くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「果てしなき情熱」「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」

「果てしなき情熱」

笠置静子特集の一本。作曲家服部良一をモデルにしていると言っても全く別物の一人の作曲家の人生ドラマという感じで、ちょっと仰々しい演技とあざとい演出が鼻につく作品でした。岡田淑子、淡谷のり子らの大スターを出演させた音楽ドラマという感じでした。監督は市川崑

 

コップのアップから、背後に一人の男の姿、駆け込んで来た女性がその男が自殺をしようとしているのを止める。男は夜の街に出ていき映画は3年前に遡って始まる。キャバレーの専属作曲家三木は酒に溺れ、思うように作曲も進まず貧乏世帯であるが、クラブ歌手雨宮は彼の曲の素晴らしさを知っていた。ある日、キャバレーのボーイに言い寄られた石狩しんが逃げ、三木の部屋に駆け込んでくる。しんは酔い潰れる三木を見て、どこか惹かれるものを感じる。

 

三木の「湖畔の宿」の歌を勝手にレコード会社に雨宮が売り込んで金を手にしてくれるが、そんな行動も三木には許せなかった。一人信州へ旅行に行った三木は、湖畔で愛犬が溺れて困っている小田切優子と出会う。三木はすっかり優子に惚れてしまうが名前もかわさず別れてしまう。

 

戻った三木は、たまたま男に絡まれている女性を助け、誤って殺してしまって刑務所に入ることになる。しかし、出所の日、しんが出迎える。しんの気持ちに絆された三木は結婚を申し込む。しかし結婚式の夜、三木は停留所で優子と再会する。優子には夫がいた。三木はやるせない思いのまま結婚式に戻り、しんと結婚するが気持ちは優子から離れず、その後、作る曲は全て優子に捧げるものだった。それでも三木の曲は大ヒットして有名になって行く。しかし、貧乏世帯は変わらず、しんはキャバレーで下働きをするようになる。

 

しんと三木の仲も溝ができたまま埋まらなかったが、しんは三木を献身的に支える。それでもとうとうしんは離婚を決意するが、雨宮に、三木は子供みたいな人だから支えてやって欲しいと言われる。一方、三木は自宅に戻らず、とうとう優子の家の前にやってきたが、この日、優子は亡くなっていた。意気消沈した三木は自宅に戻り自殺しようとするが、そこへしんが駆けつけ思いとどまらせる。冒頭のシーンである。三木はしんに、死ぬのだけはやめて欲しいと言われ、一人海岸へ行き、楽譜の中で泣き崩れて映画は終わる。

 

物語の出来の良し悪しより、音楽劇の色合いが全面に出た作品で、市川崑作品の中では中の下レベルの一本だったが、時代を感じさせる意味では楽しめる映画でした。

 

レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ

楽しいコメディだった。とんがったリーゼントにとんがった靴、そのユニークな出立のレニングラードカウボーイズの微笑ましいロードムービーの秀作。全編流れる軽快な音楽と、コミカルな展開、思わずニヤッと笑わせるユーモアに、微笑ましい人間愛を感じてしまいました。監督はアキ・カウリスマキ

 

ツンドラで凍えた大地のショット、畑にとんがったリーゼントでギターを持った男が凍っている。その向こうの小屋でレニングラードカウボーイズが賑やかに歌っている。それをじっと見る音楽プロデューサーだが、これでは商売にならないと呟き、アメリカなら大丈夫かもしれないとアメリカ行きを勧め、従兄弟を紹介してもらう。早速リーダーウラジミール率いるレニングラードカウボーイズアメリカへ旅立つ。当然、凍った仲間も連れて行く。

 

アメリカに着いて、巨大で豪華な車を全財産注ぎ込んで購入する。彼らを慕う頭が禿げた男も後を追ってくる。従兄弟に演奏を見てもらうが、今やロックンロールだと言われ、早速ロックンロールを勉強、次の店でロックンロールを披露する。音楽プロデューサーの従兄弟にメキシコで従姉妹の結婚式があるからそこで演奏して欲しいと言われ、一路メキシコを目指す。しかし、途中の店での演奏の評判は最悪で、次々と店を追い出される。少ない給料をウラジミールは独り占めして進んでいくが、とうとう仲間に見破られ、ウラジミールは縛られて車に乗せられる。そしてメンバーもホームシックがで始めた頃、頭の禿げた男は追いついてウラジミールを助け、いよいよメキシコへ到着。

 

結婚式で演奏するが、凍った仲間も溶けて、一緒に演奏する。それを見ていたウラジミールはサボテンからテキーラを注いで飲んで何処かへ消える。ウラジミールはそれ以来姿が見えなくなったことと、レニングラードカウボーイズがメキシコでトップテンに入ったというテロップが出て映画は終わる。

 

とにかく、ユーモア満載の音楽ロードムービーで、心地よいテンポと笑いの連続に終始微笑みが途切れない楽しい映画だった。

映画感想「過去のない男」

過去のない男

淡々と展開する渇いたコメディという感じの一本で、例によって軽快な音楽センスと冷めたユーモアの数々がニンマリさせてくれて楽しい作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

列車の中、一人の男が乗っている。目的地に着いたがまだ夜明け前の深夜で、公園で居眠りをしてしまう。そこに暴漢が現れ、男を殴り倒し、金を奪い、財布を捨て、カバンから溶接の仮面を男に被せてその場を去ってしまう。病院に担ぎ込まれるが、顔中包帯で瀕死の状態。間もなく心肺が止まってしまい医師は死を宣告して部屋を出る。ところが直後、男は起き上がり、体に繋いでいる線をとって外に出るがしばらくして河岸に倒れる。その男を子供らが発見し、トレーラーハウスに住む夫婦に知らせる。夫婦は男を介抱し、やがて男は元気になるがが記憶が無くなっていた。

 

施しのご飯を食べ、この地の警備員の男にトレーラーハウスの空き部屋を紹介してもらう。福祉局のイルマに勧められて服を手に入れ、仕事をしようとするが、名前もない中では見つからない。そんな男はイルマと付き合うようになる。男はこの地で福祉局の仕事を手伝い、救援団のバンドに庶民的な音楽をした方が良いと企画しながら生活する。

 

ある日、溶接の仕事を見ていてかすかに自分の記憶が戻り、その溶接を手伝ったことで仕事をもらえることになる。給与が振り込みだから銀行で口座を開いて欲しいと言われ、地元の小さな銀行へ行くが、そこへ強盗が入る。強盗は自分の経営している会社の金を奪い男と銀行員を金庫に閉じ込めて逃走する。銀行員の機転で、スプリンクラーを作動させて二人は脱出するが、男は警察に捕まる。そして名前もない中拘束するしかないと留置所に入れられる。

 

男はイルマに連絡し、イルマは福祉局から弁護士を派遣してもらう。そして無事釈放されたが、後をつけてきたと言って強盗が声をかける。そして、自分は溶接の会社をしていたが、解散するので従業員に金を配って欲しいという。男は引き受けるが直後強盗は自殺する。しかし、強盗と思われた男の顔写真が新聞に載り、妻から連絡が来る。

 

男は列車に乗り、妻の待つ家に行くが、妻は、男はいつも博打ばかりで夫婦喧嘩が絶えず離婚することになったと言う。そして新しい恋人と一緒に暮らしていた。男はその恋人に妻を託し、再び列車に乗る。そこで寿司を食べて日本酒を飲む。そして戻ってくる。ところが列車を降りたところで自分を襲った暴漢が別の男を痛めつけている現場に出くわす。男は木切れを持って応戦しようとすると、あちこちから浮浪者らしい仲間が現れ暴漢を追い詰めていく。その中に警備員もいた。警備員は親睦会の最中だからと男に伝える。男が親睦会の会場に行くとイルマが待っていた。男はイルマと手に手をとって踏切を渡り去っていく場面で映画は終わる。

 

とにかく、至る所にニヤッとさせるセリフや、テンポいい音楽を挿入し、なぜか日本食が出てきたり日本の歌が流れたりと遊び心にも溢れているユニークさがクセになります。カウリスマキ色満載の一本でした。

映画感想「ゴーストバスターズ フローズン・サマー」「オッペンハイマー」

ゴーストバスターズ フローズン・サマー」

理屈づけがやたらくどい上にストーリー展開にキレがないのとダラダラ感が否めず、結局ひねくれた少女が引き起こした人類の危機を自らの知識で退治することになるという雑な話になっていた。そこに昔からのメインキャストを登場させざるを得ず、どんどんくどさが広がってきて、ヒーロー達の登場にもワクワク感がないし、悪役の恐ろしさも今ひとつユニークさに欠ける。全体にそろそろネタ切れ限界という仕上がりの娯楽映画でした。監督はギル・キーナン。

 

20世紀初頭、消防士達が火事の通報か何かで駆けつけると、部屋の中は凍りついていて、傍に金属の球を握った何者かが座っている場面から映画は幕を開ける。そして現代、ゴーストバスターズはニューヨークに現れた竜のようなゴーストを追いかけている。なんとか退治したものの町中破壊してしまって市長からは大目玉を喰らう上に、未成年のフィービーは今後参加することは御法度と言われる。フィービーはその処置に不満を持つものの両親はそのまま受け入れたのでフィービーと両親に溝ができる。

 

フィービーは公園でチェス盤を広げていると、火事で亡くなった同年代の少女の幽霊メロディと出くわし親しくなる。そんな頃、レイモンドの骨董店にナディームという男が金属の球体のようなものを持ち込んでくる。霊的な計測をするととんでもないものと分かり、レイモンドはそれを預かるが、この球体は、かつて世界を凍らせてしまう悪霊ガラッカを封じ込めたものだとわかる。そして、その封じ込めたのがファイヤーマスターだった。実はナディームはファイヤーマスターの末裔だった。

 

ガラッカは封印を解いてこの世にもう一度現れるべく、呪文を人間に呟かせる必要があり、メロディを使ってフィービーに近づいていたのだ。ゴーストバスターズが捕獲したポゼッサーという悪戯幽霊がそのに呪文を盗み出してしまう。フィービーは孤独の中、メロディに近づくべく二分間だけ幽体離脱できる装置に入るがそれは全てガラッカの作戦だった。

 

そして呪文をフィービーは呟いてしまい、ガラッカが鉄の球体から解放され、街を凍らせてしまう。ゴーストバスターズは、初代メンバーらも集まってガラッカに対抗するが歯が立たない。しかしフィービーが考えた真鍮を組み入れた銃をガラッカに向け、さらにナディームの力も覚醒して、ガラッカは破壊されてしまい大団円、ゴーストバスターズは市民達に歓声を受けて映画は終わる。

 

とにかく、そろそろネタ切れ感満載で、話がまとまっていないし、様々なエピソードをこれでもかと並べる作りになってきたので、このシリーズも限界かなと思う。まあ気楽に見れるからこれも良いかもしれません。

 

オッペンハイマー

全編息を呑むほどの緊張感に包まれ、目まぐるしいほどに細かいカットの連続と、三層に分かれたストーリー展開が交錯していく作劇にさすがにぐったり疲れてしまった。オッペンハイマーマンハッタン計画に参加するまでの前半、マンハッタン計画の成功までの中盤、そして政治的に貶められていく後半という三つの展開はシンプルなのですが、いかんせん登場人物と時間軸のシーンが次々と入れ替わり立ち替わり画面に関わって来るので、細かい部分にこだわっていられなくなる。それでも、原爆が完成してトリニティ実験が成功するところから日本に原爆投下されたという連絡が入るあたりは涙が止まらなかった。手放しで傑作だという感想は書けない作品ですが、アカデミー賞を山にように取るほどの力はなかった気がします。監督はクリストファー・ノーラン

 

どこから話が始まるものかはっきりと書き出せないのですが、オッペンハイマー博士が小さな部屋で国家反逆の疑いで審問されている場面に続いて自身の過去や発言を証言している場面で映画は幕を開ける。ここまでをFISSION(核分裂)としている。そして、戦後、米国務長官の任命に際する公聴会で、ストローズがオッペンハイマーとどう関わっていたかヒヤリングされているモノクロ映像が続き、これはFUSION(核融合)と表現される。

 

若き日のオッペンハイマーは、量子理論を唱え、当時の最高物理学者ハイゼンベルグやボーア達から学び、量子力学の第一人者になっていく。この時期、友人ラービ博士にも出会う。

 

ストローズは1947年、オッペンハイマーをAEC顧問に任命する。オッペンハイマーはかつて自身にかけられた嫌疑について言及するがオッペンハイマーの実力を高く評価しているからと任命した。実はストローズはオッペンハイマーと初めて会った際、アインシュタインオッペンハイマーは池のそばで言葉を交わしたのだが、何を言ったのかが気がかりだった。

 

オッペンハイマーは大学で量子力学の講義を進めるが、ドイツの科学者がウラニウム核分裂に成功、ドイツがポーランドに侵攻を開始したと知り、核爆弾の開発が急がれると感じ始める。一方、オッペンハイマーの弟フランクは共産党員になり、さらに学生時代の恋人ジーンや妻キティも共産党員だったことからオッペンハイマーは政府から疑念を抱かれ始めた。

 

1959年、公聴会でストローズはオッペンハイマー共産党との関わりの嫌疑はあったもののAEC顧問に任命したのは彼の優秀さ故だと説明する。ただ、ストローズがアイソトープノルウェー輸出の是非についてオッペンハイマーにからかわれたことは根に持っていた。

 

キティは育児に不向きで、頻繁にオッペンハイマーは非難され、子供をシュバリエ夫妻に預けることもしばしばになっていく。しかし、そんなオッペンハイマーだが、周囲からは国のための仕事に頑張るように応援される。

 

1942年、グローヴス大佐に原爆開発の「マンハッタン計画」の責任者に任命され、ロス・アラモスの砂漠地に研究のための街を作りアメリカ中から研究者を家族ごと集めていく。

 

1943年、テラー博士が核の連鎖反応の理論を発見、これが起こると一回の核爆発で大気中に連鎖反応が起こり世界が破滅すると説明する。テラー博士こそのちの水爆の父と言われた人だった。オッペンハイマーアインシュタインに確認を依頼するが断られ、もしこの理論が正しいならナチスと情報共有し人類滅亡を防ぐように言われるが、結局、理論はニアゼロだと判明する。

 

オッペンハイマーはシャバリエから、アメリカ政府がロシアに情報提供していないことを共産党員で優秀な科学者エルテントンが嘆いていることと、彼を通じればロシアに情報提供できると持ち掛けられるが、それは国家反逆罪だと断る。

 

1959年公開審問で科学者の意見を聞くべきという方針にストローズは不満をあらわにする。さらにオッペンハイマーを慕う科学者から不利な証言がされることを懸念する。

 

オッペンハイマーはロス・アラモスでの研究が進み、化学爆発から物理爆発で一千倍ほど威力がアップするのでキロトンという単位が考案され、大きなプルトニウム爆弾と小さなウラニウム爆弾を作る方針に決まる。テラーは原爆より強力な水爆開発を提案するがオッペンハイマーは却下する。

 

1949年、ロシアが原爆実験に成功し、ストローズは水爆開発が必要だと大統領に主張、またロス・アラモスにロシアのスパイがいたのではないかと疑う。

 

ロス・アラモスは規模がますます大きくなり情報統制も難しくなってくる。ストローズがロス・アラモスと敵対していると考えているシカゴ派のフェルミとシラードともオッペンハイマーは情報共有していた。クローヴスから守秘義務について責められたもののオッペンハイマーはグローヴスを説得して黙らせることもあった。

 

ロス・アラモスでは身辺調査も混迷し始め、ロマンティスが立件されてロス・アラモスから退去させられる事件なども起こる。グローヴスは表向きは厳しいものの原爆開発を急ぐあまり研究者の規則違反は黙認している状態だった。

 

この頃、オッペンハイマージーンとも面会し、彼女がまだ自分を愛しているゆえに会ったのだと聴聞会では答える。キティはオッペンハイマージーンが裸で抱き合う妄想を見てしまい、聴聞会で私生活を暴かれることに限界を感じ始める。

 

ボーア博士がロス・アラモスを訪問、彼は核兵器を持つことは人類にはまだ早すぎると警告する。サンフランシスコではジーンが浴槽で不審死してしまう。オッペンハイマーはこの事件で狼狽するがキティが支える。テラーは相変わらず水爆にこだわるためオッペンハイマーはテラーを原爆開発チームから外し独自に開発に専念するようになる。

 

1949年、ロシアの原爆実験を知って水爆開発を進めようとするAECにオッペンハイマーは、まだ時期尚早であり、世界で協力して核技術を共有すべきだと主張する。しかし現大統領トルーマンとストローズに反発される。この頃、AECに加入したボーデンが、軍人時代にナチスのH2ロケットを目撃したことを聞かされ、核爆弾が搭載される未来を想像する。

 

1945年、ドイツが降伏、ロス・アラモスでは原爆開発に疑問の声が上がるが、オッペンハイマーはまだ日本が残っていること、自分たちはあくまで研究者で核の恐ろしさを見せつけることで核技術共有構想に繋げたいと説得する。そしてトリニティ実験を7月に設定、土地勘のある弟フランクを仕事に就かせる。原爆投下の決定会議でも戦争を早く終わらせるためという大義名分で原爆投下が決定する。

 

そして三年の月日と20億ドルという巨費を投じて原爆はついに完成、トリニティ実験と称された実験が行われる。そして実験は成功し、原子爆弾は米軍に移管しグローヴスもロス・アラモスを去る。広島と長崎に原爆投下するために爆弾が搬出されていった。

 

まもなくして原爆投下の連絡の後、ロスアラモスに集まった家族の前でオッペンハイマーは、大成功を祝う演説をするが、彼の背後は地鳴りの如く揺れ、足元では炭のようになった人間を踏み、悲しみに暮れる人々の姿が歓声の中に見え隠れしてしまう。

 

マンハッタン計画の成功とと共に原爆の父として時の人となったオッペンハイマートルーマン大統領と面会するが、「手に血がついた気持ちです」というオッペンハイマートルーマンは「恨まれるのは開発者ではなく投下した私だ」と答える。

 

1959年、政治家のストローズは、オッペンハイマーが立場を利用して政府を誘導したのではないかなどと考え、オッペンハイマーの行動について回想する。

 

1945年、オッペンハイマーはロス・アラモス所長の退任式で「この施設は呪われるだろう」とスピーチする。1959年、ストローズの写真が表紙のタイム誌にオッペンハイマーの批判記事が載る。これはストローズによる世論操作ではないかと言われ、ストローズは1954年の種明かしを始める。

 

1954年ボーデンに情報提供したのはストローズだった。そして身辺調査の手続きにするため小さな部屋での密室にしてオッペンハイマー聴聞会を開いたのだという。そして審査員も検察官もストローズが指名し、オッペンハイマーの弁護士には十分な資料を渡さなかった。この目的は、オッペンハイマーが政治に口を出せないようにするためだったと語る。実際優秀な弁護士を擁したオッペンハイマーは苦戦する。そして、ボーデンのフーバーへの報告書が読み上げられ、オッペンハイマーと弁護士はロシアのスパイ容疑に打ちのめされる。

 

1959年公聴会、シカゴ派の科学者デヴィッド・ヒルはストローズがオッペンハイマーに個人的な恨みがあることと1954年のオッペンハイマーの社会的地位破壊に言及し商務長官に相応しくないと証言する。

 

聴聞会ではテラーはオッペンハイマーは忠誠心があるが行動や発言は理解できないと証言、去り際にオッペンハイマーと握手するがキティは手をださなかった。グローヴスは、誰も信じていなかったしオッペンハイマーも信じていなかったが不信があったわけではないと断言する。

 

1959年公聴会ヒル聴聞会での検察官を指名したのはストローズだったと暴露する。聴聞会では検察官はキティを厳しく詰め寄り彼女が共産党と金銭的に繋がりがあると指摘する。かつて祖国を捨てたアインシュタインオッペンハイマーに、なぜこの国にそこまで尽くすのかと尋ね、オッペンハイマーアメリカを愛しているからだと答える。

 

1959年ストローズが激昂していた。ヒル公聴会でストローズを追い詰めたのはかつて聴聞会でストローズがオッペンハイマーを追い詰めたのと同じことをされ、結局科学者に自身の立身出世を阻まれたと感じていた。それでも、オッペンハイマーを守ってやった気でいるストローズだった。

 

聴聞会ではオッペンハイマーが米国に忠誠ある市民だと認められたが共産党員との関わりは否定できず公職追放となる。1959年の公聴会でストローズの昇進は却下され、彼の昇進反対署名にJFKもいた。

 

1947年、オッペンハイマーがストローズと初対面の日、庭の池のそばに佇むアインシュタインオッペンハイマーに原爆成功を祝福するがいつか決着は下るだろうと告げる。それは賞賛も含まれるがその栄光は所詮人間は自分本位なのだと話す。オッペンハイマーアインシュタインに、地球を燃やし尽くす核爆発の際の連鎖反応の話について、あれは成功だったと告げる。アインシュタインは言葉を失いストローズの脇を過ぎていった。

 

ストローズが最後まで、オッペンハイマーアインシュタインが池のほとりで交わした会話を気にしていたが、ラストでこの場面がフラッシュバックされ、オッペンハイマーは池の波紋を眺めて、地球中に核ミサイルが発射され、世界中が核兵器で破壊され地球が滅ぶ映像の後オッペンハイマーのアップで映画は終わる。

 

トリニティ実験で原爆が完成し、世界が変わる瞬間を作ってしまったオッペンハイマーの苦悩。当初、原爆が爆発すると連鎖反応が止まらず、大気が核爆発を誘発するという懸念が、実は冷戦からその後の核競走への暗喩であったエンディングは寒気がするものがある。オッペンハイマーの妻の存在や、不倫相手の描写など人間ドラマ部分もしっかり描いたゆえか、恐ろしいほど長尺の作品になった上、クリストファー・ノーランお得意の交錯した作劇が、かなりしんどい映画になっています。クオリティは相当ですが、対抗馬が少なかった故のアカデミー賞受賞ではないかと思います。

映画感想「ピアノ・レッスン」(4Kデジタルリマスター版)「街のあかり」

ピアノ・レッスン

初公開以来30年ぶりの再見でしたが、やはりこの映画は名作です。男と女の愛情の不可思議さを徹底的に突き詰めた作劇と、恐ろしいほど大胆な構図、ブルーの色調を中心にした詩的で美しい画面、登場人物それぞれの生々しい感情の彷彿、そしてなんといっても、人間を客観的に見下ろすような天使としての存在感を見せる女の子の存在が素晴らしい。なぜあそこまで夫スチュアートを嫌うのか、なぜベインズに身も心も惹かれていくのか、そこに存在するピアノの不思議なくらいの存在感に映画芸術ともいえる神髄があるのかもしれない。娘のフローラが背中に羽をつけて飛び回る姿もシュールな中に大人をハッとさせる怖さを秘めているのも良い。やはり素晴らしい映画だった。監督はジェーン・カンピオン

 

19世紀半ば、スコットランド、エイダは六歳の時に言葉を発することをやめたというナレーションから映画は幕を開ける。大人になったエイダは娘フローラと共にニュージーランドの入植者スチュアートの元に嫁ぐことになり、ピアノと共に荒れる海をニュージーランドの海岸にたどり着く。しかし、荒れた天候で、船乗り達は帰ってしまい、迎えが来るまで浜辺で娘と野宿することになるエイダ。

 

やがて、夫となるスチュアートが通訳でもある地元の地主ベインズと共に迎えにやって来るが、住まいまで森を抜けなければならず、ピアノは海岸に置いておくことになる。ぬかるみを進んでスチュアートの家までたどり着き、やがて結婚式が行われるが、エイダの態度は冷淡にさえ見えるほどそっけなかった。エイダはベインズに無理を言って浜辺に連れて行ってもらう。エイダはそこで浜辺のピアノを弾くのだがそれを見ていたベインズは、自分の土地と引き換えにピアノを譲って欲しいとスチュアートに申し出る。

 

エイダのピアノはベインズの家に運ばれ、ベインズはエイダに、毎日教えに来て欲しいと頼む。ベインズはエイダに惚れてしまった。ベインズは小屋に来てもらうごとに黒鍵を一つづつエイダに与えると言い、その代わり、エイダの体に触れることを許してもらう。エイダはベインズに言われるままに、ピアノを教えるという口実でフローラを連れてベインズの小屋に行き、足、腕、上半身、と次第にベインズの要求に応えていくが、いつの間にかエイダの心もベインズに惹かれていく。

 

ある日、ベインズはエイダの前で全裸になり、エイダにも服を脱いで欲しいと頼む。そして二人は初めて体を合わせるが、その様子を外で待つフローラは目撃する。その日の後、ベインズはスチュアートにピアノを譲ると申し出る。スチュアートの家にピアノが届くがエイダは弾こうとしなかった。そして、エイダはベインズの元へ出向くようになり、不審に思ったスチュアートがベインズの小屋を覗いてエイダとベインズが抱き合う姿を見てしまう。

 

しかし、エイダは、少しづつスチュアートの体に触れるようになっていく。それでも一線を越えさせようとしないエイダに、スチュアートはある日、エイダを信じるからとエイダを一人残して森へ仕事に出かける。エイダは鍵盤の一つを外し、そこに、自分の気持ちはベインズのものだという言葉を書き込んで、フローラに届けさせようとする。フローラは拒否したものの無理やり押し付けられ、仕方なくベインズの元へ向かうが、途中で道を変え、スチュアートのところに鍵盤を届ける。スチュアートは激怒し、エイダのところに戻ると、斧でエイダの指を切り落とし、フローラにその指をベインズの元へ届けるように言う。

 

泣きじゃくりながらフローラはベインズの元へ向かう。指の怪我で熱のあるエイダを介抱するスチュアートは、ついエイダの体に触れようとするがエイダが目を開き、その視線を感じたスチュアートは行為をやめてしまう。そして、ベインズの元に行くことを許し、二人で旅立ちように促す。

 

ベインズとエイダはピアノを船に乗せ浜辺から沖に出るが、途中でエイダはピアノを海に捨てるように言う。躊躇ったもののエイダの気持ちを汲んだベインズはピアノを海に落とすが、ピアノを縛っていた縄がエイダの足に絡まり、エイダも海の中に引き摺り込まれる。しかし、すんでのところで縄が外れてエイダは海上へ浮き上がる。ベインズとエイダは行き着いた街で、エイダはベインズが作った義指でピアノを教えるようになったと言うナレーションと二人が抱き合う姿で映画は終わる。

 

激しいドラマなのに、落ち着いた淡青な色彩映像と美しい音楽が素晴らしく、フローラがスチュアートのところにエイダが書いた鍵盤を届ける時の極端な斜めの構図や、海を背景にした横長の落ち着いた美しいショット、原住民の粗野な姿と、入植者としてのスチュアートの苦悩など、隅々まで描き込まれた物語に圧倒されたまま、ピアノを通じた三角関係の展開を描く様は群を抜いた仕上がりになっています。一級品の映画の貫禄十分な一本だと改めて感動してしまいました。

 

「街のあかり」

何をやってもうまくいかず、それでも前に前に進む男の姿を淡々とひたすら綴っていく作品で、どこかユーモラスであるのはいつもの空気感の作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

警備会社で働く主人公コイスティネンが職務を終えて戻って来るところから映画は幕を開ける。上司にも信頼されず同僚からも無視されているものの、気にすることなく、このまま警備員で終わるつもりはないとキッチンカーで働く女に話をしている。

 

そんな彼はいつも行くカフェで飲んでいると、男達がコイスティネンに目をつける。しばらくして、コイスティネンはカフェで一人の女ミルヤに声をかけられる。そしてデートをすることになり、映画に出かける。キッチンカーの女にそんなことも報告する。ある時、仕事中に訪ねてきたミルヤとカフェに行き、コイスティネンが少し席を離れた隙にミルヤに睡眠薬を入れられ、車の中で眠ってしまう。コイスティネンは警備しているショッピングセンターの鍵束を持ったままな上に、先日職場を案内した時にミルヤに暗証番号を覚えられていた。実はミルヤは、マフィアがコイスティネンに差し向けた女だった。

 

ミルヤはボスに鍵束を渡して、マフィアは宝石店に入って貴金属を奪う。窃盗事件の時にいなかったコイスティネンは当然疑われ、解雇される。そんなコイスティネンの家にミルヤが訪ねてきる。そして盗んだ貴金属と鍵束をクッションの下に隠すが、鏡を通してコイスティネンは目撃する。しかし、コイスティネンは黙ってミルヤを帰らす。まもなくしてコイスティネンは警察に捕まるが、ミルヤのことは話さず、有罪となり刑務所に入る。しかし、初犯でもあったのでしばらくして仮釈放になり、食堂で皿洗いとして働くようになる。

 

ところがそのレストランにミルヤとそのボスが客としてやってきてコイスティネンと出会う。ミルヤのボスは店長にコイスティネンのことを話したためコイスティネンは首になる。コイスティネンはミルヤのボスをナイフで襲うが、逆にマフィアに捕まりリンチされて放り出される。いつもコイスティネンを見かける道端の少年の通報でキッチンカーの女がコイスティネンのところにやってくるが、コイスティネンはまだまだこれからだと呟いて映画は終わる。

 

なんと言うこともないドラマもない淡々とした作品で、なんともいえない不思議なコミカルささえ感じてしまう一本でした。

映画感想「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」(4Kレストア版)

「荒野の用心棒」

何回目かの再見、名作「用心棒」の焼き直しではあるけれど、これはこれで名作だと思います。砂煙りを白く見せる演出や、クライマックスの足元から靴だけを写して向こうを望むカメラ構図など、拍手ものです。監督はセルジオ・レオーネ

 

アニメタッチのオープニングクレジットの後、メキシコ国境の宿場町サンミゲルへ一人のガンマンジョーがやって来るところから映画は幕を開ける。この町ではロホ兄弟と保安官のバクスター達が利権を争っていがみ合っている。いきなりロホ兄弟が囲っている女マリソルの息子が泣き叫ぶ場面に遭遇したジョーはこの街を掃除してやろうと思ったかどうか、争い合う二組をケンカさせる計画に出る。

 

街の酒場の親父と仲良くなり、ロホ兄弟やバクスターらを快く思っていない棺桶屋の親父も巻き込んで、ジョーは自分をそれぞれに売り込みながら、たまたま軍が運んできた金塊をロホ兄弟のラモンが略奪したのを見たジョーらは、この事件を使って二組を歪み合わせ、さらにマリソルも助け出して解決しようとする。しかしすんでのところでジョーは捕まってリンチに会う。しかしなんとか脱出して、バクスターらを皆殺しにしたロホ兄弟に復讐しに戻って来る。クライマックスは鉄板を胸にぶら下げてライフルの銃撃をかわす名場面から、一瞬の早撃で倒してしまう大団円へ続いて映画は終わる。

 

シンプルそのもののストーリーはオリジナル版「用心棒」をほとんど踏襲した形になっているが、マカロニウェスタンに焼き変えた横の動きを多用したカメラワークとエンニオ・モリコーネの名曲のテンポで、別の意味での名作に仕上がっています。スクリーンで見てこその一本だと思います。

 

夕陽のガンマン

これこそスクリーンで見るべき一本。画面が大きいし、とにかく作品にスケール感が溢れている。しかも、男臭いドラマにさりげない切ない話を組み合わせた展開がとっても良いし、映画らしい名シーンに溢れている。こういう映画を見るとやっぱり映画は映画館だなと思います。監督はセルジオ・レオーネ

 

列車の中、賞金稼ぎのモーティマー大佐が乗っている。トゥクムカリという町で無理やり列車を停めて降り立ち、ターゲットの男を仕留めて賞金を手にする。そして次のターゲットの元へ向かおうとして、最近新入りのモンコという賞金稼ぎも現れたことを知る。モンコはホワイトロックスという町でお尋ね者を殺し賞金を手に入れていた。

 

監獄で燻るギャング団のボスインディオは、仲間の手助けでこの日脱獄に成功するが彼の首には20000ドルという賞金がかけられる。インディオエルパソ銀行を襲うらしいという情報を聞き、モーティマー大佐もモンコもこのインディオを狙ってやって来るが、インディオの仲間が14人いて手こずりそうだとわかり、お互いに手を組んで賞金を山分けすることにする。

 

モーティマー大佐はモンコをインディオの仲間に入り込ませ、中からと外からインディオを片付ける計画を立てる。モンコはインディオの友達を刑務所から助け出し、それをネタに仲間に入る。インディオは別の街で小さな銀行を襲わせ、エルパソ銀行が手薄になった隙にエルパソ銀行を襲う段取りをする。モンコらに他の銀行を襲わせにいくが、モンコは途中でインディオの手下を殺し、帰り道に襲われて風を装って戻って来る。

 

インディオらがエルパソ銀行を襲うタイミングで一網打尽にしようとモンコとモーティマー大佐は待ち構えるが、インディオはいきなり金庫室を爆破して金庫ごと持ち出すという意表をついた作戦に出たため機会を逃してしまう。そこで、モーティマー大佐はモンコに、インディオ達の逃げる先をうまく誘導するようにアドバイスし、まんまとアグアカリンテの街へ行かせる。そこで、インディオらが手こずっている金庫をモーティマー大佐は開けてやりモーティマー大佐も仲間になる。

 

インディオはとりあえず金を一ヶ月保管しておくと言って一軒の小屋の中のつづらに入れて鍵をかける。深夜モーティマー大佐とモンコは小屋に忍び込み、金を取って袋に入れ、つづらに鍵を閉めて判らないようにして逃げ出そうとするがインディオに見つかってしまう。二人はリンチに会うが、インディオの手下の一人がインディオの命令で二人を逃してしまう。インディオは二人を銀行強盗の犯人に見せかけようとしたのだ。そして、二人と自分の手下を撃ち合いさせて、自分と右腕の男で漁夫の利を得ようと考える。しかし、つづらを開けてもすでに金はなかった。モンコらは捕まる前に袋の金を木の枝の中に隠していた。

 

インディオらとわずかの手下に対しモンコらが立ち向かう。そして最後の最後、モーティマー大佐はインディオと一騎打ちとなる。実はインディオは、かつて愛した女性の形見のオルゴールの鳴る懐中時計を持っていた。若い頃、無理やり手に入れようとしたその女性は自殺してしまい、以来彼女への思いが断ち切れていなかった。一方モーティマー大佐も同様の時計を持っていた。自殺した女性はモーティマー大佐の妹だった。そして一騎打ちの末モーティマー大佐はインディオを撃ち殺す。

 

インディオら大勢の手下の死体を手に入れ大漁に賞金を稼いだがモーティマー大佐はモンコに全てを与えて、自分は夕陽の中に去っていく。木に隠した金を取り、死体を積んだ荷車を引いていくモンコの姿で映画は終わる。

 

クライマックス、丸く置かれた石のサークルでのモーティマー大佐とインディオの一騎打ちシーンから、大きく俯瞰でカメラが引いてのラストシーンはまさに映画の世界です。本物のスクリーン映画を堪能できる一本でした。

 

 

映画感想「コール・ジェーン 女性たちの秘密の電話」「ブリックレイヤー」「罪と罰」(アキ・カウリスマキ版)

「コール・ジェーン 女性たちの秘密の電話」

相当に良かった。実話を元にしているとはいえ、エピソードの組み立てが抜群に良い脚本が素晴らしく、クローズアップや背後からのカメラワーク、延々と長回しをするリズム感と軽快な音楽の挿入が映画全体をテンポよく牽引していくタッチも見事。下手をすると重い話になりがちなテーマをメッセージをしっかり伝えながらも、女性のドラマとして完成させたのは秀逸でした。良い映画を見ました。監督はフィリス・ナジー

 

高級ホテルの階段を一人の女性が降りて来るのをカメラが背後から追って行って映画は幕を開ける。共同経営者の会合のような実業家らの華やかなパーティーホールを横目に玄関まで出ると、外ではベトナム戦争反対の若者たちを同じ年代の警官達がホテルを警護している。時は1968年8月、優秀な刑事弁護士の夫ウィルを持つ妻のジョイはこの日も夫のパーティに同行した後帰宅する。しかし、最近彼女は時に気を失いかける症状を感じていた。長女シャーロットは15歳で、最近初潮を迎えたと聞いてジョイは喜ぶが、ジョイのお腹には二人目の赤ん坊がいた。

 

ある日、ジョイはシャーロットとはしゃいでいて突然倒れて病院に担ぎ込まれる。医師の診断は、心臓に問題があり、このまま妊娠を続けることは難しいというものだった。しかしこの時代人口中絶は違法とされ、どの病院も許可していなかった。母体を守るよりも違法性を優先する男性の医師達の行動に、ジョイは辟易としてしまう。夫のウィルも、なんとか無事出産することしか考えない。病院の医師のアドバイスで、二人の精神科医にジョイが精神不安定で自殺しかねないと診断されたら中絶できるかもしれないと言われ、精神科医を受診するが、その診断にならず、メモで違法医師を紹介される。さらに帰り際、受付の女性に階段から落ちたらいいと言われるが、ジョイは結局できなかった。

 

メモの住所でスラム街のような建物を訪ねたジョイだが、やはり思わず逃げ出してしまう。そしてバス停で「コール・ジェーン」の張り紙を見つけ、恐る恐る電話をする。ジェーンからの迎えで、ジョイは黒人のグウェンの車に乗せてもらい目隠しをされてとある建物にやってくる。そこでバージニアという、この組織の主催者に迎えられたジョイは、ディーンという若い医師に施術され無事中絶する。自宅に帰ったジョイは巧みに嘘をついて流産した旨をウィルに話す。

 

後日、ジョイはバージニアから突然、運転手が急病になったから一人の患者を車で送って欲しいと頼まれる。それをきっかけにジョイはたびたびジェーンに患者を送迎し、仕事を手伝うようになる。そして手術の際のディーンの手伝いも手際よくこなすようになる。ジェーンの経営が厳しくなり、患者数を増やしたり、無料の手術を受けたりするようになって、施設は多忙を極めていく。

 

ある日、ジョイは、何かにつけ報酬にこだわるディーンを不審に思い彼の後をつける。そこでジョイは、ディーンはプールのある大邸宅に住んでいるのを突き止める。ジョイはディーンに詰め寄り、ディーンが医師免許を持たないことを告白させ、自分に施術の方法を教えるように迫る。そしてディーンはジョイに中絶手術のやり方を手ほどきし始める。やがてその真実をバージニアも知ることになり、ジョイが一人で手術ができるようになって来るとディーンを解雇する。

 

日々の行動に疑問を持ち始めたシャーロットは、ジョイの日記からジョイの行き場所を突き止め乗り込んできた。さらに、仕事を終えてジョイが帰宅したら自宅前にパトカーが停まっているのを発見する。てっきり逮捕されると思ったジョイだが、実は警官の知人の一人が中絶の必要があり、ジェーンに連絡をするから頼むというものだった。

 

全てがウィルにバレてしまったジョイはバージニアに、今後活動から離れる旨を知らせる。ところがしばらくして、シャーロットに連れられてバージニアがやってくる。沢山の患者が苦しんでいるからと、ジェーンに届いた留守電のカセットテープを渡す。ジョイはシャーロットとそのテープを聞き、再びジェーンの事務所へ行く。そして、みんなにも手術の方法を伝授するので、みんなが手術できるようになるまではここに残ると告げる。

 

こうしてジェーンの組織はその後強制捜査が入るまで12000人の女性を救ったことがテロップされ、ウィルの弁護と女性達の支援で保釈されたことが語られて映画は終わる。

 

社会ドラマではなく、女性達の自立のヒューマンドラマというのが根底に流れるストーリー作りが見事で、周囲の脇役も、主人公に反対しながらも応援していく描写が当時の世相を見事に反映し、爽やかなエンディングに拍手してしまう作品だった。

 

「ブリックレイヤー」

原作が悪いのか脚本が雑なのか、トップクラスのプロの諜報員なのに素人みたいなドジをふむケイトの存在や、強いのかどうかわからないカリスマ性のない主人公ヴェイルの描き方、さらに安易なカーアクションと、まるで安物のテレビアクションを見るような映画だった。監督はレニー・ハーリン

 

ギリシャテッサロニキ、元CIA諜報員で死んだと思われている一人の男ラデックがホテルの一室に入っていく。そこにはドイツ人女性ジャーナリストグレッグが待っていて、ラデックはCIA諜報員がヨーロッパで殺戮を繰り返している証拠の書類を手渡した直後グレッグを撃ち殺して映画は幕を開ける。

 

アメリフィラデルフィア、元CIA諜報員のヴェイルはレンガ職人となって今日も仕事をしていたが、CIAの上司オマリーに呼び出される。グレッグ殺人の防犯カメラを調査していたCIAの新人諜報員ケイトが、死んだはずのラデックを発見したため、ラデックの元相棒で友人のヴェイルが呼ばれたのだ。

 

ヴェイルは最初は拒否するが、仕事中何者かに銃撃される。どうやらラデックの仕業らしいと判断したヴェイルはオマリーの依頼を受けるが相棒にケイトをつけられる。二人はギリシャに着き、ヴェイルはかつての仲間のところに無理やりケイトを連れて行って、車や武器を調達、ラデックとの接触を試みるというのが本編になるのですが、このあたりから混沌としてくる。

 

ヴェイルはCIAのギリシャ支局長でおそらく元カノであろうタイと会って状況を把握し、仲間の協力でラデックと接触しかけるが、ーラデックは自分の娘と妻がCIAに殺されたと信じていて、CIAをヨーロッパでの敵に仕立てる計画を進める。そしてヴェイルの仲間はラデックの手下らに殺され、CIAの暴露資料を渡すための法外な報酬を要求、オマリーは仮想通貨による支払いを承諾してギリシャに乗り込んで来る。

 

ラデックは金の受け渡しにケイトを要求し、頼りないながらケイトが一人向かうが、途中でヴェイルと入れ替わる。しかし、罠に嵌められ間一髪のところ脱出してケイトと共にラデックを追う。そしてようやく追い詰めるのだが、ラデックはギリシャ外務大臣暗殺を最後の目標にし、それをCIAの仕業にすることでとどめを刺そうとしていた。しかしヴェイルがその企てを阻止し、自ら重傷を負って事件を解決する。

 

ヴェイルが最後の挨拶にタイの部屋に行ったが、そこで、かつて自分がラデックにプレゼントしたレコードのジャケットを発見、黒幕がタイだとわかる。しかしタイはヴェイルに銃口を向けていた。しかしすんでのところで脱出、タイがヴェイルを車で轢き殺そうと迫るのを駆けつけたケイトが救う。全てが終わり、ヴェイルは元のレンガ職人に戻り、ケイトは出世を拒否して映画は終わっていく。

 

なんともいえない雑な脚本で、ギリシャのギャング達との銃撃戦の意味も、ラデックが意地になって復讐するくだりも、仮想通貨を要求する動機も表立って見えてこない上に、カーアクションもありきたりだし、主人公のヴェイルにカリスマ性がなさすぎる。さらにケイトがまるで素人の女の子にしか見えないキャラクター設定があまりにリアリティに欠けすぎ、結局、凡作の極みで終わった。まあ気楽に見れたからよしとしましょう。

 

罪と罰

音楽に合わせて淡々と流れる物語で、殺人を描いたサスペンスなのにどこかとぼけた感満載のユニークな映画だった。監督はアキ・カウリスマキ。彼のデビュー作。

 

虫を殺すカットから、主人公ラヒカイネンが食肉工場で働いている場面から映画は幕を開ける。仕事終わりに掃除を終えた彼は帰路に着く。タクシーで帰ってきた実業家のホンカネンが自宅に入るのをじっと見ているラヒカイネンは、手紙らしいものを持ってホンカネンの家の前に立つ。出てきたホンカネンに電報だと手紙らしいものを渡し、サインをしに奥に入ったホンカネンの後についてラヒカイネンが入っていき、銃を向けてホンカネンを撃ち殺す。ホンカネンの所持品を包んで帰りかけると一人のケータリングの女エヴァが入ってくる。ラヒカイネンは、自分は人を殺したから警察に電話をしろと言って出て行ってしまう。

 

刑事が殺人現場にやってきて一通り調べ、犯人を見たというエヴァに事情聴取するがあまり参考にならない。刑事が容疑者だと目星をつけたラヒカイネンを参考人に呼び、エヴァと引き合わせても何故かエヴァは知らないと答える。エヴァは洋菓子店で働いていて店の店長ハイノネンに言い寄られているが、話を逸らしていた。その店にラヒカイネンがやってきてエヴァをデートに誘う。

 

ラヒカイネンは、ホンカネンの部屋から持ち帰った品物をロッカーに隠し、その鍵を道端の浮浪者ソルムネンにやる。ロッカーを開けに行ったソルムネンは張り込んでいた刑事に逮捕される。どうやらラヒカイネンは密告したようだ。結局、ソルムネンは殺人を自白してしまうが、それは長時間の取調べで疲労の結果だろうと刑事は考える。そして再度参考人で呼んだラヒカイネンに犯人はお前だが、いずれ罪の意識で自首して来ると断言する。

 

その頃、エヴァはラヒカイネンの部屋に行った際、ソファに隠していたピストルを持ち帰る。ハイノネンにホテルに呼び出され、結婚を迫られる。力づくでエヴァを奪おうとするハイノネンにエヴァはピストルを向ける。しかし結局撃てず、ピストルを捨てて逃げる。そのピストルを持ってハイノネンは外に出てラヒカイネンと出くわす。ハイノネンはラヒカイネンを撃とうとするが、そこへ市電が走ってきてハイノネンは轢かれる。

 

刑事はそのピストルを証拠にラヒカイネンを呼ぶがラヒカイネンは自白しなかった。ラヒカイネンは偽パスポートを手に入れ、職場の同僚と海外逃亡を考えていた。この日、車で港へ行き、パスポートを見せて船に乗りかけるが、Uターンして警察署へ行き自首しようとする。しかし直前で断念してまた警察署を出てくる。ところがそこにエヴァが待っていた。ラヒカイネンは再度警察署に入り自首し逮捕される。

 

刑務所にエヴァが面会に来る。ラヒカイネンが出てくるまで待つというエヴァにラヒカイネンは8年も待つなと言い、自分は結局虫ケラになったと言って去って行って映画は終わる。

 

一見シリアスドラマなのに、何故か淡々としたとぼけた感が全編に漂い、心地よい楽曲のテンポが映画を不思議な空気感に包んでいく。まさにカウリスマキ色満載の一本だった。

映画感想「ペナルティループ」「ロッタちゃんと赤いじてんしゃ」(2Kリマスター版)「真夜中の虹」

「ペナルティループ」

面白いと言えば面白いのですが、テレビレベルの小手先のストーリーという感じの作品で、それを無理やりシュールな映画作品に仕上げようという軽いタッチの作品だった。結局なんの話かといえばその程度の話かという映画ですが、気楽に見れたのでいいとしましょう。監督は荒木伸二。

 

ベッドで目を覚ます岩森、傍に恋人の唯がいてこれから仕事に出かけるようで、岩森が引き止めるがそのまま家を出ていく。岩森は自宅で建築パースを作ったりしている。夕方二人の男が訪ねてきて岩森はある河岸に連れて行かれる。そこで唯の死体を検分させられる。どうやら唯は殺されたらしい。

 

6月6日朝、岩森はベッドで目を覚ます。職場の植物工場へ行き、いつものように勤務をこなす。駐車場に一人の男がやってきて、機械の点検をする。岩森は自動販売機のカップに何やら細工をし、さっきの駐車場の男溝口が自動販売機のコーヒーを飲む。溝口は車に戻るが急に気分が悪くなり車を停める。そして深夜、目を覚ました溝口の車に岩森が飛び込んできて滅多刺しにして殺し死体を川に沈める。

 

再び6月6日朝、岩森はまた目を覚まし、職場へ行き、同じようにコーヒーに仕掛けをするが、溝口はそのコーヒーを食堂にいた別の女性に与える。岩森は無理やり溝口の車に飛び込んで殺す。そしてまた6月6日朝、岩森はまた職場へ行く。溝口はコーヒーを岩森に渡し次のコーヒーを飲むが気分が悪くなり、また岩森に殺される。何度も繰り返すうち二人は会話を交わすようになり、溝口は当たり前のように岩森に殺される。

 

以前、岩森は、車を走らせていて、たまたま唯が何かを燃やしている現場に遭遇して知り合った。ファミレスで一夜を明かし、唯を駅に送っていくが、何者かに追われるように唯が駆け戻ってきて車に乗る。こうして二人は恋人同士になったようである。そして、また6月6日朝、岩森の周りには謎の男が出没し始め、ラジオからのニュースで今日が最後だと伝えられる。

 

岩森は溝口を唯が殺された河岸に連れていく。そこで、溝口は、実は唯は死にたかったのだと話す。岩森はいつものように銃で溝口を撃ち殺す。気がつくと岩森は謎の男の前にいた。謎の男との契約で時間を繰り返しながら、溝口への復讐を繰り返すことになっていた。そして契約が終わり、元の世界に戻る手続きに入る。いきなり戻らない方が良いと言われ、岩森は最後に、唯と再会し別れていく。目が覚めると岩森の部屋に張り巡らされたシートを何者かが剥がして片付けていく。

 

元の世界に戻った岩森は車で外に出るが。前方のバイクを避けて道の脇に突っ込む。血だらけになって出てきた岩森のアップで映画は終わる。

 

一見、シュールなのだが、次第にSF色を帯びてくる。植物工場という職場設定もどこか近未来感があるし、謎の男も、何かの実験の研究者のようでもある。前半のオカルト的な出だしからの展開が奇妙な違和感になっていく後半、結局、唯の復讐劇のどろどろ感はどこかへ吹っ飛んで、岩森の周りの人物描写もあまり効果を生まず、まるで世にも奇妙な物語の一編のような気分で映画館を後にしました。

 

「ロッタちゃんと赤いじてんしゃ」

さすがに三作目になると、ちょっと工夫の見られない展開と、ほのぼの感が薄れてしまった仕上がりでした。前作の方が心温まる感動がありましたが今回は普通でした。監督はヨハンナ・ハルド。

 

雨の日、風邪をひいているロッタは兄ヨナスと姉ミアがお菓子を買いに行くのについていけず、ママと喧嘩をしているところから映画は幕を開ける。ところが、お菓子屋さんでヨナスらがいると、一人でやっていたロッタがいた。帰ったらママに叱られて部屋を出れなくなるロッタ。

 

家族でハイキングに行くことになり、パパの車で川沿いのハイキング場へ。そこでヨナスが川に落ちて、助けたパパと一緒にずぶ濡れで帰る。ロッタの5歳の誕生日、ロッタはヨナスらと同じように自転車が欲しいがまだ早いからと貰えない。ロッタは隣のベルイおばさんの物置から自転車を持ち出して乗るが、大きいのとブレーキがわからず生垣に突っ込んでしまう。がっかりしているロッタに、パパは中古の赤い自転車を持って帰ってくる。

 

ロッタ、ヨナス、ミアはママと一緒にママの実家へ列車で出かける。ロッタは一年ぶりにおばあちゃんらに会い大はしゃぎ。それでもママに怒られて、一人で帰ると言い出すが。そこへ車でパパが駆けつける。ロッタはおばあちゃんに本を読んでもらって映画は終わる。

 

前作と違い、淡々とエピソードが流れるだけで、全体のリズム感がいまいち盛り上がらないままにエンディングだった。

 

「真夜中の虹」

抜きん出た音楽センスと、シリアスドラマを笑い飛ばしてるんじゃないかというコメディセンスに楽しくて仕方がない感覚を味わわせてくれる秀作。何気ないシーンがよく考えると常識はずれなユーモアが溢れているのがとっても面白い。監督はアキ・カウリスマキ。さすがです。

 

炭鉱が閉抗になり、爆破して穴を埋めている場面から映画は幕を開ける。カスリネンとその父がカフェで話していて、父はカスリネンに自分の車を与えて、一人銃を持ってトイレに入り自殺してしまう。父が言っていた南へ行けという言葉通り、カスリネンは車で南へ向かう。しかし途中のカフェで暴漢に襲われ金を巻き上げられてしまう。

 

無一文になってカスリネンは日雇いの仕事をしながら安ホテルに泊まるが、そこでイルメルという女性と知り合う。イルメルには息子も一人いた。ある日、カスリネンは、金を奪った強盗に再会し、その男を襲うが逆に警察に捕まってしまう。カスリネンは刑務所でミッコネンという男と知り合う。

 

ある日、カスリネンの誕生日だからとイルメルが誕生日ケーキを差し入れてくるが、カスリネンの誕生日はずっと後だった。なんとケーキの中に金切りノコギリが入っていて、それを使ってミッコネンと脱獄する。カスリネンはイルメルにプロポーズするが警察の追っ手が迫る。カスリネンはミッコネンに立ち合いを頼んで結婚式を挙げる。一方、ミッコネンは裏社会の知り合いにパスポートと海外逃亡の船の手配を頼む。

 

ミッコネンとカスリネンは、パスポートを作る金のために強盗しようと計画するが、ミッコネンの知り合いが、半分金をもらえるなら車や銃の準備をしてやると言われ条件を飲む。そして金を奪ったカスリネンらはパスポートをもらうためにミッコネンが一人掛け合いに行くが、金を全部よこせと言われ、ミッコネンがビンを割って脅そうとしたのだが逆に刺されてしまう。

 

カスリネンは、ミッコネンがなかなか出てこないので銃を持って中に入っていき、刺されたミッコネンを発見して、裏社会の男を撃ち殺す。そして、イルメルを呼んで、ミッコネンを助け出すが、ミッコネンはもうダメだから埋めてくれと頼む。

 

カスリネンはイルメルとその息子を連れて、ミッコネンが段取りした密航船に乗るべく港に行く。そして、メキシコ行きのアリエルという船に向かっていくところで、背後に「虹の彼方に」が流れて映画が終わる。

 

シリアスな犯罪映画なのに、なぜかユーモア満載に展開する軽いタッチの映像がとにかくユニークで楽しい。これぞカウリスマキと言わんばかりの秀作でした。