くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「別離」(イラン)「決闘の大地で」

別離(イラン映画)

「別離」
主人公で夫のナデルは果たしてラジエーという家政婦が妊娠していたことを知っていたのか?というミステリーの部分。ナデルとシミンの娘テルメーの家族の物語としてのドラマ。アルツハイマーであるナデルの父がなぜ事件の後、口を閉ざしてしまったのかという謎、そしてあまりにも敬虔に宗教の戒律を守るラジエーの姿とイランという国の宗教的な国柄。あまりにも多角的な視点がまるで編み込まれた糸のような状態で見事に一つに結実し展開する物語はある意味別格の傑作でした。

2時間という時間の中に非常に細かいカットをいったいどれくらいつなぐのと思わせるほどに紡いでストーリーが運ばれていきます。その緊張感が一時も途切れず、しかもイランという閉鎖的な国、イスラム教という私たちにはあまりふれることのない宗教感さえ非常に的確に必要最小限の知識として正確に画面に描写されている。従って世界標準としてのイラン映画として完成されているのです。その点がこの映画の最大の長所ではないかと思います。

コピー機にパスポートかなにかをコピーするのを機械のガラスの裏からとらえながらクレジットが流れ、テヘランで暮らすべくイランを出る手続きを進めようやく認められた妻のシミンは夫ナデルにそのことを打ち明けるも反対され家庭裁判所で離婚申請をし、その調停の場面から映画が始まります。

真正面に二人をとらえ長回しで延々とこれまでのいきさつを映し出して、決裂して二人は左右にフレームアウトしてメインタイトル。ここまでで、イランという国の閉鎖的な息苦しさを見事に観客にまず伝える。

娘テルメーは父ナデルと暮らすことになるが、アルツハイマーの祖父の面倒を昼間みてもらうために家政婦のラジエーをやとう。しかし、初日から祖父が粗相をしラジエーがその宗教的な介立から思い悩んだ末にとにかく祖父の服を脱がせる。こういう戒律も実にうまく処理して私たちに明確に説明してくれるこのアスガー・ファルハディーという監督の演出は並ではないと思う。生活の中でいかに宗教的な束縛も存在するのかを的確に伝えてくれます。

祖父を外出させないでほしいと頼まれていたラジエーだがふとした隙に祖父がいなくなり、道路で立ち往生している姿を見つける。妊娠しているにも関わらず駆け寄ろうとするラジエーのショットで画面が転換。あの後なにがあったかはここまででは語られません。このミステリアスなショットが非常に効果的に緊張感を生んでいきます。

ある日、ナデルとテルメーが帰ってくると祖父がベッドにくくられ、ラジエーとその娘が不在で誰もいない。遅れて帰ってきたラジエーをののしり、そのまま追い出すナデル。執拗に一日の賃金を要求するラジエー。生活の貧富の存在などの社会性さえもじわじわと物語の中に織り込まれていく。

ところがその夜、ラジエーが流産してしまい、ここからナデルを訴えるラジエーの夫ホッジャトとナデルたちとの争いに物語が進んでいく。ほとんどの部分はこの争議の問題であるが、脇に写るナデルの娘テルメーの視線はそういうことより両親が離婚することへの悲しみの方が心を占めているように見える。

また、ラジエーがその娘と介護にきたときに、祖父の酸素吸入機をいたずらするラジエーの娘に祖父がじっとほほえんだような視線を送るシーンも何か意味ありげである。

そして、執拗に責め立てるホッジャトの行動にシミンは賠償金で話を付けようとするが、その終盤、ラジエーがシミンに「実は流産はナデルのせいではなかったのではないか、祖父が路上に出たときに祖父を助けようとして道路で車にはねられたのが原因かもしれない」と告げるのだ。そして、このまま賠償金をもらうと神の天罰が下るのでもらえないと告白する。

示談でラジエーの家で集うナデルたち。ナデルは金を払う前にコーランに誓ってナデルがラジエーを押したために流産したことに疑いはないと誓うようにラジエーに迫る。当然、そんなことはできないラジエーは夫に自分の思う真相を告白する。当然、示談は物別れ。

帰ったナデルとシミンは家庭裁判所で、テルメーがどちらについて行くか決めさせることになり、三人で裁判所で座るシーンがクライマックスである。この終盤までに、テルメーがことあるごとに両親が離ればなれになっていることへの悲しみを訴えるシーンがあるにも関わらず、両親は目の前のラジエーとの問題にかかりきている姿が余りにもテルメーには切ないのである。

調停員が父か母かどちらと生活するのかを娘に問いかけ、娘は両親に出てほしいと懇願し、ナデルたちは廊下に。そのままじっとテルメーの言葉の結果を待つ姿でエンディングである。

この作品の至る所に様々な謎がちりばめられているように思うのです。果たしてテルメーはどういう結論を出したのか?さらに、祖父はなぜ、ラジエーがきたときから今まで粗相をしなかったのに漏らすようになったのか?ラジエーのことを執拗に「シミン?」と呼ぶのは、この家族を守らないといけないという潜在的な親としての愛情故ではないのでしょうか?祖父が一人飛び出しそれを助けたラジエーのシーンの謎。実は祖父も自分のために息子たちが離婚してしまうことへの罪悪感があるので自殺しようとしたのか。本当にラジエーが祖父の手足をくくったのか?

宗教的なことにはやや懐疑的なナデルの現代的な視点もこの作品のメッセージにさらに奥行きを生み出していきます。

前作「彼女が消えた浜辺」も不思議なミステリアスな面のある映画でしたが、今回はさらに磨きの掛かったワンランク上の映像表現の傑作として昇華されたように思います。全体のリズムが非常に暗いので手放しで楽しめたとはいえないのですが、現代イランの変わりゆく社会観、宗教への問題意識、さらに飛躍すると閉鎖的なイラン国家への反抗心さえも見え隠れする必見に値する作品だったと思います。

「決闘の大地で」
チャン・ドン・ゴンのハリウッドデビュー作という一本であるが、結局、東洋人がハリウッドで扱われる作品というのはこの程度のものかと思わせてしまう残念な映画でした。

懐かしいマカロニウエスタンの単純明快なB級映画よりもたちが悪い。中途半端に話題のジェフリー・ラッシュケイト・ボスワースを共演にし、さらにデジタル映像を駆使して、様式美を追求したかのような背景を設定したのが失敗であったかもしれない。チャン・イーモウが描く武侠映画のような美的なアクションでもないし、といって日本的歌舞伎的な様式美による剣劇でもない。まぁ、アメリカ人にはこの程度で受けるのかといわれるとそうかもしれないが、それにしてもお粗末でした。

「悲しき笛」と呼ばれる暗殺集団に属していた主人公は敵対する集団を皆殺しにする際に赤ん坊を見逃してしまい、そのままつれて逃げる。結果「悲しき笛」から追われる身となった主人公は西部劇の宿場町のようなところにやってくる。まぁ、これだけならシンプルで良いのだが、そこで生活するうちにこうした平穏な毎日が幸福と感じられてくるという心の変化もすべてナレーションで処理するという適当さには参った。

さらにリンという娘の復讐劇が後半では比重が高くなり物語がどっちつかずになって、クライマックスはリンの敵のならず者たちも主人公を追っている「悲しき笛」の暗殺集団も入り交じって、一気に片を付けるという適当さには参った。

すべてが終わって、再び一人去っていく主人公は懐かしいマカロニウエスタンの味わいであるが、どれもこれもが余りに適当で、結局、この程度の作品でしか作れなかったかと悔しいだけの一本でした。デジタルを駆使したCG映像も今一つ品がないし、本当にもったいないなと思う一本が残念なひとときでした。