くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「河内ぞろ どけち虫」「漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻」

「河内ぞろ どけち虫」

全編河内弁で突っ走る機関車のような作品で、何がどうという中身もないのだが、ひたすら喧嘩と怒声が画面を覆って行く。痛快そのものであれよあれよと展開していき、ラストのほんのりした兄弟愛に、楽しい映画を見たという感慨に耽ってしまいました。これぞ娯楽映画ですね。監督は舛田利雄

 

河内の藪下、父の葬儀の葬列から映画は幕を開ける。この父親の息子、仁助、多度吉、永三は揃いも揃って喧嘩好きで、何かにつけ兄弟喧嘩をし始める地元でも有名な男たちだった。この日も例によって喧嘩を始め、物語は彼らの少年時代に遡る。

 

三人の父親文吾は、女の子を産んで欲しいと思っていたが生まれるのは皆男で、その度に悪態をついていた。しかし、とうとう諦めてしまう。やがて三人は少年になる。闘鶏の人混みに紛れ込む少年時代の仁助らは、大人にも一目置かれ、勝手に軍鶏を買ってきたものの文吾に怒られて、仁助の軍鶏は文吾に殺されて食われてしまう。そんな三人はやがて成人になり、地元の祭りでも喧嘩三昧。

 

二十歳になった仁助は、この地の慣わしで伊勢神宮へ徒歩で参拝に行き、その帰りに女郎買をすることになる。しかし、仁助は持ち前のドケチと才覚で、博打場で大儲けをしても仲間に酒を奢らせる。

 

そんな仁助は、居酒屋のお沢と良い仲になりやがて世帯を持つ。その地の相撲大会を罵倒したついでにその相撲大会に出た仁助は、地元の力士らを倒して名をあげ、やがてこの地放出の親分格になる。その頃永三は、船乗りになると家を飛び出し、一人残った多度吉が両親のもとで百姓をすることになる。しかし、多度吉は地元で次第に名を挙げやがて藪下の親分という地位になる。

 

文吾の葬儀の後、仁助は急病に倒れ、その隙をついて縄張りを狙っていた林蔵が仁助の賭場を仕切り始める。困った仁助の子分は多度吉に助けを求め、多度吉は林蔵の賭場に殴り込んで、まんまと金を巻き上げて林蔵を追い出す。やがて病が癒えた仁助はそのことを聞く。

 

間も無く文吾の四十九日の日、林蔵が単身でピストルで殴り込みにくるが、仁助、多度吉、永三らに逆に反撃され、方法の定で逃げ帰ってしまう。仁助と多度吉はまた喧嘩を始める、それを笑ってみる永三の場面で映画は終わる。

 

とにかく最初から最後まで痛快そのものでめちゃくちゃに楽しい。機関銃のような河内弁の応酬と喧嘩三昧に展開の中に、さりげなく物語が埋め込まれた脚本も上手い。娯楽映画を堪能した、そんな感想の一本でした。

 

「漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻」

アトミックのおぼんシリーズ第二弾。軽快に進むお気楽なスラップスティックコメディという感じの一本で、全編笑いに包まれながら、娯楽としての映画を楽しめる陽気な作品だった。次々とあんな俳優こんな俳優の若き日を楽しむのも、当時の街の風景を楽しむのも一興の幸せなひとときだった。監督は佐伯幸三。

 

駅の改札、一人のスリが獲物を物色している場面から映画は幕を開ける。財布をすったものの別の老婆風のスリにすり返され、さらに別のスリにすられて財布は元の持ち主へ。老婆風のスリは大阪から東京へ来たヌーベル婆さんというベテランのスリ、彼女をすり替えしたのはこの地のスリ親分アトミックのおぼんという女だった。ヌーベル婆さんはアトミックのおぼんを見返してやろうと画策を始める。

 

おぼんには結婚を約束した正木という青年がいたが、おぼんがスリをやめることが条件だった。おぼんは弟子のインスタントのおちからに堅気になってバーを経営してもらおうと、バーの出物を探していた。そんなおぼんの思いを逆手に取ってやろうと、地元ヤクザの大江山は子分の坂本を使って坂本の恋人のおちかを騙して、売り物のバーを手配させ、金を受け取って、権利証をスリ返す計画を立てる。そのスリ返すのにヌーベル婆さんを使うが、結局うまくいかなかった。

 

大江山は、正木の上司の社長のスキャンダルをネタに金を手にしようとするが、おぼんに邪魔されてしまう。しかし、大江山が権利証の交渉でやってきたおちかに乱暴をしようとして逆におぼんに反撃され、権利証も借金の領収書も奪い返す。ところがその帰り、ヌーベル婆さんに権利証をぬすまれる。

 

ヌーベル婆さんは、おぼんに、スリ合戦をして勝ったら権利証を返してやると提案して、駅でハンカチのスリ合戦を始めるが、正木はおぼんのそばに張り付いておぼんにスリをさせなくする。結局、ヌーベル婆さんが勝つのだが、落胆するおぼんのところに、ヌーベル婆さんは権利証を持ってきて、そのまま警察に自首する。大江山らも警察に捕まる。正木とおぼん、坂本とおちかも仲が戻ってハッピーエンドで映画は終わって行く。

 

コマ落としを多用したコミカルな映像と、心地よいストーリー展開はまさに娯楽映画の王道という仕上がりで、単純に楽しめる映画だった。

映画感想「プリシラ」

プリシラ

エルヴィス・プレスリーの元妻プリシラプレスリーの半生を描いているのですが、エルヴィスよりもプリシラの一人の女性としての繊細な気持ちを切なく淡々と描写していく展開が、見終わった後不思議なほどに胸に染み渡ってきました。女性目線というより少女目線の心の機微がとってもセンス良くモダンに映し出されていていい映画だった。こういうのを描かせると本当にソフィア・コッポラ監督、うまいですね。

 

ふかふかの絨毯を踏む足、つけまつげをつける女性のアップの場面にメインタイトルが被って、物語は1959年、西ドイツのアメリカ空軍基地に舞台が移って映画は始まる。カフェでくつろいでいた14歳の少女プリシラは、テリーという軍人に声をかけられる。エルヴィス・プレスリーと親しいのだが、彼のパーティに来てみないかというものだった。エルヴィスもまたこの基地に徴兵されて赴任していた。もちろん本国では引く手数多の大スターである。エルヴィスの大ファンでもあるプリシラは是非行きたいと思うが、両親は大反対をする。それでもテリーが紳士的に説明して、自分の妻と自分とでサポートすることを条件にパーティに行くことになる。

 

夢のような気持ちでエルヴィスのパーティに来たプリシラは、同じアメリカ本国出身者ということもあり、エルヴィスに親しく話しかけられる。すっかりエルヴィスに気に入られたプリシラは再びパーティに誘われ、エルヴィスの部屋で二人きりでアメリカ本土の話に花を咲かせるが、エルヴィスはまだ幼なげなプリシラにはキス以上のことは決して求めなかった。やがてエルヴィスは本国へ戻ることになり、一緒に行きたいというプリシラを残して帰っていく。

 

すぐに手紙や電話をすると言っていたエルヴィスだがプリシラには何の音沙汰もなく一年の月日が流れる。そしてようやく連絡が来て、本国へ戻った途端目まぐるしく忙しかったというのがエルヴィスの言葉だった。そして、メンフィスの自宅に来て欲しいとエルヴィスは言うものの、プリシラの両親は決して許さなかった。エルヴィスは直接プリシラの父に電話をして了解をもらい、プリシラは父とともにエルヴィスの家にやってくる。そしてエルヴィスの提案で、プリシラをメンフィスの学校に転校させ、卒業まで責任を持つから一緒に暮らしたいと言う。プリシラの父もそれを許し、プリシラはエルヴィスの家で暮らすようになる。

 

しかし、ツアーや映画の撮影でエルヴィスはほとんど自宅にいることはなく、プリシラは寂しい日々を暮らす。それでもエルヴィスの家族らは彼女に優しく、エルヴィスも帰ってきたらプリシラを第一に大事にしてくれるのでプリシラは別れている時の寂しさを紛らわせるのだった。そんな中、プリシラの求めに対しエルヴィスは決して彼女を抱こうとせず、ベッドを共にしてもキス以上のことはしなかった。やがてプリシラが学校を卒業した日、エルヴィスは彼女にプロポーズし二人は結婚、ようやくエルヴィスはプリシアを抱くのだが、すぐに以前のように家を空ける。

 

プリシラは、エルヴィスがツアー先やロケ先での女優らとのスキャンダルの記事を見るたびに、嫉妬よりも寂しさを覚える。やがてプリシラは妊娠し、娘リサが生まれる。エルヴィスも大喜びするが、エルヴィスは仕事のストレスから次第に薬に溺れるようになり、時にプリシラに暴力的な振る舞いをするようになる。それでも、エルヴィスはプリシラに優しかった。しかし、プリシラの寂しさは次第に心の中に蓄積し、リサと一緒に別居することになるにつけ、とうとう離婚を決意しプリシラはエルヴィスの家を出て行く。一人車を運転し門を出る彼女の姿で映画は幕を閉じる。

 

エルヴィス自身も孤独の中に沈んでいっているのだが、この作品はプリシラの孤独に焦点を当てる描き方になっていて、まだ十七歳にもならない幼いプリシラを大事にする大人の振る舞いのエルヴィスに、素直に抱いてほしいと寂しい思いをするプリシラの女心がたまらなく切なく思えてくる。ハイキーな背景で逆光を多用した絵作りと1960年代、70年代の空気感を醸し出すプリシラの心の変遷と外見の変化がとっても繊細に描かれているのが素敵な作品でした。主演のケイリー・スピーニーがとってもキュートで可愛らしかった。

映画感想「オーメン ザ・ファースト」

オーメン ザ・ファースト」

丁寧に作り込まれた脚本とストーリー展開がサスペンスとして面白い作品に仕上がっていました。オーメン三部作を知っていれば十分楽しめるし、知らなくても、それなりに楽しめる映画だった。監督はアルカシャ・スティーブンソン。

 

一人の神父ブレナンがハリス神父を訪ねてくるところから映画は幕を開ける。教会の修復の現場にいるハリス神父に懺悔するが、ハリス神父は全て終わらせるためだと呟く。そして外に出る二人の頭上から破壊されたステンドグラスが降ってきてハリス神父の頭が裂かれる。

 

1971年ローマ、司祭ローレンスに呼ばれてアメリカから修道女になるためにマーガレットが空港に降り立つ。目的の修道院に着いたマーガレットは以前から幻覚か現実かわからない夢を見るようになっていた。拘束され、顔に黒い布を被せられて、何やら獣のような息遣いに迫られる夢だった。

 

修道院に着いてシルヴァ修道院長に案内されている途中、一室でうずくまるカルリータという少女と出会う。不気味な絵を描き、危険だからと個室で暮らしているカルリータにマーガレットは不審に思う。マーガレットはルスという修道女志望の女性と同室になり、彼女に、宣誓式の前に夜遊びしようと誘われて、パオロという青年と出会う。その際、羽目を外して意識をなくしたマーガレットは目覚めると自室だった。

 

修道院で生活を始めたある日、カルリータに接触していた不可思議な一人の修道女が炎に包まれて自殺してしまう。さらに、修道院内にいる妊婦たちの出産も垣間見て、その異様さにマーガレットは気を失ってしまう。

 

そんなある日、ブレナン神父が接触してきてカルリータとは関わらない方が良いと言う。そして、話をしたいからとある修道院の一室に招かれる。そこでマーガレットは、キリスト教に仕える人々が二つに分かれ、一方は正当にキリストを敬うがもう一方はひとびとの信仰心を取り戻すために反キリストを誕生させて人類を目覚めさせようとしていると告げる。

 

過去に反キリストの生誕のために強制的に受胎させてスキアーナというコードネームをつけ管理してきたが、全て死産か異常出産で、唯一成功したのがカルリータだった。ブレナン神父はカルリータの出生の資料を持ち出すようにマーガレットに言うが、マーガレットは拒否する。

 

カルリータが別室で拷問されているかに疑いを持ったマーガレットはカルリータを救うべく、同室のルスの宣誓式で院長らの留守を見計らってカルリータの資料を持ち出そうとする。しかし、すんでのところで見つかり拉致されてしまう。その争いの中、カルリータの喉の奥に666に数字を認める。

 

マーガレットは拉致されたが、修道院の若き神父ガブリエルがマーガレットを救い出し、資料とともにブレナン神父の部屋に向かう。そして、過去に反キリスト出産のために生まれた赤ん坊のリストを再確認していて、母となるべく悪魔の獣に妊娠させられた女性は喉ではなく頭に666の数字が浮き出ているのを発見、そしてその666の数字はマーガレットの頭にあった。マーガレットもまたスキアーナで、しかもカルリータの姉だった。しかもマーガレットはすでに妊娠していた。おそらくルスに誘われた夜に儀式が行われたのだろう。

 

反キリストの出産を阻止するべくマーガレット、ブレナン神父、ガブリエル神父は知人の医師に堕胎してもらうべく車で急ぐが、途中、修道院の妨害に遭い、ブレナン神父らは気を失ってしまう。時間は6月6日6時となり、残されたマーガレットのお腹は急に大きくなりそのまま絶叫して気を失う。そして修道院に連れ戻され、出産することになる。

 

生まれてきたのは男女の双子で、待望の男子誕生で院長は抱き上げる。マーガレットは赤ん坊を抱かせてもらい、手渡すまいとロレンス神父を刺し殺すが、飛び込んできたルスによって赤ん坊は院長に奪い取られ、さらに、院長らの指示で火を放たれてしまう。そこへカルリータが現れ、マーガレットと、残された女の子の赤ん坊を連れて脱出。

 

院長らは車の中で、赤ん坊を誰に託すか物色して、「オーメン」一作目のローマ大使ロバート=グレゴリー・ペックの写真を見て決める。時が経ち、マーガレット、娘、カルリータは三人で暮らしていた。そこへブレナン神父が現れ、いずれ修道院から追っ手が来ること、そして生まれた男の子はダミアンと名付けられたことを告げて映画は終わる。

 

誰が悪魔の子の母親なのかと言うサスペンスを主軸に、いかにしてダミアンがこの世に生まれたかを理由づけして丁寧に描いた作品で、真面目すぎると言えばそれまでだが、今回のラストの話に続く本編を見たくなる展開のよくできたホラー映画だった。、

映画感想「のんき裁判」「パスト ライブス 再会」

「のんき裁判」

当時の映画スターが総動員で出てくる珍品的な娯楽映画で、スターがそのままの名前で出てくるので混乱はないけれど、即興劇で展開する様はまるでテレビバラエティの如くだった。監督は渡辺邦男

 

のんき裁判という裁判所があって、そこで、ハート泥棒をしたという高島忠夫小林桂樹が被告として出てくるところから幕を開ける。裁判官は藤田進で弁護士は笠置シヅ子で、検察官は田崎潤。そして次々と被告が入れ替わり、人々を笑わせすぎただの、映画の中で大量殺人をしただのコミカルな展開をし、それぞれに大スターが証人になったり、裁判官が入れ替わったりを繰り返していって、ラストはみんな勢揃いで大笑いしてエンディング。

 

まさに、並ぶスタジオの一角で、本編撮影の合間に顔を出しながら作った感満載の映画産業絶頂期の作品ですが、これだけのスターを一度に見れる贅沢感はこれはこれで相当に楽しめる映画だったと思いました。

 

「パスト ライブス 再会」

美しいカメラと淡々と進むシンプルなストーリー、素朴な作品ですが、堪らなく切なくなる物語に引き込まれていく魅力がある映画でした。監督はセリーヌ・ソン。

 

ニューヨークの一軒のバー、東洋人の男性と女性、そして西洋人の男性がカウンターに座っている。彼らはどういう関係だろうという客の声で映画は幕を開ける。そして24年前韓国、12歳のヘソンとナヨンが歩いている。ナヨンはヘソンにテストの成績を抜かされて泣いている。ヘソンとナヨンは幼馴染でお互い恋人同士のつもりをしていて、将来結婚することも考えている。そんな二人を応援するように両方の母親が二人を公園に連れていってデートさせてやる。実は近日、ナヨンの家族はカナダトロントへ移住することが決まっていた。ナヨンは作家を目指していて韓国ではノーベル文学賞は取れないなどと言っていた。

 

ナヨンは移住先でノラという英語名を名乗るようになる。そして12年が経つ。ヘソンはあれからもナヨンを探していた。たまたま映画監督をしているナヨン=ノラの父親のfacebookを見ていたノラは、そこにヘソンの書き込みを見つける。ノラはニューヨークに移っていた。早速友達申請して二人はネットを通じて再会、それぞれの12年間を話すようになる。ヘソンはいつ韓国に来るのかとノラに尋ねノラはいつニューヨークに来るのかとヘソンに尋ねる。ヘソンは今もノラが好きだった。しかし、お互いにお互いのところへ行くのは一年以上先だと告げる。

 

作家を目指すノラは作家招聘のサークルに参加することになり一人生活に入るが、そこでアーサーと知り合う。作家を本気で目指すノラはヘソンに、ネットでの会話を辞めようと告げる。そしてさらに12年の月日が流れる。ヘソンにも恋人はできるが、すぐに疎遠になってしまう。ヘソンは仕事の休暇でニューヨークのノラに会いに行くことにする。ノラはアーサーと7年前に結婚していた。ノラはアーサーにヘソンと会う旨を話す。

 

ニューヨークにやってきたヘソンはノラとひと時を過ごす。そして帰国する前の夜、アーサーに会うことになる。ヘソンはノラたちの家に行き、アーサーと一緒に食事に出てその後バーに立ち寄る。冒頭の場面である。ノラはヘソンに、前世の縁=イニョンについて話し、二人は前世でも結ばれない運命だったこと、こうしてアーサーと出会うことの奇跡の出会いを韓国語で話す。その姿をどこか寂しげに聞くアーサーだった。

 

バーを出て野良の自宅に戻った三人は、ヘソンがタクシーに乗る場所までノラは送っていくと言い、アーサーは見送る。タクシーが来るまでの2分間、ヘソンとノラはじっと見つめ合う。それは近いようで遠い距離だった。二人は抱きしめ合い。そこへタクシーが来てヘソンは乗って去っていく。一人アパートへ戻るノラ、自宅前で待つアーサーに抱きしめられノラは思わず泣いてしまう。こうして映画は終わる。

 

24年間のプラトニックな切ないラブストーリーを縁という東洋的なテーマを盛り込んで描く美しい物語は、決して仰々しい展開も派手な映像も見られないけれど心に染み渡る感動を呼び起こしてくれます。アーサーが韓国語を話せず、ヘソンも英語は苦手で、さらにノラの寝言が韓国語だけだとアーサーが寂しげに言う場面など、さりげないセリフや展開の中に心の機微が盛り込まれた脚本が上手い。残念ながらアカデミー賞作品賞を取るにはしんどいかもしれないけれど良質の映画だったと思います。

映画感想「アイアンクロー」「フォロウィング」「ゴッドランド」

「アイアンクロー」

物語の構成も展開も良くできているし、登場人物の描写も丁寧に描かれていて、非常に良質のクオリティーの高い映画なのですが、いかんせん実話というのが辛い。次々と不幸が訪れていく流れで、出口はないのかとさえ思うのですが、決して深みに落ち込んでいく演出をせずに次へ次へとコマを進める組み立てが上手い。ラストはなんとか救いが見られたので、いい映画を見たという感慨に耽ることができました。監督はショーン・ダーキン

 

暗闇に浮かぶリング、そしてタイトル、アイアンクローを武器にプロレス界を席巻するフィリップ・フォン・エリックの活躍場面がモノクロで描かれて映画は幕を開ける。この日も試合が終わり息子たちに出迎えられるフィリップ。やがて時は経ち、四人の兄弟は立派な大人になっている。長男、というか幼くして亡くなったジャックが実際は長男だが、最年長のケビンはプロレスラーとなり地元テキサスで優勝するほどの実力となる。ケリーは円盤投げでオリンピック選手となり、末のマイクは音楽活動をしていた。デビッドもプロレスラーとなっていく。

 

しかし、時はソ連アフガニスタン侵攻で、モスクワオリンピックアメリカは不参加となりケリーの夢は消えてしまう。地元に戻ったケリーにフィリップは、プロレスラーにならないかと提案しケリーも受け入れる。やがてケビンはフィリップが果たせなかった世界チャンピオンのタイトリマッチを目指すが、なかなか実現しない中で、チャンピオン戦は別のレスラーが奪い取ってしまう。その中、次第に実力をつけてきたデビッドを世界チャンピオン戦に挑戦させることにフィリップは決断する。

 

デビッドは世界中で試合をしながら力をつけていくが、日本へ渡った際急病で亡くなってしまう。失意の中、デビッドが果たせなかった夢をケビンかケリーが受けることになる。そしてコイントスでケリーが試合に臨むことになる。見事チャンピオンになったケリーだが、優勝の日、バイクで事故を起こし足首から下を切断してしまう。悲しみの中、マイクもプロレスラーの世界に飛び込んでくるが、父フィリップのプレッシャーに耐えきれずとうとう自殺してしまう。

 

ケリーは足首に義足をつけてプロレスラーの世界に戻ってくるが、フィリップの団体とは所属を変え、その中でしだいに追い詰められていく。そして、ケビンに電話をした直後、フィリップの実家に戻って銃で自殺してしまう。兄弟で一人残ったケビンは父のプロレス事業を受け継ぐが、父は経営には無頓着で破綻寸前だった。ケビンは会社を売ることを決意し、その資金で、牧場を買い、妻パムや息子らと幸せに暮らす。こうして映画は終わっていく。

 

実話というのが本当に辛いのですが、映画としては実に誠実で丁寧な作品に仕上がっています。不幸に苛まれる家族の物語を楽しむようで心許ないものの、良い映画を見た感じでした。

 

フォロウィング

時間と空間が交錯して、真実が覆されながら展開していく凝縮されたサスペンス作品。面白い作品で、監督のこの後を匂わせるエッセンスが散りばめられている映画だった。監督はクリストファー・ノーラン。デビュー作である。

 

ゴム手袋をはめている手から、何やら証拠物件のようなものを取り上げて、ビルという男を尋問している刑事の場面で映画は幕を開ける。ビルという男は他人をつけ回し、その姿を追い求めることが趣味になっている作家志望の男だった。ある日、一人の男をつけていてカフェでくつろいでいると、つけていた男に声をかけられる。その男はコッブと言って、空き巣を趣味にしているという。コッブのカバンには盗んだCDや女物の下着、ピアスなどが入っていた。

 

コッブに言われるるままにビルも彼と空き巣に向かう。最初の部屋でカバンを盗み、置いてあるコートに女物の下着を忍ばせ、ピアスを残し、台所でワインを飲んでいるところへ、この家の住民らしい女と男がかえって来る。二人は慌てて、部屋の見学に来たと言って部屋を出ていく。二人がカフェで座っているとさっきの女が入ってきたので、また慌てて外に出る。コッブはビルに、顔や服をかえろと言われ、ビルは髭を剃り、髪を短くし、スーツを着る。

 

バーでダニエルという男が一人の女性に声をかける。ダニエルというのは前半で出てきたビルである。女は連れ合いがいるという。その連れ合いは危険な人物なのだというが、女はダニエルの部屋にやってきて体を合わせる。女は、連れ合いの男の部屋の金庫に自分のいかがわしい写真が隠されているので盗んで欲しいという。ダニエル=ビルはコッブに提案するがコッブは乗ってこない。ビルはコッブが盗んだ品物を金にしようとしたができず、コッブに返す。

 

実はコッブと女は知り合いだった。コッブは、自分が盗みに入った部屋で老婆が死んでいて、刑事に事情聴取されたので、自分が疑われていると思い、身代わりを探していてビルという男を見つけたと話している。ビルは女の連れ合いの部屋に行き金庫を開けて金と写真を盗み出す。しかし、連れ合いの男が戻ってきたので金槌で殴り倒してしまう。しかも、盗んだ写真は普通のモデル写真だった。騙されたと思ったビルは女に詰め寄る。一方、コッブは女に、すべてうまくいったらしいことを話し、最後に、ビルが使った金槌で女を殺す。

 

冒頭のシーン、刑事はビルの供述の中で、コッブなどという男はいないし、老婆の殺害事件も報告はない、一人の女が殺されているということだけ話す。こうして映画は終わる。

 

複雑に入り組んだように交錯させる手法でシンプルなミステリーを組み立てていく面白さはなかなかのもので、これだけ複雑にしながらもちゃんと整理されていく構成のうまさは流石だと思える一本だった。

 

「ゴッドランド」

超弩級の一級品の北欧映画を久しぶりに見た感じです。スタンダート画面ながら広大な自然を背景にしたカメラが抜群に美しいし、そこで展開する人間ドラマの素朴さと、崇高な宗教観がおおう空気感に画面から目を離せないほどに釘付けにされてしまいました。景色の変化を細かいカットを繰り返して時間の経過を表現したり、シュールで無駄のない映像を繰り返す映像演出も素晴らしい作品だった。監督はフリーヌル・パルマソン。

 

アイスランドで発見されたデンマークの牧師が持参した木箱に入った七枚の写真から着想を得たというテロップの後、一人のデンマークの牧師ルーカスがこれからアイスランドへ布教に行く場面となり、その注意事項を上級司祭から聞いている場面から映画は幕を開ける。場面が変わり、アイスランドへ向かう船の中、ルーカスがカメラをセットして仲間を撮っている。そして小舟でアイスランドの浜辺へ上陸し、現地のラグナルという年老いた案内人と会うが、どうもルーカスとは馬が合わない上に、アイスランドの言葉しか話さないラグナルと意思疎通ができないまま旅が始まる。しかし、デンマーク語がわからないラグナルもまた、ルーカスに接近できなかった。

 

アイスランドの自然は厳しく、岩山を登り、沼地を通り、川を渡り目的地を目指すものの、次第に精神的に参ってきたルーカスは、夜も眠れなくなる。そしてとうとう途中気を失って倒れてしまい、ラグナルらに引き摺られていくことになる。

 

ルーカスが目覚めたのは、教会を作る目的地のカールという男の小屋だった。ラグナルらは教会建設を進め、回復したルーカスも手伝い始めるが、アイスランドの言葉がわからないルーカスは、村人とは常に溝ができていた。カールの家にはアンナとイーダという娘がいた。ある朝、ルーカスの馬がいなくなり、その馬を探しに行こうとアンナが提案、イーダの馬を使って探しにいくが、いつのまにかアンナとルーカスは惹かれあっているのがイーダやカールらも気づき始める。

 

カールはアンナに、ルーカスに近づかないようにと忠告したりするが、ある日、アンナはルーカスと体を合わせてしまう。教会がほぼ完成し、ラグナルはここを立ちたいとルーカスに告げる。そして最後に自分の写真を撮って欲しいというが、ルーカスはデンマーク語で、ラグナルを罵倒する。実はラグナルはデンマーク語が理解できていた。そしてルーカスに、これまでの自身の失敗や悔やんでいることを懺悔し、最後にルーカスの馬を盗んで殺した事を告白する。ルーカスは感情的になってラグナルに襲い掛かり、岩に頭を押し付けて殺してしまう。

 

間も無くして、初めての教会でのミサが執り行われ、村人たちが教会に集まり、ルーカスが演壇に立つが、ラグナルが可愛がっていた愛犬が外で激しく吠え、村人の一人の赤ん坊が泣き止まず、ルーカスは耐えきれなくなり教会の外に出るが、泥で滑って汚れてしまう。いつまでも戻ってこないルーカスを気にしてカールが探しに出て、ルーカスに追いつく。ルーカスはカールの娘の馬を使って逃げ出していたのだ。カールはルーカスを馬から下ろし、その場で殺してしまい、落馬した事にしてくれと言ってその場を去る。

 

冬が来て春が来て、季節が流れ、ルーカスの遺体は朽ちていく。春になりイーダがルーカスの遺体を見つける。こうして映画は終わっていく。

 

細かいカットで季節の流れを表現したり、研ぎ澄まされた無駄なシーンを削除した映像演出、広大な大自然の隅にポツンと人物を配した映像など、非常に卓越した画面に圧倒される作品で、背後に見え隠れする宗教的な視点が映画を奥深く大きくしている。相当なクオリティの見事な映画でした。

映画感想「結婚三銃士」「惜春」(木村恵吾監督版)「東京ロマンス 重盛君上京す」

「結婚三銃士」

本当にたわいない恋愛コメディで、クサイ演出と演技、適当なストーリー展開は映画黄金期の大量生産時代かつ戦後すぐの突貫工事のような完成度が、時代を匂わせてくれる一本でした。監督は野村浩将

 

化粧品会社の面接に来ている主人公時彦の姿から映画は幕を開ける。女性社長に面接されて採用が決まるが、恋愛御法度という条件がつけられる。しかし時彦には愛子という恋人がいて、早速就職報告を兼ねてのデートをする。そこで、会社の社長の姪である輝美と出会う。時彦は化粧品の営業で一流キャバレーに行きそこで百合というナンバーワンホステスと出会う。百合は時彦がかつての恋人に瓜二つだからとすっかり惚れてしまう。その店で、時彦は幼馴染の君子とも再会する。君子も昔から時彦を思っていたことから、時彦の取り合いが始まる。

 

しかし、時彦が輝美に相談したことから、輝美、君子、百合は協定を結んで時彦は愛子に返すということでお互いアプローチしないことになるのだが、愛子は、島田という新しい恋人と結婚することになる。そこで時彦の争奪戦が再燃、しかしいつの間にか君子は時彦に夢中になり君子の会社の社長も君子と時彦の恋を応援する立場となる。

 

悩んだ輝美は熱海の別荘に逃げてしまうが、社長は時彦に輝美への手紙を持参させる。そこには社長の命で輝美と時彦は結婚すべしという内容だった。時彦が熱海へ向かう途中、百合と君子は時彦を探していて、駅で偶然出会った二人は時彦の後を追う。そして熱海の輝美の別荘で三人が集い、社長の手紙を見た君子と百合も輝美と時彦を応援して結婚となって映画は終わる。

 

たわいのないコメディだが、いかんせん上原謙の大根ぶりが映画をギクシャクさせている、まあそれもまた一興という映画だった。

 

「惜春」

脚本の組み立ては面白いのだが、いかんせん上原謙がどうにもしみったれていて、映画全体にテンポが乗ってこない。それでもギクシャクと悲恋の恋愛ものとコメディを混ぜこぜにした仕上がりになってこれもまた映画の楽しみと割り切ればそういう映画かなという作品だった。監督は木村恵吾。

 

サラリーマン風の男藤崎の会社帰り、一台の車に弁当を轢かれたまま帰宅する。ブギの女王衣笠蘭子の家では大騒ぎで歌の練習、映画会社のプロデューサー、マネージャーなどが入り乱れての大騒動が行われていた。そこへ、お茶を持って入ってきたのは蘭子の夫藤崎だった。蘭子は一か月のツアーに出発で、大騒ぎで右往左往する藤崎はようやく妻を送り出して自分は会社に出かける。

 

一か月の蘭子の留守の間、女中としてたか子という女性がやってくるが、出来すぎた女で、藤崎の心はたか子にしだいに傾いていく。それに伴いいつの間にかたか子の気持ちも藤崎に向いてくる。藤崎は連休の日、たか子を温泉に誘い日帰りで帰るつもりがつい終電を逃し連れ込み旅館に泊まることになる。そしてあわやというところまで行くも、理性を取り戻して、たか子は駅で寝て、翌朝藤崎も駅にくる。そして一本電車をずらして帰ることになる。

 

自宅に戻ったが、蘭子が帰ってくる連絡が入る。たか子らは平謝りするつもりで蘭子を待つが、蘭子は例によって大騒ぎで帰ってきた上、藤崎に妊娠を告白する。結局謝るタイミングもなく、藤崎はたか子を見送って、全て元に戻って映画は終わる。

 

なんのことはない、無駄に湿っぽい大人のラブストーリーという映画でした。

 

「東京ロマンス 重盛君上京す」

森繁久弥の一人舞台、独壇場のアドリブだけでバタバタする映画という感じの一本でした。全体の雰囲気がとにかく貧乏くさいし、コメディがコメディとして機能していない間延びした脚本と演出が妙に飽きてくる映画だった。監督は渡辺邦男

 

東北の田舎の村、村ののど自慢で優勝した重盛が歌手になるべく東京へ向かうという日、村の人たちが送り出す場面から映画は幕を開ける。汽車の中でキミ子という美しい女性と知り合う。重盛は、東京で中華料理屋をしているらしい六兵衛を頼って探すが、成功者と聞いているのに大きな店が見つからず、諦めて屋台のラーメン屋に立ち寄ると、そこが六兵衛の店だった。六兵衛の妻は歌好きの女房で笠置シヅ子が演じている。

 

キミ子はレコード会社からデビューを誘われているが慈善施設の保育園で働いていて、歌手になる気はない。しかし、重盛と再会したキミ子はレコード会社に売り込むべく自分の言い寄ってくるプロデューサーに紹介する。プロデューサーはキミ子をデビューさせるためにキミ子の希望を聞いて重盛にもレコーディングさせるが、NHKののど自慢でも落ちてしまった重盛はキミ子のレコードのB面にかろうじて入れてもらうだけだった。

 

キミ子の歌はヒットするが、キミ子は保育施設の太陽先生の手伝いを希望していた。一方、重盛はキミ子にプロポーズしようとするがキミ子は太陽先生と結婚する決心をしていて重盛は失恋、歌手にもなれず田舎に戻ってくるが村人に歓迎され映画は終わる。

 

とにかく、森繁久弥はこんな普通の役者だったかと勘違いするほどの好き放題のアドリブ大根演技に辟易としてしまう。この後「夫婦善哉」で名優ぶりを余すところなく発揮するかと思うと、驚くような一本だった。

 

映画感想「ブルックリンでオペラを」「毒娘」「インフィニティ・プール」

「ブルックリンでオペラを」

面白い映画なのですが、キャラクターを作り込みすぎたので、展開が奇妙に煩雑になった上ごちゃ混ぜになって、肝心のコミカルな展開が潰されてしまった感じです。もう少し、鮮やかさとシンプルさが欲しかった。でも、スタンダード画面と横長画面を繰り返す絵作りや、劇中劇のモダンオペラの設定などは個性的で面白かった。監督はレベッカ・ミラー

 

舞台の後のパーティでしょうか、オペラの歌を奏でる役者の姿からカメラが移ると、モダンオペラの作曲家で次の作品に悩んでいるスティーブンの姿となる。そこへ、精神科医潔癖症の妻パトリシアが現れ、人混みから逃げる夫に客を紹介したりする。場面が変わると、若いカップルジュリアンとテレザがベッドでいちゃついている。2人でポラロイドで写真を撮りあったりする。ここに、南北戦争のコスチュームプレイを趣味にしているテレザの義父トレイはこの日もイベントから帰って来ると、妻のマグダレナが出迎える。

 

ティーブンはすっかりスタンプで引きこもっているので、パトリシアは散歩にでも行けばと送り出す。スティーブンは行きつけのバーに立ち寄ったが、そこでカトリーナという女性と知り合う。曳舟の船長をしているという彼女に船の中を案内されたが、彼女は恋愛依存症だと言って服を脱ぎスティーブンに迫って来る。つい体を合わせ、スティーブンは船を降りるが、途中で海に転落し、新しい舞台のアイデアが浮かぶ。それは今経験したことだった。

 

そんな頃、パトリシアは一人の女中マグダレナを雇って部屋中掃除していたが、そこへ恋人のテレザを連れた息子のジュリアンが戻って来る。なんとマグダレナはテレザの母だった。パトリシアは学生時代、初恋の相手との間にジュリアンが生まれたが、その後相手と別れスティーブンと結婚した、一方テレザの父トレイはマグダレナと結婚はしていなくてテレザを養子にして義父として暮らしている。裁判所の速記者でもあるトレイは異常なほどに法律に詳しく硬い人物だった。マグダレナは若き日の失敗を繰り返さないためにテレザには大学へ進んで知識を得てほしいと考えていた。

 

ある日、マグダレナはテレザのベッドの下から、スティーブンと撮った裸の写真を発見しトレイに見せてしまう。トレイはテレザがまだ16歳で結婚できないこと、スティーブンが無理やりテレザと寝たのではないかと法的に解釈して裁判しようと言い出す。一方、カトリーナはスティーブンにストーカーのようにつきまといはじめ、スティーブンは、病院で見てもらった方がいいと勧めたため、パトリシアの病院に診察に行く。そこで、パトリシアはスティーブンが書いたオペラのモデルの女性だと気づいた上、スティーブンとも関係があることがわかってしまう。潔癖症のパトリシアは修道女になることを決心して荷物をまとめ始める。

 

ジュリアンが訴えられそうになり、それを回避するためにマグダレナ、パトリシア、スティーブンらはジュリアンがテレザと結婚すればいいのでは考える。しかし16歳で結婚するためにはデラウェア州へ行かないといけない。警察にも顔がきくトレイはテレザを監禁しているので、陸上を車で逃げても捕まる。そこでスティーブンはカトリーナに頼んで、船でデラウェア州へ行くことを考える。マグダレナはテレザを連れて、トレイのコスチュームイベントに参加するフリをして家を出て、隙を見てカトリーナの船に乗る。パトリシアはすっかり精神的に参っているので、自宅で見守ることにする。

 

やがてデラウェア州についたジュリアンとテレザは、一晩で手に入れたカトリーナの牧師免許によって結婚を認められる。スティーブンはカトリーナと恋人同士になり、パトリシアは無事修道女になり、みんなでスティーブンの新しいオペラの舞台を見ている場面で映画は終わる。その舞台はここまでの経緯そのままだった。

 

面白いのですがパズルがパズルのままで綺麗にまとまっていかない脚本が本当にもったいない。でも、ちょっと楽しめる映画でした。

 

「毒娘」

だらだら間延びした脚本と、間の悪い演技、リズムが乗らない演出にぐったりする作品だった。B級にもならない駄作ホラーという一本。こういうものを作って金を取るなと言いたいけれど、仕方ないですね、興味があってみに来たのだから。監督は内藤瑛亮

 

高校生のバカップルが一軒の売りに出ている家に勝手に入る。部屋に入ったら不気味な瓶が並んでいて、ベランダに人の気配がするので男が覗くと、突然赤い服の少女にハサミで切りつけられて映画は幕を開ける。場面が変わり、この家に萩乃、萌花、篤紘の家族が移り住んでくるが、不気味な赤い人物の姿が見え隠れする。

 

ある日、産婦人科に行った萩乃に萌花から電話が入り、ケーキとコーラを買ってきてほしいという。萩乃がケーキとコーラを買って慌てて戻ると赤い服の少女がハサミを持って萌花を襲っていた。少女はケーキとコーラを食べると「またね」と言って去ってしまう。どうやら以前この家に住んでいた家族の娘らしく、近所で有名なちーちゃんという少女だったと刑事は言う。萌花は不登校だったが自宅で勉強して過ごしていた。萩乃は後妻で、萌花の母は火事で亡くなっていた。

 

そんなある日、近所の主婦が、娘がダンスをしているので、その衣装を萩乃に頼みたいと来る。萩乃は以前衣装デザインをしていて、結婚して辞めていたのだ。しかし、今も仕事は再開したかったが、子供が欲しいという篤紘の気持ちに応えようとしていたが、そんな萩乃を萌花は疎ましく思っていた。萩乃は萌花と一緒に衣装デザインを仕上げて主婦に喜ばれる。そんな萩乃に、知人から一人舞台の衣装をデザインして欲しいとやって来る。篤紘は反対したが萩乃はこっそりそのデザインを描き始める。

 

その後もちーちゃんが現れ萩乃達を悩ませ、ちーちゃんの両親も謝りに来たりする。萌花は妙にちーちゃんと仲良くなり、次第に部屋にあげて話をするようになる。萩乃はなんとか妊娠したが、仕事への未練も強くなって来る。そんな萩乃に篤紘はますます横暴になってきて、ある日、自分の意見を言うようになった萩乃を殴ってしまう。それを見ていた萌花はちーちゃんと一緒に父を殺すことにし、ちーちゃんの住んでいる橋の下で支度をする。萌花は、萌花の母も篤紘に殺されたらしいと思い始めていた。

 

萌花が部屋からいなくなったので探していた萩乃と篤紘が家に戻って来ると、突然ちーちゃんが襲いかかる。そして篤紘はハサミで刺されて殺され、萩乃にも迫るが、萌花は母を庇う。ちーちゃんは二人に反撃され階段から落ちるが、姿を消してしまう。

 

萌花は施設に収容され、萩乃はまた仕事を始める。あの家に新しい家族が住むが、二階にいたちーちゃんが現れ、家族に毒ガスを撒いて映画は終わる。

 

全くくだらない作品で、キャラクター造形が全然できていない上に、ありきたりなセリフと適当な言い回しを繰り返していく流れに辟易としてしまう。駄作という言葉がぴったりの一本だった。

 

「インフィニティ・プール」

西洋の富裕層を皮肉った悪趣味なミステリーホラー作品だった。表現がグロテスクなのは構わないが映像に品がないので画面から目を背けたくなる嫌悪感さえ生まれて来る。それでもシュールな展開に面白さがあればいいのですが、そこに一工夫ないために、見終わって、面白かったと言う感想にならない。芸術だと言えばそれまでだが、独りよがりのメッセージ映画という括りでもいいかもしれない一本だった。監督はブランドン・クローネンバーグ。

 

暗闇の中でジェームズとエムの夫婦がいちゃついている会話から映画は幕を開ける。ジェームズは作家だが新しい閃きがなく、裕福な妻エムとリゾートホテルに来て、何かのアイデアを探っていた。ある日、海岸でガビという、毎年ここに遊びに来ている女性と出会う。ガビはジェームズの本を読んだことがあるというのでジェームズは親しみを覚える。ガビは翌日、ホテルの外で食事をしようと二人を誘う。この島ではホテルの外に出ることは禁止されていたが、ガビと夫のアルバンと一緒に、アルバンがスレッシュという男から借りた車でホテルの外へ食事に出かける。

 

食事の後、しこたま飲んだ四人は車でホテルへ向かうが、ジェームズが運転していて誤って人をはねてしまう。アルバンとガビは逃げた方が良いとそのままホテルに帰るが、翌朝、ジェームズのところに警察が来てエムと共に逮捕される。しかし、警察署で、ジェームズのクローンを作った上、それを被害者の息子に殺させることで罪を償う方法があると説明されて、エムは大金を払いその手続きを進める。

 

エムとジェームズの目の前で、ジェームズのクローンは被害者の息子に刺し殺され、その遺灰はジェームズに届けられる。エムはこんな所にいたくないと帰る段取りを急ぐが、ジェームズはパスポートを無くしたからと先にエムを帰らせる。実はジェームズはパスポートをトイレに隠していた。ジェームズはアルバンの知り合いに頼んでパスポートを早く準備してもらうようにする。アルバンは、離れた所のリゾートホテルの設計をしたのだが、そのホテルのインフィニティ・プールの事故で死人が出て責任を追及され、クローンの手続きをしたのだという。しかしそのホテルのオーナーが表彰されたのが気に入らないので、その家に押し入って表彰メダルを盗もうと持ちかけて来る。

 

アルバンやガビとその友人達と一緒にジェームズもオーナーの邸宅に忍び込み、オーナーらを拘束するが、住人と撃ち合いになってしまう。なんとか戻ってきて、またクローンの手続きでガビらも含め刑を逃れたが、ガビはジェームズに、この地にしかない麻薬を勧める。それを嗅がされたジェームズは幻覚を見て、ガビやアルバンらと共に乱行をしてしまう。そして次第にその魔力に取り憑かれ始める。

 

ジェームズのパスポートの手続きが警察の刑事に妨害されているから、その刑事を懲らしめようとアルバンやガビに提案され、一緒にジェームズも参加するが、引き摺り出されてきたのはジェームズのクローンだった。ガビらの行動が異常なものだと思い始めたジェームズは帰国することを決め、隠していたパスポートを持って空港へ行くバスに乗るが、ガビ達が追って来る。そして途中でバスを止められたので、必死でジェームズは逃げ、地元の住民の小屋に転がり込むが、そこは以前轢き殺した被害者の家で、その息子がジェームズに迫って来る。しかしそれも幻覚で、気がつくとガビらと共にいた。

 

ガビらは犬に首輪をつけたジェームズのクローンを連れてきてジェームズと殺し合いをさせようとする。ジェームズは、狂ったように自分のクローンを殴り殺す。やがて雨季がきてホテルは閉鎖の期間に入る。ガビ達は帰国するため空港へ行くが、ジェームズは飛行機に乗らず、閉鎖されたホテルで雨を見ている場面で映画は終わる。

 

エログロの極みの悪趣味な映画で、芸術表現だと言われればそれまでかもしれないが、個人的には受け入れられない一本だった。