くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ピアノ・レッスン」(4Kデジタルリマスター版)「街のあかり」

ピアノ・レッスン

初公開以来30年ぶりの再見でしたが、やはりこの映画は名作です。男と女の愛情の不可思議さを徹底的に突き詰めた作劇と、恐ろしいほど大胆な構図、ブルーの色調を中心にした詩的で美しい画面、登場人物それぞれの生々しい感情の彷彿、そしてなんといっても、人間を客観的に見下ろすような天使としての存在感を見せる女の子の存在が素晴らしい。なぜあそこまで夫スチュアートを嫌うのか、なぜベインズに身も心も惹かれていくのか、そこに存在するピアノの不思議なくらいの存在感に映画芸術ともいえる神髄があるのかもしれない。娘のフローラが背中に羽をつけて飛び回る姿もシュールな中に大人をハッとさせる怖さを秘めているのも良い。やはり素晴らしい映画だった。監督はジェーン・カンピオン

 

19世紀半ば、スコットランド、エイダは六歳の時に言葉を発することをやめたというナレーションから映画は幕を開ける。大人になったエイダは娘フローラと共にニュージーランドの入植者スチュアートの元に嫁ぐことになり、ピアノと共に荒れる海をニュージーランドの海岸にたどり着く。しかし、荒れた天候で、船乗り達は帰ってしまい、迎えが来るまで浜辺で娘と野宿することになるエイダ。

 

やがて、夫となるスチュアートが通訳でもある地元の地主ベインズと共に迎えにやって来るが、住まいまで森を抜けなければならず、ピアノは海岸に置いておくことになる。ぬかるみを進んでスチュアートの家までたどり着き、やがて結婚式が行われるが、エイダの態度は冷淡にさえ見えるほどそっけなかった。エイダはベインズに無理を言って浜辺に連れて行ってもらう。エイダはそこで浜辺のピアノを弾くのだがそれを見ていたベインズは、自分の土地と引き換えにピアノを譲って欲しいとスチュアートに申し出る。

 

エイダのピアノはベインズの家に運ばれ、ベインズはエイダに、毎日教えに来て欲しいと頼む。ベインズはエイダに惚れてしまった。ベインズは小屋に来てもらうごとに黒鍵を一つづつエイダに与えると言い、その代わり、エイダの体に触れることを許してもらう。エイダはベインズに言われるままに、ピアノを教えるという口実でフローラを連れてベインズの小屋に行き、足、腕、上半身、と次第にベインズの要求に応えていくが、いつの間にかエイダの心もベインズに惹かれていく。

 

ある日、ベインズはエイダの前で全裸になり、エイダにも服を脱いで欲しいと頼む。そして二人は初めて体を合わせるが、その様子を外で待つフローラは目撃する。その日の後、ベインズはスチュアートにピアノを譲ると申し出る。スチュアートの家にピアノが届くがエイダは弾こうとしなかった。そして、エイダはベインズの元へ出向くようになり、不審に思ったスチュアートがベインズの小屋を覗いてエイダとベインズが抱き合う姿を見てしまう。

 

しかし、エイダは、少しづつスチュアートの体に触れるようになっていく。それでも一線を越えさせようとしないエイダに、スチュアートはある日、エイダを信じるからとエイダを一人残して森へ仕事に出かける。エイダは鍵盤の一つを外し、そこに、自分の気持ちはベインズのものだという言葉を書き込んで、フローラに届けさせようとする。フローラは拒否したものの無理やり押し付けられ、仕方なくベインズの元へ向かうが、途中で道を変え、スチュアートのところに鍵盤を届ける。スチュアートは激怒し、エイダのところに戻ると、斧でエイダの指を切り落とし、フローラにその指をベインズの元へ届けるように言う。

 

泣きじゃくりながらフローラはベインズの元へ向かう。指の怪我で熱のあるエイダを介抱するスチュアートは、ついエイダの体に触れようとするがエイダが目を開き、その視線を感じたスチュアートは行為をやめてしまう。そして、ベインズの元に行くことを許し、二人で旅立ちように促す。

 

ベインズとエイダはピアノを船に乗せ浜辺から沖に出るが、途中でエイダはピアノを海に捨てるように言う。躊躇ったもののエイダの気持ちを汲んだベインズはピアノを海に落とすが、ピアノを縛っていた縄がエイダの足に絡まり、エイダも海の中に引き摺り込まれる。しかし、すんでのところで縄が外れてエイダは海上へ浮き上がる。ベインズとエイダは行き着いた街で、エイダはベインズが作った義指でピアノを教えるようになったと言うナレーションと二人が抱き合う姿で映画は終わる。

 

激しいドラマなのに、落ち着いた淡青な色彩映像と美しい音楽が素晴らしく、フローラがスチュアートのところにエイダが書いた鍵盤を届ける時の極端な斜めの構図や、海を背景にした横長の落ち着いた美しいショット、原住民の粗野な姿と、入植者としてのスチュアートの苦悩など、隅々まで描き込まれた物語に圧倒されたまま、ピアノを通じた三角関係の展開を描く様は群を抜いた仕上がりになっています。一級品の映画の貫禄十分な一本だと改めて感動してしまいました。

 

「街のあかり」

何をやってもうまくいかず、それでも前に前に進む男の姿を淡々とひたすら綴っていく作品で、どこかユーモラスであるのはいつもの空気感の作品でした。監督はアキ・カウリスマキ

 

警備会社で働く主人公コイスティネンが職務を終えて戻って来るところから映画は幕を開ける。上司にも信頼されず同僚からも無視されているものの、気にすることなく、このまま警備員で終わるつもりはないとキッチンカーで働く女に話をしている。

 

そんな彼はいつも行くカフェで飲んでいると、男達がコイスティネンに目をつける。しばらくして、コイスティネンはカフェで一人の女ミルヤに声をかけられる。そしてデートをすることになり、映画に出かける。キッチンカーの女にそんなことも報告する。ある時、仕事中に訪ねてきたミルヤとカフェに行き、コイスティネンが少し席を離れた隙にミルヤに睡眠薬を入れられ、車の中で眠ってしまう。コイスティネンは警備しているショッピングセンターの鍵束を持ったままな上に、先日職場を案内した時にミルヤに暗証番号を覚えられていた。実はミルヤは、マフィアがコイスティネンに差し向けた女だった。

 

ミルヤはボスに鍵束を渡して、マフィアは宝石店に入って貴金属を奪う。窃盗事件の時にいなかったコイスティネンは当然疑われ、解雇される。そんなコイスティネンの家にミルヤが訪ねてきる。そして盗んだ貴金属と鍵束をクッションの下に隠すが、鏡を通してコイスティネンは目撃する。しかし、コイスティネンは黙ってミルヤを帰らす。まもなくしてコイスティネンは警察に捕まるが、ミルヤのことは話さず、有罪となり刑務所に入る。しかし、初犯でもあったのでしばらくして仮釈放になり、食堂で皿洗いとして働くようになる。

 

ところがそのレストランにミルヤとそのボスが客としてやってきてコイスティネンと出会う。ミルヤのボスは店長にコイスティネンのことを話したためコイスティネンは首になる。コイスティネンはミルヤのボスをナイフで襲うが、逆にマフィアに捕まりリンチされて放り出される。いつもコイスティネンを見かける道端の少年の通報でキッチンカーの女がコイスティネンのところにやってくるが、コイスティネンはまだまだこれからだと呟いて映画は終わる。

 

なんと言うこともないドラマもない淡々とした作品で、なんともいえない不思議なコミカルささえ感じてしまう一本でした。