くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「KOTOKO」「ルート・アイリッシュ」

KOTOKO

「KOTOKO」
映像表現には様々な方法がある。そして映画は基本的に映像として昇華されたときにその完成度の頂点になると思うのです。頂点に到達することで名作、傑作と呼ばれるのではないかと思う。

この「KOTOKO」という映画、一つの映像表現としてその頂点に近づいた傑作だと思う。表現者が思い描いた世界を映像という媒体の中で様々な映像、画面を創造し具体化していく。当然、そこに映画としての娯楽性を盛り込みストーリーを語らせていく。その意味でまれにみる完成度の高い映画だ。と、思うのですが、客観的にうならせられた前半部分も次第に自分の感情がこの主人公を拒否していくのを止めることができなかった。結局、子供を愛するあまりその母性が崩れ、精神的に壊れていき、狂ってしまった一人の母のお話なのだ。と、まとめてしまった。

キャストのクレジットの後、きらきら光る海をバックに一人の少女が踊っている。突然「ぎゃぁ!」という女の悲鳴、ピンぼけの花のショット、海から子供が消えてメインタイトルが浮かび上がる。この導入部に度肝を抜かれ一気に引き込まれる。すばらしい!!

主人公琴子は不動産屋で仕事をしている。チラシに赤や黄色で強調線を引いたりしている。そばに子供をあやしている男、しかし突然もう一人の同じ姿の男が琴子に襲いかかってくる。

赤ん坊を抱いて散歩をしている琴子に一人の女性が「かわいいわねぇ」と声をかける。突然同じ姿のもう一人の女が彼女に襲いかかる。

未婚の母である琴子は、子供を守りたいという過剰反応から異常なくらい神経が過敏で、他人がすべて二重に見え、邪悪な存在として襲いかかる妄想にとりつかれている。彼女がなぜそうなったか、子供ができたいきさつはいっさい語られず、ホラー映画のような演出でカメラを振り回した映像がとにかく怖い。

児童虐待を疑われた琴子は子供大二郎を沖縄の姉に預けることになる。町で声をかけてくる男にホークを突き刺したり、リストカットで自分の生を確かめたりする行動を繰り返す琴子。大胆に振り回すカメラワークと構図がガラスのように壊れかける琴子の心理状態を映像として表現していく。せりふと言うより琴子がつぶやくナレーションのような言葉で物語が進んでいく。

一時、沖縄の姉の元の子供を訪ねたときの琴子のはしゃぎようが実にほのぼのとしているが、それでもどこか異常な部分とのきわどさが見事に描かれている。coccoの演技力というより塚本晋也の演出の力だと思う。

ある日、新進の作家田中(なんと塚本晋也本人)が彼女に近づき、彼女の歌声に引き寄せられたといってプロポーズしてくる。純粋無垢に一途に迫る田中に琴子はホークで突き刺すが、それでもあきらめず近づいてくる。琴子は自分への自虐行為を田中に向けることで解放し、田中もそれをあえて選んで血だらけになる。まさにホラー映画と呼べる姿で琴子につきそう田中が本当に美しい。

やがて、その献身的な行為故か、琴子は正常になり、チラシを引く鉛筆の力も優しく、色合いもピンク色になり和らいでくる。そんな彼女に大二郎を引き取る許可がでる。

ところが、その手紙をもらったその日、田中はいずこへとなくきえてしまう。はたして、彼は存在したのか?そんな疑問さえ生まれる。田中への行為は実は琴子が回復していく姿を描写したのではなかったのか。

琴子は再び不安定になる。大二郎を引き取るも今度は大二郎が二人になったりする。テレビのテロのドラマでこちらに向かってくる犯人の銃口をみつめ、自分の子供が暴力的に殺されるのは耐えられないと叫びながら大二郎の首を絞める。壁がサイケデリックな小物で満たされ、琴子の心理状態が完全に壊れてしまったことが映像となって爆発する。「真っ白になった」というせりふ。このクライマックスは本当に傑作と呼べる。

精神病院の廊下を歩く琴子。一日一度の煙草を吸いに外にでる。激しい雨。雨の中冒頭の少女のように踊る琴子。

「息子さんが面会ですよ」
という案内に琴子は「死んでなかったの・・・」とつぶやきながら面会室へ。小学校高学年くらいの子供がやってきて、サッカーのことを話し、折り鶴を折って別れていく。

子供が殺されていなかったのは救いである。果たして、ここまでの展開は琴子が病院でみた幻覚だったのか?どこまでがリアルでどこまでが琴子の心象風景なのか、何もかもが判別がつかなくなるが、それはどちらにとっても問題はない。

すべてが映像で語られているがためのエンディングなのである。映像表現の極みとしての完成度には全く脱帽する。しかし、一方で、母となったにも関わらず壊れてしまった主人公に対しては素直に共感はできない。その意味で個人的には好きな映画とはいえない一本でした。

「ルート・アイリッシュ
イギリスの名匠ケン・ローチ監督がイラク戦争の暗部を描いた問題作というふれこみであるが、これまでも何度も扱われたテーマでもあるし、視点がイギリスの民間兵に変わっただけでこれといって真新しいものはない気もしないことはありません。前作「エリックを探して」もいまひとつだったので、期待半分というところでした。

主人公ファーガスが友人フランキーの葬儀に向かうために子供時代に一緒に乗った船に乗っている。フランキーからの留守電のメッセージが繰り返されている。

子供時代に二人が船に乗っている様子をバックにしたタイトルが流れる。

葬儀にやや遅れたファーガスは遺体に対面したいと申し出るが損傷がひどく拒否される。それでも深夜忍び込み棺をこじ開けて対面する。異常なくらいのこだわるファーガスの姿にこの二人の強い絆が描かれていきます。

民間兵に誘った下りや、イラクでの行動などがフラッシュバックで描かれますが、これといって作品全体にインパクトを与えるほどのシーンでもありません。

フランキーの遺品にあったイラク人のタクシー運転手の携帯電話から、フランキーの死に不審を持ったファーガスは携帯電話の動画、メールなどから次第にフランキーの死の真相に迫っていく。

通常以上に危険な通路ルート・アイリッシュを通って警備をしていたフランキーの死の直前の行動、さらに同僚だったネルソンの人間像など次第にファーガスは意図的にフランキーが殺されたのではないかと関係者を問いつめていくが、その真相は実はファーガスが望む方向へと逆に真相さえねじ曲げた結果になっていき下りが非常に微妙な物語担っていくのである。

ネルソンによって殺されたのか、民間人を撃った為に会社の上層部によって意図的にフランキーが危険地帯を担当させられたのか?と次第にファーガスの推理を証明するようにこじつけていく。それは親友であり幼なじみでもあるフランキーへの思いの強さ故の狂気であるかに見えてくる。

窓から銃で人々をねらう行動をとるファーガスや、無理矢理自分の推理通りに関係者を拷問して白状させたり、次第に精神的に追いつめられていく。

そして、会社の関係者を車に仕掛けた爆弾で爆死させるにいたって、その狂気は頂点になり、フランキーの妻レイチェルに別れを告げて、かつてフランキーと一緒に乗った船から飛び降り自殺してエンディングである。

結局、イラク戦争に参加した兵士たちが次第に狂気にとらわれていく姿を描いた作品になったのであるが、フランキーの死の真相を探るというサスペンスフルな前半とつじつまが合わなくなり狂っていくファーガスの姿を描く後半とが今一つ一つにまとまらず、作品全体として何を言わんとしたいのかがぼやけてしまう結果になっている。名匠と呼ばれるケン・ローチにしても、イラク戦争の問題は扱いきれなかったような気がします。