「秋日和」
これはまさに名品と呼ばれる一本。唯一無二の名作である。物語は実にシンプルだが、恐ろしいほどに計算され尽くされた細かい演出が随所に見られる上に、ストーリー展開のリズムが絶品なのである。
こんな、さりげないドラマがなぜこれほどまでに笑いを呼び起こし、微笑ましいほどに胸の中に暖かい感情を生み出すのか。本来誰もが心の奥底に持っている真心のようなものが沸々とスクリーンを通して自分に思い起こさせてくれる。これが映像芸術としての名品である。
東京タワーのショット、お寺の入り口で老人と孫がたたずむ、寺の堂の中の鐘のアップ、そして、三輪という男の七回忌の法事が営まれようとしてる。三輪の友人の田口、平山が席に着く。未亡人となった秋子と娘アヤ子。遅れてやってきたのは間宮である。こうしてこの映画が幕を開ける。ローアングルのショットや無人になる部屋の中の廊下や会社のシーンなどのインサートカットは言うまでもないが、それよりもそんな芸術的な部分が普通に感じられるほどに、一つの物語がリズムを生み出してくるのである。
岡田茉莉子扮するアヤ子の親友百合子が間宮たちを会社に訪ねて、啖呵を切る場面から、自分の両親が営む寿司屋につれていく下りの軽快なこと。
間宮たちのあこがれのマドンナ秋子をものにした三輪のエピソードを語る冒頭部分の楽しいこと。それは単に名優たちがそのすばらしい間合いの繰り返しで見せる卓越したシーンの連続も去ることながら、映像のテンポを微に入り細に入った小津安二郎の恐ろしいまでの演出の才能によるところも大である。
秋子の一人娘アヤ子の縁談を間宮等が画策することになり、間宮の会社の後藤という男に白羽の矢が向けられる。ところがアヤ子本人が、母秋子を一人にすることに心苦しいという態度を見せたために、秋子にも縁談を考え、たまたま男やもめになっている平山に冗談半分に言うと、本人がいつの間にか本気にして浮き足立つ下りの微笑ましいこと。
かつて、彼らのマドンナであった秋子を後妻にもらうことに心が浮くが、母が再婚することに激怒するアヤ子。結婚と好きになることは違うという考え方の持ち主ながら、どこかまだまだ古風なアヤ子の描写が、時代の流れを的確に映し出し、若者たちの考え方の変化をとらえた脚本がすばらしい。
ここで百合子の登場となり、自分の今の母も後妻であるという事情も描かれ、そんな中、アヤ子は考え方が子供じみていると非難すると二人は口を利かなくなる。そして、前述のシーンから、やがてアヤ子と後藤は結婚へと流れていく。
ところが、綾子と秋子が結婚前の最後の旅行に出かけたところで秋子に再婚の意志がないことを告げる。
二人が泊まった修善寺の旅館のシーン。一階二階を真正面に外から捕らえたカメラの素晴らしいこと。廊下を片付ける女中たちの姿、布団を上げる二回の様子などがひとつの画面に写される。前夜の修学旅行生が騒ぐシーンを捉える場面も秀逸。
綾子の結婚式の後、一人寂しく残る秋子のところへ百合子がやってくる。そして、時々遊びに来るといって去ってエンディング。
こうして書くと実にシンプルなのだ。にもかかわらず、再婚しない秋子のことを、間宮ら三人は酒の席で、みんなで支えようと口裏を合わせる下りが実にみずみずしいほどにプラトニックであるし、このあたりに小津安二郎の恋愛への視点が見え隠れもするのがまたおもしろい。
アヤ子を演じた司葉子は確かに美しいが、さすがに原節子、岡田茉莉子と並ぶと影が薄く見えましたね。特に岡田茉莉子はものすごい女優だと納得しました。
作品全体が一つの芸術品として完成されている一本で、晩年の傑作と呼べますね。本当にすばらしい映画でした。、まさに名品。
「非常線の女」
アメリカ映画に傾倒する小津安二郎が描く和製ギャング映画であるが、こんなシーンも撮ってみたい、あんなシーンも撮ってみたいというのがてんこ盛りで、作品全体が非常にテンポの悪いできばえになっている。その結果、やたら間延びしたシーンと構成で、やたら長く感じてしまうのが残念。
解説にかかれているように、衣装や美術、画面の構図などにこだわったセンスの良さは認めるものの、くどいほどに繰り返されるシーンはちょっとつらいものがある。
人が斜めに歩いてくるシーンを俯瞰で上からとらえるところから始まる。人の影が斜めに大きく伸びて写され、まさにフィルムノワールの世界である。
タイプライターを打つ女性たちのシーンをカメラをゆっくりと追っていくと、社長室に一人の女性が呼ばれる。主人公の時子で、社長の息子から大きなルビーの指輪をもらう。明らかに意味ありのプレゼントのシーンであるが、時子はさりげなくいなしてしまうのである。
時子が外にでると、離れたところから二人の与太者風の男が近づき、時子と歩く。どうやら彼らは身内らしい。そしてその二人のうちの一人襄二の愛人が時子なのだ。襄二はボクサー上がりで、店の用心棒的な存在の兄貴分。ここに、与太者をあこがれる宏がやってきて弟分のようになる。宏の姉和子に襄二が惚れてしまったところから時子を絡めた三角関係の話が中盤。
しかし、結局は襄二は時子に帰ってくるが、そこへ宏が姉の会社の金をくすねたので助けてほしいと転がり込む。足を洗う前の最後の仕事にと、時子と襄二は時子の会社の社長のところに強盗にはいって、宏を助ける。二人の道行きのシーンはまさにアメリカンギャング映画である。
そして、二人は宏に金を与えを助け、一時は二人で逃亡する予定が、時子は、いったんつかまって自首して一からやり直すことを提案。最初は渋った襄二だが、時子の気持ちにこたえて二人は捕まる。捕まえた後、エピローグで警官たちの挨拶がこれでもかと描かれるあたりのくどさはちょっといただけない。
ラストに写すガラスコップや瓶、窓から覗く景色など、調度品のショットや構図の美しさは確かにすばらしい。時子が着ている服のデザインとほかの女の服装の対比なども同時代の日本映画のレベルを超えていると思う。ローアングルの演出、影を多用した日本映画離れした演出などもすばらしい。車のバックミラーに写る道路のシーンなども見事である。公開当時に見ていたら、そのレベルの高さを実感できたかもしれない。これもまた、小津安二郎の作品である。