「ユンポギの日記」
大島渚が韓国で撮ってきた写真を写しながら「ユンポギの日記」という韓国幼年の詩を背後に流すいわゆるフィルムドキュメントである。
描くのは朝鮮戦争直後の韓国の孤児たちの現状であり、そこにかぶるのは日本によって支配され、蔑まれ、迫害されていた時代からの解放のメッセージである。明らかに大島渚の主張映画であり30分弱にしっかりと埋め込まれた訴えかけはさすがに当時の時代の中にしかそのテーマは見えてこない。
今となっては作品としての希少価値を体験するだけにとどまるのは実に残念ですが、これもまた映画という媒体の宿命かもしれません。
「飼育」
昭和二十年の夏、ある山村に米軍機が墜落、村人が山狩りをして一人の黒人兵を捕まえる。映画はその黒人を村へ連れて帰るシーンに始まる。
泥の中を歩く足、足に罠が挟まったままの黒人、村人たちの頭が画面をところ狭しとうごめいていく。村に着いた人々はその黒人をどこで拉致しておくかを会議し、本家の倉に入れることにする。
本家の主人一正(三国連太郎)がことあるごとに村の未亡人や人妻に手を出す性悪男。この村には東京から疎開してきている家族(小山明子)などが住んでいる。ひもじい子供たちが畑に盗みには行ったり、村人もその日の糧のために盗みをしたりする。黒人を拉致して、政府からの褒美に預かろうとする人々の浅ましさもまたしっかりと描かれる。
一人の若者次郎が召集されるが、本家に疎開にきている姪と体の関係を持った翌朝に逃亡してしまう。
村人はことあるごとに黒人に当たろうとする一方で子供たちは黒人のところに興味本位で近づいてくる。
やがて、なけなしの食料で黒人を養っていた村人は、黒人がきてから村にトラブルが続くと思いはじめ、どうしようもなくなり黒人を鉈で殺す。憲兵にみつかるのをおそれた村人は黒人を埋めてなかったことにする。おりしも戦争が終わるのである。
しかし、村人たちは今度は進駐軍をおそれ、黒人をいれた棺桶に村人たちが次々と土をかぶせていく。口裏を合わせてなにもなかったようにしようとする村人。横長の画面に棺おけが横たわり真上から土をかぶせる手のオーバーラップが延々と続き、村人たちがすべて丸く収まったと集まっている場面へ。ここからカメラは延々とこの集まりの場面をとらえる。もし憲兵に見つかったら次郎のせいにしようと取り決めたりする。全く、自分勝手そのものである。
そこへ、次郎が戻ってくるのだ。しかし村人はあらかじめ決めたことを承知させる。暴れる次郎は日本刀を振り回し逆に死んでしまう。村人は今度はその若者を焼いてしまうことにする。
火をつけ、まるで、久しぶりに村祭りのように騒ぐ人々。カメラがゆっくりと引いていくと一人の少年が見つめる。その彼方に別の炎があがっている。エンディング。
いわゆるこの村が第二次大戦頃の日本の縮図であり、戦時中はアメリカを始め外国人にすべての責任を、そして戦後は軍人たちや死んだ人々に責任を覆いかぶせ、自分らはのうのうと戦後の日本に居座ろうとした日本人の姿を比喩しているのであろう。戦争への皮肉以上に、日本人への非難、さらには天皇に対する非難さえも見えてくる大島渚の辛辣な視線が、クライマックスからエンディングにかけてくっきりと浮き彫りになってくる。全く、見事な傑作でした。