネット」

「英雄の証明」

これは恐ろしいほどの傑作でした。書き込まれた脚本の緻密すぎる伏線と、描きたいメッセージを包み隠してラストで明らかにする手腕。さらに登場人物の関係をものの見事に整理していく演出力の恐ろしさに圧倒されてしまいました。監督はアスカー・ファルハディ。

 

主人公ラヒムが刑務所から二日間の休暇で出てくるところから映画は始まる。かつて借りた金を返せず訴えられて収監されていた。ラヒムは恋人のファルコンデと会う。彼女は彼に彼女が拾った17枚の金貨の入ったバッグを手渡す。その金と義兄ホセインの援助で借金を返して出所させる為だった。しかし債権者のバーラムは、昔から騙されたままで返済もされず、ラヒムを信用していないからと拒否してくる。困ったラヒムはそのバッグを持ち主に返却することにし、張り紙で人探しを呼びかける。

 

連絡先をラヒムの刑務所にしていたので、持ち主だと名乗る女性は刑務所に連絡してくる。ラヒムは姉のマリに、持ち主と会って返却してもらうように頼む。マリはやってきた女サレヒに、事細かく確認した上でカバンを返す。その出来事を知った刑務所の所長や事務のタヒムが、宣伝になるとテレビ局に連絡、一躍ラヒムは善意の英雄として持ち上げられ話題になってくる。さらに彼を出所させようとチャリティ協会が寄付を募った上、彼に審議会での仕事も紹介する。しかし募った寄付金は十分ではなく、債権者のバーラムは受け取りを拒否する。

 

一方、ラヒムが審議会に仕事を頼みに行ってみると、そこの男は、今回の出来事はでっちあげかもしれないという噂がSNSに流れているにで真偽を確かめたいと話す。ラヒムは、直接持ち主に会っていない上に、持ち主の連絡先も聞いていないために途方にくれる。ラヒムは持ち主を乗せてきたタクシーの運転手からの入れ知恵で、持ち主をでっち上げたら良いと言われ、ファルコンデを偽の持ち主にして審議会ににやってくる。しかし、それも信じられないといい、困ったラヒムは、広がっている噂の謝罪も兼ねてバーラムに再度頼みに行くも受けてもらえず、そこでつい殴り合いになって、その動画がチャリティ協会などへ流れてしまう。困ったチャリティ協会は募った金は渡せないと言い始める。名誉だけを回復させるべく、ラヒムはこれまでの真相を全て話す。

 

そんな頃、死刑囚の夫を出所させる金を工面していた女、実は彼女がサレヒなのだが、彼女が、ラヒムに集まった金を回してほしいと懇願していたのだ。サレヒはチャリティ協会でたまたま、協会へ金のことで頼みにきたラヒムと会ったもののラヒムには分からなかった。やがて、寄付金が死刑囚を救ったという話題が広まり、ラヒムの名誉は回復される。刑務所にタヒムは再度、宣伝のためにラヒムの息子の動画を撮ろうとするが、一旦は撮ったものの、ラヒムは動画の削除を求める。ラヒムの息子は吃音があった。

 

やがて、ラヒムは再度刑務所に収監される。その日、サレヒの夫が晴れて出所してきてすれ違うが、ラヒムには分からない。彼方でサレヒと夫が話す絵と、手前でラヒムが手続きをする絵をしばらく見せて映画は終わる。

 

もう圧倒される作劇術と演出力である。サスペンスフルに展開するストーリーの見事さもさることながら、次々と登場する人物関係が、ものの見事に整理されていて、それが物語をちゃんと語っていく。これはこの監督の才能というほかありません。そして、死刑囚が金で釈放されるという馬鹿馬鹿しい法制度への皮肉も埋め込んである。これが映画を作る、映画を見せる事のお手本である。傑作でした。

 

「アネット」

期待しすぎていたというのもあるけれど、これってミュージカルなのという仕上がりがちょっと残念だし、物語も平凡だし、たしかに子供をCGで描くという発想は面白いのですが、それが全く生きていないし、なんのこともない映画でした。監督はレオス・カラックス

 

仰々しい前口上の後、主人公ヘンリーとアンその他の若者の群舞シーンのワンシーンワンカット長回しから映画は幕を開ける。そして、ヘンリーとアンはそれぞれのステージへ分かれていく。ヘンリーは人気のコメディアンで、この夜も客席を沸かせていた。このシーンが数回出るが実にしんどい。一方のアンは人気のオペラ歌手だった。ステージを終えたアンをバイクで迎えにいくヘンリー。二人は周知のカップルだった。

 

やがて二人は結婚、まもなくして娘のアネットが生まれる。ところが、ヘンリーの人気が次第に坂道を下り始め、一方のアンの人気は絶頂に向かって突き進んでいく。ヘンリーは次第に酒に溺れ始める。二人は関係を修復すべく、プライベートのヨットで船旅に出る。しかし嵐にあい、酔っていたヘンリーは無理矢理アンを甲板に連れ出し、アンは海に落ちて死んでしまう。ヘンリーはアネットとなんとか島にたどり着く。

 

ある夜、ヘンリーはアネットに、影絵を映し出すランプをプレゼントするが、その影絵を見ていたアネットはアンの歌声に負けず劣らずの歌声を披露する。ヘンリーは友人でアンのステージの指揮もしていた指揮者を呼び、アネットの歌声を聴かせ、アネットを使って世界中でショーをしようと提案する。

 

ベビーアネットの人気はみるみる上がり、世界中で大ブームとなる。ところが、気分転換に指揮者にアネットを預けて羽目を外しに遊びに行ったヘンリーが遅くに帰ってくると、アネットが、かつてヘンリーとアンが歌っていた思い出の曲を歌っていた。指揮者に問いただすと、指揮者は、アンがヘンリーと知り合う前に交際していてその時にアンに捧げた曲なのだと告白する。

 

酔っていたヘンリーは指揮者を外に呼び出し殺してしまう。ヘンリーは、アネットのステージを終えることを決意し、アメフトのハーフタイムショーで歌うステージを企画する。しかし、会場に立たされたアネットは、歌うことはせず、パパは人殺しだと一言発する。ヘンリーは逮捕され、収監される。

 

しばらくして、ヘンリーのところにアネットが面会に来る。ここまでアネットはCGで描かれたマペット的な映像だが、ここで初めてリアルな少女が登場する。そして二人で歌を歌い、ヘンリーは、最後に愛するものはアネットだけだと抱きしめるが、アネットは、パパが愛するものは何もないと言って去っていく。残されたのは人形のアネットとアネットが可愛がっていた猿のぬいぐるみだった。こうして映画は終わっていく。

 

アネットが生まれるまでの前半と後半のバランスも悪いし、ミュージカルであるというワクワク感が全く生きていないし、その上ストーリーに今ひとつ面白みもない。途中で出てくる、ヘンリーと関係のあった六人の女の糾弾する場面もあの場かぎりで意味がわからないし、全体に未完成かと思えるような映画でした。

映画感想「モービウス」「シャドウ・イン・クラウド」「オートクチュール」

「モービウス」

シンプルなストーリーと何の工夫もない映像、普通のマーベルコミック映画でした。監督はダニエル・エスピノーサ

 

医学博士のマイケルがジャングルの奥地へ行き、吸血蝙蝠を入手するところから映画は幕を開ける。そして25年前に戻る。血液の病気で松葉杖がないと歩けないほど弱っているマイロが、専門の病院へやって来る。先に入院していたマイケルも同じ病気で二人は仲良くなる。やがて成長したマイケルは、人工血液の完成でノーベル賞を手にする。間も無くして吸血蝙蝠のDNAと人間のDNAを結合させる研究をしついに成功する。しかし、自らの体で人体実験をするが、変異の過程で雇っていた傭兵を殺してしまう。

 

悪の実験に成功してしまったと思ったマイケルは、封印するべく画策するが、マイロがその血清を盗み、自らに埋め込んでしまう。そして、人間の血を貪る悪魔となる。マイケルはマイロの暴走を止めるべく、恋人のマルティーヌと協力して戦いに向かう。マイロはマルティーヌに怪我をさせてマイケルを呼び出す。マイケルは瀕死のマルティーヌに自らの血清を与えて、血を飲みマイロとの最後の戦いへ向かう。そして、開発した抗体を打ち込みマイロを倒す。マイケルの元に、スパイダーマンからの使者がやってきて映画は終わるが、マルティーヌも吸血鬼として蘇る。

 

マイロのバトルシーンはほとんどCGアニメ処理だし、あっさり終わってしまう展開もいかにもシンプル。何の変哲もない映画でした。

 

「シャドウ・イン・クラウド

クロエ・グレース・モレッツ、なんて映画に出るねんと突っ込んでしまうほどぶっ飛んだB級映画だった。サスペンスなのか、アクションなのか、ホラーなのか、ラブストーリーなのか、いや、結局これはコメディ、漫画みたいなコメディで、終始ツッコミと笑いに包まれてしまった。ある意味、めちゃくちゃ楽しい映画でした。監督はロザンヌ・リャン。

 

一昔前のスタンダードの陳腐なアニメから映画は幕を開ける。アニメというより空軍とグレムリンを茶化したカートゥーンである。そしていきなりのタイトルから、一人の軍服を着た女性ギャレットが、革の鞄を大事に抱えてオークランドの空軍基地の飛行場に立っている。時は1943年、極秘任務でサモアへ向かうギャレットは、目指す飛行機に無理やり乗車する。そして、大佐の命令書だというものを手渡すものの、席がないからと下部の銃座に閉じ込められる。荷物はウォルトという軍曹が預かることになるが、ギャレットは絶対に開けるなと念を押す。

 

銃座で男たちの下ネタトークに受け答えしていたギャレットは、飛行機の翼に巨大なネズミのような生き物グレムリンを発見する。何と、トワイライトゾーンである。(笑)ギャレットは左手を骨折したようにつっていたが、実は銃を隠し持っていた。その銃でその生き物を撃ち一旦撃退するが、間も無く日本軍の偵察機を発見、ギャレットは機銃で撃ち落とす。さらに銃座のハッチが壊れて機内に戻れなくなってしまう。

 

機内では、ギャレットの持ち込んだ革のケースを開けるかどうか騒動になっていた。グレムリンを見かけた兵士も現れ、機長らは革ケースを開けようとするが、ウォルトは必死で抵抗、しかし無理矢理ケースは開けられるが、何と中には赤ん坊が入っていた。えええええ、という展開である(爆笑)。しかも、ギャレットの恋人ウォルトとの間に生まれた赤ん坊で、ギャレットにはDVの夫がいて、サモアへ逃げる為にこの機に乗ったのだという。

 

そんなところへ、日本の零戦が襲いかかる。さらに、グレムリンも暴れ始め、グレムリンは革ケースを奪って翼下のところに現れる。ギャレットの銃座は破壊されて落ちてしまい、ギャレットは飛行機の下部を這いながらグレムリンに戦いを挑み赤ん坊を取り戻す。そして機銃座の穴から機内に入るが、零戦の攻撃で兵士は死んでいく。さらにグレムリンも機内に入ってくる。もうなんでもありである。(笑)

 

ギャレットは果敢にもグレムリンを追い落とし、零戦も全機落ち落とすが機長が死んでしまい、操縦の上不時着することになる。そして悪戦苦闘の末、不時着に成功するが、そこに羽根をもがれたグレムリンが現れる。もうここまでくるとギャレットは切れまくりで、グレムリンもこれはまずいと逃げ出すが、ギャレットに捕まえられ、めちゃくちゃ殴られた末、殺されてしまう。そして、革ケースの赤ん坊を抱き上げたギャレットは、おっぱいをあげて映画は終わる。エンドクレジットに、女性軍人の勇姿の古いフィルムが流れる。

 

とにかく、何でもありで、飛行機から一旦落ちていったギャレットが下で爆発した零戦の爆風で元の機内に戻ったり、次々とピンチの連続が、あり得ない展開で切り抜けて行く展開は、次第に笑いが込み上げてくる。なんともはちゃめちゃな映画だった。楽しかったけれどね。

 

オートクチュール

なんの変哲もない普通の映画でした。登場人物それぞれに視点が移りすぎて、細切れのドラマになって、肝心の主人公二人のストーリーがどんどんぼやけてしまった。画面が美しいわけでもなく、演出が秀でているわけでもなく、音楽センスが悪いのか、突然、歌詞付きの歌が流れて、場面のリズムを壊す。できが悪いというより、普通の作品でした。監督はシルビー・オハヨン。

 

ディオールでお針子をしているエステルは退職を通知されていて、最後のショーの準備をしている。この日も、アトリエに行く準備をしていた。一方、アラブ移民で団地住まいのジャドは友人のシアドと地下鉄でギターを盗み、地下街で弾いていた。通りかかったエステルが歌を聴いていると、シアドがカバンをひったくって逃げる。それを追うと言ってジャドは後を追うが、そのまま逃げてしまう。

 

ジャドはカバンの中から金の宗教のネックレスを見つけ、シアドや母に見せるが、悪いことが起こるからと返しに行くように進められる。バッグの中の身分証から、ディオールに勤めていると知ったジャドはカバンを返しに行くが、エステルはジャドの指を見て、お針子に向いているかもしれないからと、自分の弟子のようにしてアトリエに通わせる。

 

映画は、アトリエに通うジャドとエステルの物語に、ジャドがアトリエで知り合った青年との恋、ジャドの病気の母の話、シアドとの友情、エステルの娘の話などが語られていくが、視点があちこちに飛ぶので、終盤はなんの話だったか分からなくなり、最後はジャドの母も元気になって、移民たちも良い人でしたというオチになる。

 

本当に、何を語りたいのかがはっきりしない作品で、脚本の悪さと演出のセンスのなさが目立つ映画でした。

 

 

映画感想「TITANE チタン」「シッダールタ」

「TITANE チタン」

とんでもない映画がカンヌ映画祭パルムドール賞を受賞した。と、もっぱらの話題の映画を早速見にいく。一体この監督、ぶっ飛んだ芸術家か悪趣味な表現者か、バカと天才は紙一重のその一重の線上にいることはたしかだった。スタイリッシュすぎるエロティックでグロテスクな映像、そして、音楽センスの良さ、画面作り、ストーリーテリングの秀逸さは素直に認めるが、果たしてこの物語はなんだろう。一歩間違えばZ級のホラー映画である。それが一級品の映像に昇華されている。唖然とする傑作だった。ただ、私はあまり好きではない。監督はジュリア・デュクルノー

 

一人の少女が車の後尾座席でエンジン音を口ずさんでいる。運転しているのは父親か、後ろの声がうざいのでラジオのボリュームを上げる。それに合わせて口ずさむ声を大きくするので、とうとう父親がキレる。その瞬間、少女がシートベルトを外してしまうので、父が後ろを向いて罵声を上げた途端ハンドルを誤って事故を起こす。手術で、頭に金属の輪を嵌められ、大手術の跡が伺われる少女のシーン。彼女の頭にはチタンプレートが埋め込まれたということで、頭に手術跡が残る。

 

場面が変わり、今やセクシーな女性に成長したアレクシアは、高級車の周りで妖艶なダンスを繰り広げるイベントのダンサーの一人として人気だった。この日もショーが終わり、シャワーを浴びた後帰ろうとすると一人の男が追いかけてくる。車に乗ったアレクシアに、ファンだと名乗る男は、窓から顔を入れて強引にキスをし、アレクシアもそれに応えるが、突然、髪留めしていた鋭利な櫛で男の耳穴から刺し殺す。死体を捨てた後、体が汚れたアレクシアは、イベント会場に戻り、シャワーを浴びていると、ドアを激しく叩く音がする。アレクシアがドアを開けると、ショーで彼女が踊ったキャデラックがライトをつけて止まっている。アレクシアはその車に乗り、車は激しく上下運動を始める。アレクシアはこの車とSEXしている。

 

翌朝、自宅で目覚めたアレクシアは、股間に油のような黒い汚れを見つける。まもなく、下腹に不快感を感じ、妊娠したように膨らんでいるのに気がつく。医師でもある父親が診察するが、冷たい視線を送る。そんな父親を部屋に閉じ込め、家に火をつけてアレクシアは出ていく。

 

アレクシアは、イベントで知り合った女性と体を合わせ、そのまま彼女のシェアルームへ招かれるが、そこでも、相手の女性を刺殺し、一緒に住んでいる男女を次々と殺す。そして、駅に向かうが、そこで彼女が指名手配されている看板を発見、洗面所で髪を切り、鼻の骨を折り、男のような姿になる。そして、どういう経緯か、息子を失って悲嘆に暮れる消防隊長のヴィンセントと出会い、彼の息子として暮らし始める。消防隊員らは、アレクシアを疑うが、ヴィンセントの強硬な態度に黙ってしまう。

 

次々と危険な任務をヴィンセントとこなすアレクシアは、いつの間にかヴィンセントを父親のように慕い始める。しかし、お腹はみるみる大きくなり、乳房から油のような黒い液体も流れ始める。必死で隠しながら生活するが、ある時、ヴィンセントは妻を呼び寄せた。妻はすぐに、アレクシアを女だと見破るが、ヴィンセントのことを頼むと去っていく。

 

アレクシアのお腹はどんどん大きくなり、それと共に女性としての母性が大きくなり、消防隊員と大騒ぎしている時に、踊ってくれと言われて、かつてのセクシーなダンスを消防車の上で踊って、隊員たちに引かれてしまう。

 

そして、とうとう陣痛が始まる。全てを見られたアレクシアはヴィンセントのベッドに行き、助けてと懇願、一時は去ろうとしたヴィンセントだが、戻ってアレクシアの出産を助ける。そして赤ん坊を取り上げるが、アレクシアは息を引き取る。ヴィンセントは生まれた赤ん坊を抱きながら、自分がいるから大丈夫だと言い聞かす。赤ん坊の背骨はチタンの輝きをしていた。こうして映画は終わる。

 

物語だけ追っていくと、ゲテモノホラーであるが、映像表現とドラマ演出の秀逸さ、シュールな演出は並の映画のレベルを超えている。優れた映像作品であることは認めるが、奇抜さで引き込むという安易さを私は受け入れられないものがありました。

 

「シッダールタ」

スヴェン・ニクヴェストのカメラが抜群に美しい。淡々と流れるストーリーは主人公シッダールタの人生を静かに捉えるだけで、そこにインド哲学が語られるというものの、それほど染み入る作品ではなかった。監督はコンラッド・ルークス。

 

シッダールタが、友人のゴーヴァンダと旅に出る場面から映画は始まる。ブッダの弟子に認められたというゴーヴァンダと別れたシッダールタは、商売を知り、カマーラという恋人もでき、船頭の弟子になって、ひたすら川を行き来しながら人生を見つめ直して行く。やがて師と仰ぐ船頭が引退し、ブッダの涅槃に立ち会い、そこで母を失った息子を得るが、親となるもののまた一つ親の悲しみを知る。船頭なき後、一人川を渡し始めるが、道を見失ったゴーヴァンダと再会、二人で川をすすんで行って映画は終わる。

 

静かに流れるインド哲学を見つめる一本という感じの作品で、物語にうねりもないので淡々と終わる映画です。上質の一本と言えばそれまでですが、退屈というのも正しい感想です。

映画感想「BOLT」「テオレマ」(4Kスキャン修復版)

「BOLT」

「BOLT」「LIFE」「GOOD YEAR」の三話のオムニバス形態のドラマで、福島原発事故を中心にしたメッセージ性が強い作品ながら、さすがに映画としてちゃんと組み立てられているから見事です。監督は林海象

 

BOLT

東日本大震災地震津波原発内の冷却水のボルトが緩み、それを締め直すべく作業員が組織される。決死のチームで二人づつボルトを締める現場へ向かうが、作業時間は1分、その間に最初のチームは向かうが、時間切れとなり、次のチームが突入するがかろうじて閉めたものの戻ってくる。若いチームが勝手に作業現場に行き、必死で締めるが、締めたと思ったらまた開いてきてとうとう精神的に参ってしまう。一人の男が単身で再度現場へ戻り、参っている青年を助け出し。一人で締め始める。そしてなんとか止まったと判断し作業現場を後にするが、直後、ボルトは溶けてしまい、冷却水は流れ出し始める。それを背中で感じながら戻る男の場面で暗転。

LIFE

福島で遺品整理業の仕事に志願した男は、この日、役場から、孤独死した家を整理するように依頼される。相棒と向かった男は、そこでゴミ屋敷のようになった部屋の奥で、住人が死んでいた部屋を見つける。そこには静かな絵や遺書のような書き置きがあった。

GOOD YEAR

自動車の修理工場を営む男はこの日も何やら機械を修理している。ある夜、スポーツカーに乗った女が事故を起こし工場の前に止まる。男は介抱してやり、車のタイヤを交換してやる。気がついた女は北海道へ行くからと旅立つが、男は机の上にある写真に向かって、今のはお前だったのだろうとつぶやく。女を介抱した時に寝かせたソファに女の幻らしきものが浮かび、その女は人魚だった。

 

こうして三話は終わる。シュールな展開も緊迫感あふれる展開も、どこか殺伐とした寂しさを感じさせる展開も交えて、東日本大震災の悲劇を真正面から描写した映像はなかなかのものです。さすが林海象という一本でした。

 

「テオレマ」

唖然、どういう意味なんだろうと必死で画面を追っているうちに突然FINEという文字。呆気に囚われる映画でした。たしかに、一つ一つの画面が人並はずれて美しい。登場する人物それぞれが、なんらかの意味を投げかけてくる。しかも最低限のセリフだけで語られるストーリーはとても普通に考えて繋がるものでもない。それでも、ぶっ飛んで抜きん出た作品であることを感じさせてくれる。凡人が到達し得ない至上の映像感性が生み出す何もかもを破壊した価値観の上に立つ世界観。なんとも感想をかけないレベルの映画だった。いや映像詩だった。監督はピエル・パオロ・パゾリーニ

 

大きな工場の前でマスコミにインタビューされる経営者のパオロの姿から映画は幕を開ける。そして画面はモノクロのようになり、パオロの屋敷だろうか、メイドのエミリアが、飛び跳ねるように軽快にやってくる郵便配達人から手紙を受け取る。明日到着すると書かれただけの手紙を見た後、この家でパーティが開かれる。なぜか謎の青年が庭に座っていて、エミリアは一目でこの青年に惹かれ、体を与えようとする。その直後、恥じたのかガス管を咥えようとして青年に止められる。

 

息子のピエトロは、客の一人だろうかの男性に迫って拒絶され恥じてしまう。妻のルチアは、服を脱ぎ捨てて青年を誘う。そして、まもなくしてあっさりと青年は帰っていく。ルチアは街へ行き、行きずりの青年と体を合わせる。エミリアは、実家の村に帰ったのだろうか、そこで、顔中出来物がある少年を治してやり村人たちに崇められる。息子のピエトロは絵に小便をかける。娘のオデッタは突然硬直し、そのまま手を握り締めたまま動かなくなり病院へ搬送される。エミリアは、建物の屋根の上で浮かんでいる。そして、村の老婆と共に工事現場に行きそこに埋めてもらう。涙が池になるという言葉を残す。そして父のパオロは突然駅で全裸になり、禿山のようなところへ行って駆け回り、最後に絶叫、そしていきなりFINEの文字が出て映画は終わる。

 

とにかく、ついていくのがやっとというぶっ飛んだ映画という印象ですが、と言って、決して才能のない監督の映画ではなく、凡人の感性をはるかに超えた才能が生み出した映像詩である。それぞれの人物に、すべてなんらかの意味があり、台詞もカットも計算され尽くされた感があるが、全く言葉にできない。異端の才能とはよく言ったものである。圧倒されてしまった。