くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「美しき小さな浜辺」(デジタルリマスター版)「子猫をお願い」(4Kリマスター版)

「美しき小さな浜辺」

小さな浜辺のそばに建つホテル、降り続ける雨、孤児の不幸な人生、殺伐とした風景、そんな寂しい世界をひたすら描いていく映画で、主人公が犯してきた犯罪の背景も、ドラマも見せるわけではなく、アンリ・アルカンのモノクロのカメラが美しい映画でした。監督はイブ・アレグレ。

 

海辺の道を一台のバスが走ってくる。バスに乗っている一人の若者ピエールが、寂れたような街に降り立つ。夏場は賑やからしいが、冬の今は寂れた雰囲気で雨がしとしと降っている。一軒しかないホテルにやってきたピエールは、夕食も食べずに部屋に入る。ホテルには孤児院育ちの女中マルトと少年がいた。翌日、車でもう一人の男がやってきてホテルに泊まる。彼は何かにつけてピエールの行動を監視し始める。

 

ホテルの少年は、早朝ポンプで水を汲み、ホテルの主人にこき使われている風である。ピエールはそんな少年の姿に過去の自分を見ているようだった。ホテルの主人がレコードをかけると、ピエールは狂ったようにプレイヤーを壊してしまう。どうやら、レコードの歌声の女性に関わりがあるらしい。新聞記事でその女性がパリで殺されたと書かれている。

 

ピエールはマルトと親しく話すようになるが、ピエールがかつてこのホテルで働いていたのを薄々察したからだった。後からやってきた男は車をマルトの父ジョルジュの工場にあづける。ピエールはその男と話し、その男はパリに戻る事にしたという。どうやらピエールが犯した犯罪に関わっているらしい。男はジョルジュの工場から警察に連絡を入れる。それを見ていたジョルジュは、マルトにピエールを探させ、翌朝ここを通るトラックでベルギーに逃げろとアドバイスする。

 

ジョルジュの部屋で一夜を明かしたピエールは、一人浜辺に行こうとする。途中、水汲みをしている少年に、自分も孤児で、かつて同じ毎日だった。自分は道を誤ってしまったが、お前は辛抱して良い人生を歩めと言い、浜辺のかつて自分が作った小屋に向かう。

 

少年はマルトにことの次第を話す。トラックがやってくるがピエールが見当たらないので、ジョルジュもトラックを先に行かせる。浜辺の小屋に少年が行き、そこでピストルを見つける。ピエールは自殺したらしい。ホテルに泊まっている夫婦が浜辺にやってきて、感慨に耽る様子をカメラが写し、どんどん引いていって映画は終わる。

 

具体的な事件やドラマを語る作品ではなく、寂しい小さなしかし美しい浜辺の景色を一人の青年の人生を通じて描いた詩篇のような作品で、映像をただ感じ取って楽しむ作品だったように思います。

 

子猫をお願い

韓国の若者達の考え方が少しづつ変化してきた時代のとっても爽やかな青春映画という感じの一本。さりげない物語ですが弾けるような若さが散りばめられていて、見ていてとっても心地よい空気に包まれました。青春映画の名作という言葉がぴったりの映画でした。監督はチョン・ジェウン

 

高校最後の一時でしょうか、五人の同級生テヒ、ヘジュ、ジヨン、ピリュ、オンジュらがはしゃいでいる場面から数ヶ月後、それぞれが大人としての生活を始めたところから映画が始まる。祖父母と暮らすジヨンは、生活が苦しくて、仕事を探すの日々、実家がスーパー銭湯のような仕事をしているテヒは、家族の中では疎外感があり、家族にいいようにこき使われている。父のコネで証券会社に入ったヘジュは、忙しいながらも、ただの小間使いのような仕事をさせられ、不満を持っている。ピリョとオンジョの双子の姉妹も、祖父らから両親が疎まれて、二人で暮らしている。ヘジュの誕生会で集まった時、ジヨンは、街で拾った猫テイテイをプレゼントするが、ヘジュの家では飼えなくて翌日ジヨンに返しにくる。

 

物語は、それぞれ別々の生活を始めた仲良し五人が、時に会っては愚痴を言い、大人の世界に馴染もうとしながら、ファッションや恋、家族、人間関係に戸惑い成長する姿を描いていきます。仕事がないジヨンはなんとか見つけた食堂の仕事で遠方まで出かけるようになるも、自宅は欠陥住宅だが家主は全く対応してくれず苦慮している。五人で買い物に出かけても、羽ぶりのいいヘジュは好き放題に買い物をしてジヨンは戸惑ってしまう。

 

五人がオンジョらのアパートに集まって騒いだ後、ジヨンは一人先に家に帰るが、戻ってみると、住宅の屋根が落ちていて、祖母らは亡くなっていた。しかし、警察の事情聴取に黙秘したままのジヨンは、更生施設に送られてしまう。そんなジヨンに何度も面会に行くテヒ。テヒは、自分を家族と認めないかのような扱いをされていることに耐えられなくなり、家を出る決心をする。そして、テイテイをオンジョたちに預け、行き場がないとつぶやいたジヨンを誘って一緒に飛行機に乗って映画は終わる。あとの三人のことは言及せず終わるので、テヒとジヨンの物語だったのだろう。

 

全編、若々しい瑞々しさで満たされた爽やかそのものの青春映画で、猫の存在をどう解釈するのか難しいが、五人の絆として証の存在なのだろう。二十年近く前にこういう韓国映画があったんだと感心してしまいました。いい映画だった。。

映画感想「モリコーネ 映画が恋した音楽家」「そして僕は途方に暮れる」

モリコーネ 映画が恋した音楽家

1961年以来、500以上の映画、テレビの音楽を手掛けたエンニオ・モリコーネのドキュメンタリー。知った曲も知らない曲も、知った映画も知らない映画もあったけれど、とにかく良かった。映画音楽への視点がまたひとつ増えたような気がしました。監督はジュゼッペ・トルナトーレ

 

メトロノームの音から画面が始まり、モリコーネの少年時代が語られて映画は始まる。やがて、映画音楽に携わるようになり、数々の名曲誕生の背景が描かれていく。一方で、彼の音楽に対する視点、さまざまな垣根を取り払った柔軟な視点を見せていきます。

 

クライマックスは、ようやくアカデミー賞を取った「ヘイトフル・エイト」の受賞場面から、さまざまな現代の音楽家、映画関係者などなどが彼を賞賛する映像、そして彼のクローズアップでエンディング。

 

目に前にある真っ白なものを形にしていくという彼の考え方の基本が、映画ファンの一人である自分の映画の見方の幅を広げてくれた気がしました。良いドキュメンタリーでした。

 

「そして僕は途方に暮れる」

面白い映画なのですが、どうも底が浅くて、映画ならもうちょっと映像で語るべき部分があっても良いような気がしますが、物足りない場面や、わずかなセリフ演出のタイミングの悪さが気になりました。ひたすら主人公が内に内に籠る台詞回しがしつこいし、テンポが悪い前半が特にしんどい。ただ、豊川悦司原田美枝子の終盤のいくつかのシーンが映画になっている気がするのは気のせいでしょうか。あと一歩、そんな仕上がりの映画でした。監督は三浦大輔

 

11月19日、ベッドで主人公裕一が目を覚ます。側では恋人の里美が仕事に行くべく準備をしている。忙しいから遅くなると言い残して出ていくが、次のカットで裕一は別の女性と歩いていて、裕一はやたら振り返る。こうして映画は始まる。里美が帰宅するとしばらくして裕一も帰ってくるが、スマホばかり見ている裕一に里美は、別の女性がいるでしょうと責める。里美が話し合おうとするも裕一は逃げるように部屋を出て行ってしまう。

 

行き場のない裕一は、幼馴染の伸二に連絡をする。そして転がり込んで一週間、好き放題に伸二に命令する裕一に伸二が切れてしまう。裕一はそそくさと部屋を後にし、バイト先の先輩田中に連絡をし、転がり込む。そして一週間、裕一は献身的に色々やるが、田中にからかわれ、掴み合いになったために、この部屋を飛び出す。そして、学生時代の映画サークルの後輩加藤のところへ行こうと呼び出すが、加藤に次はどうするのと聞かれて、裕一は言い出せず加藤と別れる。

 

外は雨で、びしょ濡れになった裕一は、同じく東京に出てきている姉香のところへ転がり込むが、香に、金をせびりにきたのだろうと言われ、裕一は部屋を飛び出す。そして母に連絡し、苫小牧に帰ることにする。ここまでの展開がどうもキレが悪い。

 

母智子の元に行き、リュウマチで体の弱った母を見た裕一は、この家に戻ってくると言うが、母は仕事先の同僚に勧められた宗教に一緒に入ろうと言い、裕一はまたその家を飛び出す。外は雪、行き場もなくバス停にいた裕一の前を父浩二が通りかかり、浩二のアパートに転がり込む。そこで、携帯の電源も落とし、人間関係を断つように勧められる。やがて、クリスマスイブ、浩二に、そろそろ変化してみたら面白いと言われて、スマホから里美に電話を入れるが留守電になるのでメッセージだけ残す。やがて年末。

 

裕一がスマホの電源を入れると里美からメッセージが来ていて、母智子が倒れたらしいという。慌てて裕一は母の病院へ行こうとして、バス停で、心配で来た里美と、実家に帰っていた伸二と出会い、三人で裕一の実家に行く。そこで戻っていた香らとご飯を食べて、香に責められた裕一は、なんかわからないのだと謝る。全く甘ったれた若者描写である。そして里美と伸二は帰っていく。

 

晦日、裕一が買っていたカップ麺の年越しそばを届けに来たという口実で浩二がやってくる。家族で蕎麦を食べ、裕一は、母に東京へ戻ると告げる。東京に戻った裕一は、迷惑をかけたかもしれないと伸二、田中に謝りに行き、最後に里美の部屋のベッドに横になる。そこへ里美が帰ってくる。そして、裕一が出ていって二週間後、伸二と付き合い始めたから別れたいと告白する。裕一は、里美の部屋を出て、加藤に連絡をし、「面白くなってきた」と告げる。それは、浩二が裕一に言った言葉だった。こうして映画は終わる。

 

舞台劇の映画化ではあり、その限界もあるかと思うのですが、展開がどこか底が浅くて、今ひとつ踏み込んだものが見えない。伸二と里美が交際していたという終盤も、そんなにくどくどと告白する展開にせず映像で語っても良かったのではないかと思う。前半の裕一のいい加減さの演技が今ひとつ迫力に欠けるのもちょっと勿体無い。面白い映画だと思うのですが、もう一工夫欲しかったです。

映画感想「ヘアー」「ひみつのなっちゃん。」「ファミリア」

「ヘアー」

名作ですね。時代とお国柄は今見るとやや鼻につくとはいえ、奥にパンしていく映像演出や、バイタリティ溢れるストーリー展開は見事。ラストシーンで一気にメッセージをぶつけて来る構成も秀逸。必見の一本でした。監督はミロス・フォアマン

 

オクラホマ州ベトナム戦争へ向かうために招集されたクロードが、入隊までにニューヨーク見物をするべくバスに乗るところから映画は始まる。着いてみると、セントラルパークでは髪の長いヒッピーのような若者が乱舞していた。そこで、いかにもブルジョワジーな馬に乗った一人の女性シーラに惹かれる。たまたま騒いでいたヒッピーのリーダー的なジョージ・バーガーが率いるメンバーと親しくなったクロードは、ジョージらに入隊まで楽しませて欲しいと頼む。

 

ジョージは、クロードがシーラに恋したことを知り、シーラらの家族のパーティに強引に潜入して大暴れし、警察に捕まってしまう。ジョージが両親に保釈金をもらい、とりあえず全員が釈放される。ジョージは、シーラとクロードの仲を盛り上げるために、シーラを何かにつけて誘い出す。堅苦しい生活に嫌気がさしていたシーラは次第にジョージ達のグループと行動を共にするようになる。

 

しかし、クロードの入隊日は迫ってきた。最後の夜、池でジョージ達が裸になって泳ぐのにつられてクロードやシーラも池に飛び込むが、ジョージ達のイタズラで服を持っていかれる。シーラは半裸のままタクシーで逃げ帰り、クロードもイタズラがすぎるとジョージ達と別れる。やがて、クロードは入隊し訓練に入る。

 

シーラはクロードに手紙を出していて、その返事をもらい、クロードがネバダで訓練していることをジョージ達に知らせる。ジョージは、車を手に入れ、シーラらを伴ってネバダを目指す。しかし。基地についた物の入れてくれるわけがない。シーラの機転で、バーで一人の軍曹と親しくなり、服を頂戴して、ジョージが髪の毛を切り、軍曹に扮して基地へ潜入、クロードを連れ出そうとするが、クロードは点呼があるから無理だと答える。

 

ジョージはクロードと入れ替わり束の間のシーラとの逢瀬を助けたやることにする。クロードは、なんとかシーラと再会、束の間楽しむが、戻らないといけない。ところが基地では突然、戦地への派遣が決まる。そしてジョージはクロードの名前のまま戦地へ向かうことになる。慌てて戻ったクロードだがすでに間に合わなかった。そして場面が変わりと戦没者の墓地。ジョージ・バーガーの墓の前で乱舞する若者達。そしてホワイトハウスの前に集まる若者達の大群衆の映像で映画は幕を下ろす。

 

ベトナム戦争をテーマにした名作舞台の映画版ですが、冒頭の手前から奥にピントとシーンを区切りながらの導入部を含め、映像が映画になっている演出はさすがと言わざるを得ません。ミュージカルなので、ナンバーも歌声も素晴らしいし、名作の一本という感じの映画でした。

 

「ひみつのなっちゃん。」

安直な脚本とセンスのない演出で、せっかくの面白そうなアイデアをぶち壊していく映画でした。脇役の甘さ、無意味なセリフの数々、不必要なエピソードの連続による時間稼ぎ、一貫した展開の欠如、とにかく凡作が極まったという映画でした。面白そうな気がしたのにがっかりです。監督は田中和治朗。

 

ダンスの練習をしているかつてのドラァグクィーンのバージン場面から映画が始まる。自宅で毎日練習しているものの何故かステージに戻る予定はない。そんな彼に、先輩なっちゃんの死の知らせが入る。知らせてきたモリリンと、なっちゃんの部屋に行ったバージンだが、なっちゃんがオカマであるのを隠していたことがわかり、大騒動になる。なっちゃんの後輩でもあるズブ子も呼んで、なっちゃんの自宅にあるおかまの証拠を整理しようとするが、そこへなっちゃんの母がやって来る。そして、話の流れでなっちゃんの実家郡上八幡へ行く羽目になるのが本編。

 

なのですが、セリフに散りばめられた伏線は全く回収していかない上に、バージンがなぜここ一年踊らなくなったのかの解決もなく、とにかくなっちゃんの自宅に到着。なんのこともなく普通に葬式が終わりかけるが、もう一度棺に駆け寄ったバージン達は思わず棺をひっくり返し返してしまう。すると、なっちゃんの遺体にはスカートが履かされていた。母はなっちゃんがおかまだと知っていたのだ。バージン達は郡上踊りの場にやってきて、踊る訳ではなく紛れて映画は終わる。じゃあ、バージンが頑なにダンスに戻らない理由はなんだったのか、全く説明ないエンディング。

 

とにかく雑そのものの映画だった。

 

「ファミリア」

現実離れしたストーリー展開と、日頃作者が問題視している社会問題を羅列しただけの脚本で、一体何を描きたいのか、言いたい放題に押し付けられる観客はたまったものではない。そんな最低に近い映画だった。もちろん、物語の中で描かれる、テロの問題や半グレの問題、移民の問題など、それぞれのエピソードは現実に起こっていることだし、目を向けなければいけないことかもしれないが、それを映画で訴えたいのであれば、ちゃんと映画として作り上げないといけなくて、無意味なシーンの連続ととってつけたような事件の連続には全く考えさせられるものも何も生まれてこない。監督は成島出だが、いったい何をやっているのかという作品でした。

 

山奥の窯で焼き物をしている一人の男誠治の場面、カメラが大きな団地を映すと、そこから仕事に行く若者達と戻ってくる若者達。どうやら彼らはブラジル人らしく、ここはそんな人たちの団地のようである。誠治は、息子の学が出張先で知り合ったナディアという女性を連れて戻って来るというので迎えに行く。アルジェリアのプラントで仕事をしている学は、今回ナディアと結婚し、今のプラント事業が終わったら父の元に戻って焼き物の仕事をしたいと話す。誠治は、反対する。焼き物で生活するのは厳しいからだが、それでも学の心は固まっていた。

 

そんな頃、ライブハウスでトラブルが起こり、一人のブラジル人が半グレの金を盗んだということで追い詰められ殺されてしまう。その場にいたマルコスもそのトラブルに関わってしまう。そして、半殺し同然のまま逃げたマルコスは誠治の所へ逃げ込む。誠治と学は彼を手当てしてやり、後日、マルコスの幼馴染のエリカの誘いでブラジル人のパーティに呼ばれる。

 

半グレのリーダー榎本らは、自分の家族がブラジル人の運転するバスに殺されたことで逆恨みし、ブラジル人に執拗に当たっていた。マルコスらに、盗まれた金を返せと迫り、覚醒剤をブラジル人の団地で売るように強要するが、マルコスらは、ヤクザの青木に処分を依頼し逆に覚醒剤だけ取られてしまう。青木らも榎本の仲間だった。

 

やがて学夫婦は一旦アルジェリアに帰ってしまうが、現地でテロ事件が勃発、学やナディアが拉致されてしまう。誠治は、なけなしの金を外務省に届けたりして懇願するも受け入れられるはずもない。一方、マルコス達はその後も榎本に追い詰められていく。焼き物に興味を持つマルコスとエリカは何かにつけて誠治のところへ来るようになっていた。

 

そんな時、学とナディアが現地で殺されたことが伝わる。気力をなくし誠治は、ある決断をする。彼には定年前の刑事駒田という知り合いがいた。警察も榎本ら半グレに手を焼いているのだと聞いていた誠治は、自ら榎本の右腕の半グレをリンチにして、マルコスの友達を殺したことなどを自白させる。その録音を持って榎本に会いに行き、榎本を怒らせて自分を刺させ、そこを駒田に逮捕させる。なんともありきたりでお粗末なクライマックスである。一命を取り留めた誠治のところに、焼き物を教えてほしいとマルコスとエリカがやってくり。こうして映画は終わる。

 

ありえないでしょうというエピソードの羅列と、それぞれの登場人物の本当の苦悩は全く描かれていない薄っぺらさがたまらなく、安物のテレビドラマを見ているような出来栄えだった。榎本の家族に突っ込んだブラジル人のバスの運転手は泥酔していたというところはそっちのけで、ただ榎本が悪いだけという展開、さらに、学達がテロに巻き込まれて死ぬという必然性も何もかもありえないし、いい大人が、外務省に金を持っていってなんとかしてもらえるという判断はさすがにありえない。青木というヤクザはどうなのか?などなど、細かい部分の処理もおざなりで、お粗末そのものの映画だった。

 

映画感想「恋のいばら」「嘘八百 なにわ夢の陣」「とべない風船」

「恋のいばら」

傑作でした。二転三転していくサスペンスと、コミカルな展開、作り込まれた映像と練られたセリフの数々にどんどんお話が深みにはまっていく。にも関わらず、重くならずに軽いタッチが最後まで持続する演出も面白い。楽しめる映画に久しぶりに出会いました。監督は城定秀夫。

 

ベッドで寝ている一人の女性の上に羽毛がゆっくりと落ちて来る。横にはもう一人寝ているが男性か女性かわからない。場面が変わり、図書館で働く桃が「眠り姫」の本をつい口に出して読んでしまい咎められる。振り返ると一人の男性健太郎がじっと見ている。場面が変わるとポールダンサーが踊るクラブで働く莉子。その日の仕事が終わり帰ろうとすると誕生ケーキを持ってきて欲しいと言う名指しの客がいると言う。莉子が持っていくと、なんと健太郎のサプライズで、莉子の誕生祝いが行われる。その夜、莉子は健太郎と過ごし、翌朝、先に出た健太郎の後から出る際に傍の写真集を自分の持ってきたものと入れ替える。莉子の彼氏健太郎は、痴呆気味の母と暮らしている。

 

入れ替えた写真集をゴミ置き場に捨てて、莉子はダンスのレッスンをしたりする。ある時、バスの中で莉子は桃という女性に声をかけられる。桃は健太郎の元カノだと言う。そしてリベンジポルノの話をし、自分の写真がネットにアップされるかもしれないと思うと眠れないので協力して欲しいと言う。健太郎の部屋に行き、彼のパソコンデータを削除する手伝いをして欲しいのだと言う。最初は気にしていなかった莉子だが、次第に自分も不安になって、桃に協力し始める。桃の部屋に行った莉子は、桃が健太郎にもらったアンクレットをしていることに気がつく。

 

まず、健太郎が仕事でいない夜に、桃の持っている合鍵で忍び込む計画だが、行ってみると鍵が変えられていた。そこで、莉子は健太郎を映画に誘い、鍵を巧みに桃に渡し合鍵を作る事だった。なんとか合鍵を作ったものの、行ってみるとチェーンがかけられて入れなかった。そこで二人は、健太郎の母が痴呆気味なのを利用することにする。母は綺麗な廃品オブジェを拾い集めるのが日課になっていた。莉子達は庭に光るものを「ヘンデルとグレーテル」のようにばら撒く。母は裏庭に出てきて拾い始める。ばら撒いた物の中には、莉子が健太郎にもらったネックレスもあった。

 

莉子達は健太郎の部屋に入り、パソコンデータを検索していたが、突然健太郎が戻って来る。桃はクローゼットに隠れるが、莉子は服を脱いで健太郎をポラロイド写真で迎えた上ベッドに誘惑する。それを見ていた桃は涙ぐんでしまう。上手く仕事に行かせた莉子は桃と一緒に健太郎の写真などを破り始める。そして桃は莉子に、自分は健太郎の元カノではなくストーカーだったと告白する。健太郎と関係はあったが付き合っていなかったと言われた話、桃が追いかけていたのは莉子だったことなどを次々と話す。実は莉子は桃にかつて会っていた。桃が強引に合鍵で健太郎の部屋にやってきて健太郎に飛びついた際、ベッドの下に莉子が隠れていて、桃のアンクレットを見ていたのだ。

 

二人は健太郎の部屋をめちゃくちゃにし、羽毛をばら撒いてベッドに横になる。冒頭の場面である。そして、帰ろうと階段を降りてきて母と出くわす。母は、自分が作った巨大なお城を庭に出して欲しいと言う。莉子達がそのお城を外に出す。二人が帰った後健太郎が戻ってみると、ポラロイド写真に「ばいばい」の文字があった。健太郎が莉子に電話すると、莉子は「二人は付き合ってたわけじゃないよね」と答える。

 

健太郎は元の生活に戻り、写真の仕事をしている。莉子と桃は健太郎の母と楽しく話している。莉子は自分の前世はスイスにいた娘なのだなどと話す。桃は「眠り姫」の話を語り、十三人目の魔女の事を莉子と話す。こうして映画は終わっていく。

 

ストーリー展開がまずめちゃくちゃに面白い。軽いタッチで流れていくのですが、どんどんそれぞれの存在に深みが出て来る。そんな二層三層した懲り方がとっても面白い作品でした。

 

嘘八百 なにわ夢の陣」

描こうとしているテーマは非常に奥が深くて、感銘さえ受ける物なのですが、前置き部分の配分が実に間延びしていて、クライマックスに流れてからのあざやかさを目にする頃には疲れている感じの出来栄え。しかも、雑な演出も見られる手抜きシーンの数々がどんどん安物映画に落としていく後半が実にもったいない。もっと真剣につくろうよと思ってしまいました。いい映画なのにね。監督は武正晴

 

秀吉七品と言われる豊臣秀吉の残したとされる七つのお宝。陶芸家の野田は、波動アーティストというTAIKOHの事務所から招聘を受ける。行ってみると、7つのお宝のうち、最後のおそらく焼き物であろう「鳳凰」というのを焼いて欲しいという依頼だった。つまり紛い物を作れという事だったが、妻が波動絵画に大金を払ったりしていて、量産陶器の仕事では賄えなくなっていた野田は引き受ける。

 

そんな頃、豊臣秀吉展開催のアドバイザーとして、たまたま動画配信で豊臣秀吉七品の解説をしていた骨董屋の小池が呼ばれる。小池はTAIKOHのオフィスで野田を見かけたこともあり、新たな仕事を計画しようとするが野田は乗ってこなかった。ところが、小池は豊臣秀吉研究家の別人物と間違われていたことがわかり、開催委員会から解雇される。一方、なかなか陶器が完成しない野田もTAIKOHの事務所から解雇される。この辺りの展開が非常に雑。

 

しかし、夢に「鳳凰」を何度も見て、かつて妻との思い出の品であるガラスと陶器のかけらからヒントを受けて、「鳳凰」は陶器にガラスを交えた物ではないかと考える。そんな野田に小池は、古文書による「鳳凰」のヒントを授ける。こうして二人は「鳳凰」の焼き物を作り始める。

 

やがて完成した焼き物をテレビ番組で放映したところ、秀吉博の委員やTAIKOHの事務所が駆けつけ、野田の焼いた器とTAIKOHが描いた時価一億の絵画との交換が成立する。偽物だろうと豪語する委員達に、夢を持つことこそ、秀吉が考えた真のお宝の意味だと小池は朗々と説明する。こうしてTAIKOHも、スランプを抜けてまた絵画の世界に戻れることになり、野田の陶器展も開催され、順風満帆な日常が戻って映画は終わる。

 

小池が語るクライマックスのセリフにこの映画のメッセージが凝縮されていて、この部分だけだと感動してしまうのですが、行かんせん、全体の出来栄えが実に間延びしているし、お宝の陶器を、専門家であるはずの骨董屋の小池や豊臣秀吉研究の大家が素手でつかむ適当演出など映画全体が雑に作られているので、せっかくのメッセージがペラペラに仕上がっています。勿体無い一本という感じの映画でした、

 

「とべない風船」

とってもいい映画でした。丁寧に丁寧に描かれた脚本を一生懸命に演出していった結果、微妙な心の変化と希望を自然と画面に浮き上がらせていきました。こういう一生懸命作られた映画は良いですね。登場人物全てが物語に最後まで関わって来るし、さりげない小道具やインサートカットが映像にテンポを生み出していく。しかも、エンディングまで手を抜かない演出も良い。いい映画が見れました。監督は宮川博至。

 

教師を辞めて、父の住む瀬戸内海の島に凛子が戻って来る所から映画が始まります。出迎えた父もかつて教師で、母は病気で他界していた。着いた日、突然、無愛想な男が魚を持って家に入ってきて、凛子は驚いてしまう。その男は憲二と言って、妻と息子を豪雨災害で亡くし以来、沈んだ表情で日々を過ごしていた。義父はそんな彼を何かにつけて責めるのだった。

 

ある時、島の小学生咲が行方不明になり大騒ぎとなる。しかし、憲二が仕掛けた魚の罠のところにいるのを憲二が見つける。凛子は少しづつ島の人たちとも親しくなる。母さわは病気を知って、最後をこの島で暮らすためにやってきたのだとわかる。凛子と関わったりしているうちに、憲二の心も次第に解されていく。

 

そんな時、凛子の父繁三が発作で倒れる。憲二の船で病院へ搬送し一命を取り留めたが、東京で手術をするために島を離れることになる。一方凛子ももう一度教師に戻るべく島を離れることにする。憲二の家には黄色い風船がいつも結えられていた。それは、かつて息子が、漁に出た父が無事帰るようにと結んだ物だったが、今は妻と息子をいつまでも待っているという憲二の合図だった。そんな憲二に義父は、これまでついつらく責めたことを謝る。

 

島を離れる日が近づき、憲二ら島の若者達は浜でバーベキューパーティをする。憲二を慕う咲や子供達ら島の人たち、凛子らは楽しく過ごすが、突然雨が降ってくる。それをきっかけに、せっかく立ち直りかけた憲二は過去を思い出し、その場から走り去ってしまう。後を追う凛子。それから憲二は、また家から出られなくなる。凛子や咲が訪ねて行っても出てこない。間も無く凛子の去る日が来る。

 

港で咲は凛子を見送るが、やってこない憲二の家に連れて行ってもらう。咲の懸命の声かけに、ようやく起き上がった憲二は、玄関で咲を抱きしめる。船に乗った凛子は、彼方に二つの黄色い風船が飛んでいるのを見つける。凛子と繁三を待っているという憲二のメッセージだった。憲二の家では、憲二が咲と一緒に、家にゆわえている風船を飛ばすことにする。ようやく憲二は前に向けるようになったのだ。黄色い風船がドンドン空に上がって行って映画は終わる。

 

とにかく、一つ一つの場面、セリフ、カットが丁寧に描かれていて、見ていてどんどん登場人物の心の変化と一体になっていき、最後は胸がいっぱいになってしまいました。本当にいい映画でした。

映画感想「おばあちゃんの家」(デジタルリマスター版)「終末の探偵」「キッド」(4Kデジタルリマスター版)「サニーサイド」

「おばあちゃんの家」

胸に染みいるような名編でした。淡々と語られる年老いた祖母と孫の物語ですが、たまらなく郷愁に浸らせてくれました。本当に素朴でいい映画です。監督はイ・ジョンヒョン

 

母に、バスに乗って山深い村に住む祖母のもとに連れられていくサンウの場面から映画は始まる。母が仕事を見つけるまでサンウを預けるためだった。無理やり預けられ、サンウは何かにつけて祖母を馬鹿にしたり反抗したりする。とはいえ、まだまだ幼いサンウが、時に祖母に頼る仕草を見せる。映画は祖母とサンウの何日かをただ語っていく。

 

近所に住む少年チョリとどことなく親しくなり、チョリの妹ヘヨンにほのかな恋心を覚えるサンウ。祖母の裁縫の針に糸を通してやったりする。持ってきたゲームの電池がなくなり、祖母のかんざしを盗み一人で村に降りて道に迷って、自転車に乗っていたおじいさんに助けてもらったりする。

 

することがなくなり、少しづつ、祖母の行動に興味を持ち始め、雨に降られた洗濯物を取り入れたやったりする。祖母はサンウが食べたいと言うフライドチキンを作ろうと鶏を手に入れて茹でて出したりするが、サンウは意味がわからず反抗。しかしお腹が空いて食べてしまう。自分の荷物を持ってきたカートを使って祖母の荷物を運んでやったりする。

 

ある時は、かぼちゃを市場に売りにいくのにサンウもついていく。売れたお金で祖母は自分は食べずサンウに食事をさせたりし、食べたいと言うチョコパイを買うために知り合いの雑貨屋に行って、サンウに買ってやる。帰りのバスで、サンウはチョリ達と帰るからと祖母と別れる。いつまでも帰ってこない祖母が心配なサンウは遅く戻ってきた祖母を見つけて泣いてしまう。祖母はサンウのゲームボーイを包んでサンウに渡したが、サンウはそれをポケットに捩じ込んだだけだった。後から見てみると、包みの中に電池を買うためのお金が入っているのを見つける。

 

まもなくして母からサンウに手紙が来る。それはサンウが祖母との別れの時が来たのを知らせるものだった。母が迎えに来る前の晩、サンウは糸を通した針をたくさんん作ってやる。翌日、サンウは自分が大事にしていたロボットカードを祖母に渡す。その裏には字の書けない祖母が困らないように、体が痛い時、自分に会いたい時手紙を送れるようにしたものだった。去っていくバスを見送り、祖母は家までの坂道を登って行って映画は終わる。

 

小さなエピソードを積み重ねながら、次第にサンウと祖母の心が通じ合っていく様がたまらなく切ない。さらに、サンウとチョンの友情やヘヨンとの淡い恋物語などもとっても瑞々しくて素敵です。全く口が利けず、耳も聞こえない祖母の存在感が次第にサンウに通じていく展開も素晴らしくて、本当にいい映画でした。

 

「終末の探偵」

荒削りではあるけれども、軽いテンポで展開する小気味良いアクション映画というさりげなさがとっても心地よいハードボイルド映画でした。監督は井川広太郎。

 

とある裏カジノのテーブルでカードをする主人公新次郎。結局負けてしまい、次の瞬間大暴れした描写の後その場に倒れる新次郎。そこへ、幼馴染で笠原組幹部の恭一が新次郎を助け出す。こうして映画は始まる。恭一は新次郎に、笠原組が敵対する中国マフィアパレットが関わったらしい放火事件を調べてくれと依頼してくる。新次郎は喫茶店を事務所にしている探偵だった。事務所に戻った新次郎は一人の少女ミチコから、クルド人の友人リディアを探して欲しいと依頼される。

 

新次郎はパレットの幹部チェンの居場所を探し始めるが、ようやく見つけたものの、チェンは自分たちの仕業ではないと答える。新次郎は幼い頃助けてもらった安井老人と出会い、地元のボランティアで佐藤という若者を紹介される。その頃、恭一がボーガンで襲われる事件が怒る。新次郎はボーガンを撃った男を探し始めるが、恭一の子分が勝手にチェンの部下が犯人だろうと襲って怪我をさせてしまう。怒った笠原組組長は恭一を責める。組長は、成金の中国系財界人辻原と懇意にしていた。組長は笠原組とパレットが抗争になり両方潰れた後辻原の計画する再開発に関わるつもりをしていた。

 

新次郎は街で突然ボーガンを撃たれる。犯人を必死で追った新次郎はそれが佐藤というボランティア青年だと突き止める。しかも、佐藤はミチコもターゲットにしていた。佐藤は町のゴミのような人間を狙い撃ちしていたのだ。新次郎はミチコに危険を知らせ、佐藤をリンチにしてしまう。そして、リディアが辻原に拉致されていると知った新次郎は辻原の家を襲いリディアを助け、ミチコに引き渡す。しかし、誰が密告したのか、リディアは不法入国者の施設に送られてしまう。

 

新次郎は安井老人に誘われ、ミチコと一緒に商店街のレトロな喫茶店に行く。この日で閉店するのだと言う。街の姿が変わっていくのを嘆きながらスパゲティを食べる新次郎。後日、中華料理を食べている新次郎の外で、チンピラらが喧嘩をしていた。新次郎がちょっと手を出してまた店に戻り、食べ続けて映画は終わる。

 

たわいのない低予算のハードボイル映画ですが、こういう肩の凝らないアクション映画は見ていて楽しいですね。北村有起哉がいい味を出していて、ミチコ役の武イリヤは抜群い可愛いし、とっても楽しめました。

 

「キッド」

四十年ぶりくらいの再見。軽妙なドタバタ喜劇とほんのり感動させる人情噺のバランスの完成度が高い名作中編。監督はチャールズ・チャップリン

 

慈善病院から赤ん坊を抱いた若い女性が出て来るところから映画が始まる。育てられない彼女は、大邸宅の前に止まっている車に赤ん坊を置いて立ち去る。車は盗まれ、泥棒達は後ろの席の赤ん坊を道端に捨てて立ち去る。通りかかったチャーリーは、その赤ん坊を拾い、育てるつもりはなかったが、成り行きで育てることになり五年が経つ。

 

子供にジョンと名付け、子供にガラスを割らせて自分がガラスを修理するという仕事で生活をしていたが、警官に目をつけられ、たまたま病気になった子供を診察した医師が、孤児院に入れるべきだとチャーリーに忠告。子供は捨てられる時に母からの手紙を持っていて、チャーリーが大事にとっていたのだ。

 

一時は孤児院に連れていかれそうになるが、子供はチャーリーの元に戻って来る。一方母親は有名な女優になって裕福となり、慈善活動をしていた。たまたまジョンとも街で出会う。母は五年前に捨てた子供を探す新聞広告を出す。福祉所で寝ていたチャーリーとジョンは、福祉所の管理人の通報で、ジョンが連れ去られ、警察署で母と出会う。子供を失ったチャーリーは失意のどん底になり、天使達と戯れる夢を見る。

 

目が覚めると、警官がチャーリーをとある大邸宅に連れていく。そこにはジョンの本当の母がいてジョンと再会したチャーリーは、その家に招かれて映画は終わる。

 

ドタバタ劇のテンポ良さとラストの感動が見事にバランスが取れた作品で、やはり何度見てもしんみりしてしまう一本でした。

 

「サニーサイド」

短編ドタバタ劇の一本。監督はチャールズ・チャップリン

 

サニーサイドの街で雇われ人のチャーリーは、この日も雇い主に様々な仕事を押し付けられ、ドタバタとこなしている。街で一人の女性に恋をしたチャーリーは、彼女の心を射止めようと必死になる。ところが街にやってきた紳士に彼女を取られ、がっかりしたチャーリーだが全て夢で、チャーリーはその女性とハッピーエンドとなり映画は終わる。

 

なんのことはない作品ですが、テンポ良いドタバタ劇を楽しめる一本でした。

映画感想「アメリカから来た少女」「離ればなれになっても」

アメリカから少女」

淡々と静かに進む映画ですが、いつのまにか主人公の心が変化していく様が見えてくるとってもいい映画でした。監督はロアン・フォンイー。

 

アメリカから台湾に戻ってきたファンイーと妹のファンアン、母のリリーが空港についたところから映画は始まる。母の乳がんの手術のために戻ってきたのだ。アメリカでの生活にすっかり馴染んでいるファンイーは何かにつけて反抗的な態度で両親を困らせてしまう。中国語についていけず学校でも成績は下位、しかもアメリカンガールと言われてのけものにされていた。唯一、幼い頃近所に住んでいた友達と仲良くしていたが、ファンイーと付き合うと成績が下がると友達の母に言われてしまう。

 

リリーの手術は成功したものの、術後の治療の副作用や、不安もあって常にイライラしていて、娘二人も次第に母を遠ざけるようになる。父は出張がちで自宅にいることも少なく、リリーに全てがかかってくることも苛立たせる原因だった。

 

ファンイーは、アメリカにいた頃乗馬をしていて、仲のいいスプラッシュという名の馬を懐かしむ日々だった。母への不満はネットカフェで自身のブログに書き込んでいたが、その投稿を学校の先生が見つけ、弁論大会に出てみないかと言われる。弁論大会で優勝したらアメリカに戻して欲しいと父に頼むファンイー。

 

ところが弁論大会を明日に控えた日、妹のファンアンがSARSの疑いで入院することになり、ファンイーも自宅待機になってしまう。これまでの不満が爆発し、両親にも当たり散らした末、ネットで見つけた乗馬クラブに一人向かう。そこで、スプラッシュに似た白馬に声をかけ一緒に外に出ようと誘うが馬は言うことを聞かない。そこで初めて、ファンイーは生活が変化したことを受け入れる。そしてファンイーはパトカーで連れ戻される。

 

心配していた父が彼女を迎える。翌朝、リリーに電話が入る。ファンアンはただの肺炎だったという。安心する家族。ファンイーはリリーをいたわり、耳掃除をして欲しいと甘える。しばらくして、父はファンアンを連れ帰ってくる。二階から見下ろすファンイーはファンアンに声をかける。こうして映画は終わる。

 

アメリカから台湾にやってきた少女ファンイーの不安な心、それは、母が死んでしまうのではないかという怖さと、台湾に馴染めない自分との葛藤でもあった。そんな彼女が、次第に心がほぐれていき、両親のさりげない言葉や行動で、優しさを思い出していく様がとっても心地よい。ラストのセリフにファンイーの全ての思いが込められているように思いました。いい映画でした。

 

「離ればなれになっても」

めちゃくちゃに良かった。四人の若者の人生を交互に交差させながら描く青春群像という感じの作品で、ストーリーテリングが上手いのか、混乱することなく、それぞれの物語は、入れ替わろ立ち変わり交錯していく流れに二時間以上もあるけど引き込まれてしまいました。ラストの処理も美しいし、画面が映画になっている。とっても素敵な人間ドラマを堪能できた感じでした。監督はガビリエレ・ムッチーノ

 

花火の音から画面は新年を祝う花火を見ている一人の男ジュリオの姿に変わる。傍に娘がたち、室内から呼ぶ声に振り返って映画は1982年、ローマに遡る。ディスコでしょうか、ジュリオ達が騒いでいるが外で暴動が起こったらしいと野次馬になって外に飛び出すが、閉め出されてしまう。暴動に巻き込まれそうになる途中一人の若者リッカルドが撃たれて倒れる。駆け寄ったジュリオとパオロが病院へ担ぎ込み、三人の友情が始まる。パオロは当時インコを飼っていて、学校で一人の少女ジェンマと知り合い恋に落ちる。四人は束の間の青春を謳歌する。しかしまもなくしてジェンマの母が亡くなり、孤児になった彼女はナポリの伯母に引き取られることになる。

 

行きたくないジェンマはパオロの家に逃げ込み、体を合わせるが、ジェンマが、パオロと一緒に行きたいと言う誘いにパオロは断らざるを得なかった。諦めたジェンマは部屋を出て迎えに来た伯母の車に乗るが、それを追いかけてパオロのインコが窓の外に飛び出す。しかし、部屋に戻る際窓ガラスに激突してしまう。時が経ち1989年、ジェンマはナポリで新しい恋人ができたが、生活は荒れていく。時とともに、リッカルドは映画の世界へ、マルコは教師に、ジュリオは弁護士になる。ジェンマはたまたま彼氏と来たローマでパオロと再会する。パオロのことが忘れられないジェンマは、ナポリを抜け出しローマに帰ってくる。

 

パオロとジェンマはしばらく拠りを戻し幸せに暮らすが、まもなくしてジェンマはジュリオと交際するようになる。そんな頃、リッカルドはアンナという女性と結婚、幸せに暮らし始める。ジュリオは弁護士として順調な人生を歩み、ジェンマと結婚して幸せな日々になる。ところが、たまたま恩師が手がけていた悪徳代議士の弁護を引き受けることになったことから人生が変わる。力のある代議士の弁護を見事に勝ち抜き、その娘マルガリーターと知り合った。そしてマルガリータといい仲になったジュリオはジェンマを捨ててしまう。リッカルドは怒るものの、リッカルドとアンナ、その息子アルトゥーロの生活も危機を迎えていた。リッカルドは仕事がうまくいかず夫婦仲はギクシャクし始め、やがてアンナはアルトゥーロを連れて家を出て別の男性と生活するようになる。

 

アルトゥーロが成長するにつれて、リッカルドはアンナたちと疎遠になってくるが、アルトゥーロの16歳に誕生日に押しかけていったリッカルドはアルトゥーロから冷たくされてしまう。一方パオロは、専任教員の仕事が決まり順風満帆な日々を送っていたが、ある時、子供のレオナルドを連れたジェンマと列車内で再会する。ジェンマは、オペラ座のそばのカフェで働いているのだと言う。パオロはオペラを見に行く。そこで、かつて死んでしまったインコが天井に舞うのを見て、ジェンマがパオロの部屋を飛び出し、伯母の車に向かった後引き返して階段を登ってくるのを思い浮かべる。少女から大人に階段を駆け上るジェンマ、このシーンがめちゃくちゃに素敵。

 

そんな頃、ジュリオにも娘が生まれるが、夫婦仲は次第に溝ができ始め、引き継いだマルガリータの父の事業もうまくいかず家庭は冷め始める。マルガリータは外で浮気をするようになる。ジュリオは、成人した娘をかつて自分が育った貧しい半地下のアパートに連れていく。ある時、リッカルドは駅でジュリオと再会する。そして電話番号を交換する。

 

マルガリータの冷たい言葉に沈み込んだジュリオに電話が入る。かつて若い頃集ったカフェに行ってみると、リッカルドとマルコがいた。三人で懐かしみ、その後、マルコの家に三人で押しかけ、そこでマルコと結婚したジェンマと再会する。そして、カウントダウンの夜に集まろうと言い合う。

 

晦日の夜、リッカルドと息子のアルトゥーロ、マルコとジェンマの息子レオナルドらが集っていた。やがて花火が上がり始める。そんな頃、ジュリオの家でもカウントダウンパーティが行われていた。冒頭のシーンである。傍にきた娘と部屋に入る。次のカットで、マルコ達のところにジュリオとその娘がやってくる。それぞれの息子や娘が親しく挨拶をし、親達もお互いの人生を噛み締め思い出すように花火を見つめながら映画は終わる。

 

一見、混乱しそうなくらいに交錯していく四つの人生の物語ですが、たくみに重ね合わせながら描いていく手腕が見事で、もちろん若干のアラがないわけではないのですが、息子、娘まで絡ませていくラストの処理は絶品。オペラ座でのマルコの幻覚映像も拍手ものだし、とっても良い映画に仕上がっています。二時間以上あるのに本当に人生の機微に胸が熱くなってしまいました。

映画感想「ラ・ブーム2」(デジタルリマスター版)「サーカス」(デジタルリマスター版)「一日の行楽」「巴里の女性」(デジタルリマスター版)「のらくら」

ラ・ブーム2」

一作目の方がストーリーに小気味良いテンポがあって良かった。ソフィ・マルソーの魅力だけで展開する映画という感じで、大体の流れが前作同様で新しみもなかったけれど、テーマ曲は素敵だし、楽しめるラブストーリーでした。監督はクロード・ピノトー。

 

田舎で暇を持て余しているヴィックにプペットから連絡が入りパリに戻ることになる。列車の中でフィリップという青年のパスポートと入れ替わってしまったヴィックは、友達のペネロプとフィリップの元を訪ねる。こうしてヴィックとフィリップのラブストーリーが始まる。

 

プペットの結婚、アニメで成功していく母フランソワーズ、診療所を辞めて研究に専念する父フランソワ、父のためにバレエを習うペネロペの妹サマンサ、ヴィックの弟ルカの登場などが絡んで、ヴィックの初体験への甘酸っぱい青春ラブストーリーが流れていく。

 

二年前に別れたマチューと街で再開したサマンサは、ヴィック達をマチューのブームに誘う。そこで、ゲームして、娼婦で街に立つ罰ゲームをするヴィックとサマンサ。そこへ通りかかったフランソワとのエピソードから、例によって娘のことが心配でたまらないフランソワとフランソワーズのヤキモキが次々と展開していく。

 

アニメの仕事で遠方に行く予定になるフランソワーズと研究の仕事で遠方に行くフランソワの悩む流れと、ふとした行き違いで疎遠になったヴィックとフィリップの例によっての展開。やがて、フィリップは進学のため旅立とうとするが、駅で追いついたヴィックがすがりついて抱き合って映画は終わる。

 

一作目に比べてかなり雑な展開になっているのは、この時代の2の典型です。ソフィ・マルソーもわずか二年ですっかり女っぽくなって、その成長を見る映画でもありました。

 

「サーカス」

典型的なチャップリン喜劇で、ドタバタあり、恋あり、切ない感動ありとテンポよく展開する一本でした。監督はチャールズ・チャップリン

 

サーカスの空中ブランコ乗りの少女は、今日も失敗して団長に怒られていた。一方、見せもの小屋を眺める主人公チャーリーは隣のスリがすった財布をポケットに入れられ、あらぬ疑いと、臨時収入を得る。警官とのドタバタ劇の中で飛び込んだのはサーカスだった。そこで観客に大ウケ、それを見た団長はチャーリーをコメディアンとして雇うことにする。その最初の朝、たまたま空中ブランコ売りの少女と知り合う。

 

チャーリーはサーカスの人気者となり、空中ブランコの少女モーリーに恋心をもち始めるが、少女は新しく来た綱渡りの青年レックスに恋心を持つ。落ち込んだチャーリーだが、綱渡りを練習、たまたまレックスの不在の時に綱渡りをするが大失敗をしてサーカスを追い出される。折しもモーリーもサーカスを辞めてチャーリーのところに来るが、レックスとモーリーの恋を成就させようとチャーリーはレックスにモーリーと結婚するように勧める、やがてサーカスの旅立ちとともにチャーリーは一人放浪の旅に出る。

 

恋あり、笑いあり、感動ありの三拍子詰まったチャーリー・チャップリン喜劇の秀作でした。

 

「一日の行楽」

チャーリー家の一日を描くドタバタコメディです。監督はチャールズ・チャップリン

 

家を出て車に乗り込むチャーリー一家は、遊覧船に乗ることになりドタバタ劇が展開、帰りに交差点でドタバタ劇があり自宅に戻って映画は終わる。単純なスラップスティックコメディでした。

 

「巴里の女性」

チャップリンが出演しない、しかもシリアスな映画ですが、正直退屈な一本でした。やはりチャップリンの名人芸がチャップリン映画を支えているのでしょう。監督はチャールズ・チャップリン

 

一人の女性マリーは、恋人ジャンと出かけることに反対の父に部屋に閉じ込められる。窓から抜け出てマリーとジャンは逢瀬をし、結婚を誓う。マリーが戻ってみると家に入れてもらえず、マリーはジャンの家に行く。しかしジャンの父もマリーとの結婚に反対だった。ジャンはマリーとパリへ行って結婚することにして駅にまたせる。

 

支度に家に戻ったジャンだが、しかし母親の説得もあり、父も渋々許す。しかし父は突然心臓麻痺で死んでしまう。マリーの元に行けなくなったジャンは電話で話そうとするが、うまく伝わらない。そして時が経つ。

 

パリで大金持ちピエールと交際を始めたマリーは裕福な生活をしていた。そんなある時、マリーは画家をしているジャンと再会する。しかしジャンは貧しかった。マリーは今の生活を続けるか、貧しいながらもジャンと結婚するか悩む。結局、ピエールとの生活を選んだマリーに、ジャンは一目会いたいと手紙を残す。

 

高級レストランでピエールと食事をするマリーの前にピストルを持ったジャンが現れるが、ピエールにあっさり追い返され、出口で自殺する。息子の自殺の原因がマリーだと知った母はマリーを殺そうとピストルを持って出るが、マリーがジャンの遺体にすがって泣いている姿を見て、殺すのをやめる。

 

マリーはピエールとも別れ、ジャンの母と孤児院を始める。この日も、弁当を届けに百姓の荷車に乗る。その横をピエールが車ですれ違い映画は終わる。

 

淡々と続く物語は、次第に退屈になっていく。スパイスになる展開もなく、と言ってストーリーの面白さも今ひとつという感じの映画でした。

 

「のらくら(ゴルフ狂時代)」

四十年ほど前に見ている一本ですが、なかなか面白かった。監督はチャールズ・チャップリン

 

駅に列車が入ってきて、荷物室から浮浪者チャーリーがゴルフバッグを持って降りてくる。一方、夫の迎えを待つ一人の妻だが、夫は飲みすぎて駅に行き損なう。妻の怒りを買い、しばらく別室で生活しようと言い渡される。そんな妻だがやはり寂しくて、次の仮装パーティに来てくれるなら許してやると手紙を渡す。

 

そんな頃、チャーリーはゴルフ場でドタバタ劇を演じていた。途中、一人の美しい女性が馬に乗って通りかかる。その女性は孤独な妻だった。

 

チャーリーはドタバタ劇の中で仮想パーティに紛れ込んでしまう。そこには孤独な夫も来ていたが鎧の仮面が取れなくなっていた。孤独な妻は夫の姿を探すが、そこへ夫に瓜二つのチャーリーが現れ夫と思ってしまう。ドタバタが繰り返した後、孤独な夫の仮面がチャーリーによって剥がされ、全て丸く収まりチャーリーはまた放浪の旅に出て映画は終わる。

 

短編ですが。よくできたストーリー構成で最後まで楽しめました。