くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「日本の悲劇」「ニーナ ローマの夏休み」「ストロボライト

日本の悲劇

「日本の悲劇」
とにかく息が詰まるほどに重苦しい映画である。緊張感というよりも、心の中に迫ってくる重さを感じさせる。

黒字に白抜きのタイトルが終わると、一軒の家のキッチンにフィックスで固定されたカメラ。室内に誰もいないが、やがて、なにやら物音がして義男とその父不二男が入ってくる。そして二人の会話が延々とワンシーンワンカットで語られていく。画面はモノクロームである。

どうやら不二男は肺ガンで、昨年亡くなった妻良子の命日に、勝手に退院するといってでてきたのである。義男はというと、リストラされて後、未だに仕事が見つからず、父の年金で暮らしている。全く、どうしようもない悲惨な状況で物語が始まる。

すべてのシーンが室内で、しかもカメラを据えた前でのワンシーンワンカットが展開。冒頭のキッチンのシーン、妻の遺骨をおいてある部屋のシーン。そして前半で自ら妻の遺骨のおいてある部屋にこもって中から釘を打って閉じこもってしまった部屋の前の廊下のシーンである。

「自分にできることはこれしかない。自分が死んでもしばらくはこのままに放っておいて、おまえの就職が決まるまで開けるな」といって、部屋に閉じこもる不二男の壮絶な心の叫びがなんとも哀れすぎるのだ。

リストラの後、荒れた夫義男を見限って、子供を連れて気仙沼に帰ったとも子。さりげなく東北に大震災が起こったというシーンが挿入される。

画面に人物が写っていない状況でも、ひたすら足音などの効果音で人の存在を演出していく。閉じこもった不二男は繰り返し、自分の過去の出来事を思い出し、そのシーンが描かれていく。父が閉じこもり、死を覚悟した状況に最後には絶叫する義男。

そして、最後の最後、不二男が思い出した場面は、義男に子供ができて、幸せの絶頂だったとき、とも子がやってきたときのキッチンの場面である。そしてここだけが鮮やかなカラーになる。直後、不二男は死んで、外からの義男の呼びかけに答えなくなる。

ラストは、テーブルの上に父の写真を置き、朝食の後、面接に出かけようとする義男。不二男がいた部屋に外から「いってきます」と声をかける。結局、父のいったとおり、まだ父の死が届けられていないのだと見せて暗転するのである。

ほとんどが、仲代達矢北村一輝の一人芝居に近いほどの一人せりふのシーン、あるいは言葉のないシーンである。その鬼気迫るほどの重苦しさが、フィックスのカメラでしっかりとそして、延々ととらえられる。全く、暗い。ここまで日本のある部分ではどん底の悲劇が展開しているのか。

最後に、どことなく、晴れやかな義男の颯爽とでていく姿だけが救いである。しかし、それも、割り切りと見えなくもない。つらいですね。

作品としてはしっかりと作られ、上質の完成度ですが、個人的な好みの問題で好き嫌いがでる作品だと思います。


「ニーナ ローマの夏休み」
ニーナという一人の女性が、親友が外国に行くために一夏のペットの面倒を引き受ける。舞台は閑散としたローマであるが、ありきたりの名所はいっさいでてこない。ほとんどの画面の構図をシンメトリーな左右対称の位置で配置し、その画面を横切るニーナのショットや、大きくとらえて人物を点のように配置する映像など、実にスタイリッシュに描いていく。

画面の奥にずっと延びていく道路のショットや、ゆっくりとカメラが引いていくと、そこにフレームインしてくる人物の映像などが何度も何度も繰り返される。

屋上で一人バスケットボールをする少年エットレとの出会い。任されたシェパード犬オメロとのどこかコミカルな淡々とした映像。デ・ルーカ教授に教わる習字のシーンもまた不思議なムードを生み出す。

とらえられ、撮影されるそれぞれの景色や画面、ケーキ屋などのカットなど実にモダンで、女性監督ならではの感性が満ちあふれているが、いかんせん、作品全体にリズムに乗ってこない。淡々と繰り返されるカメラワークと、モダンな背景、それが物語として動き出さないのである。

恋人ファブリッツォとの出会いのシーンも、他のシーンとほとんど変わらない尺で描かれるし、エットレとのエピソードからラストの別れまでも、ほとんど大差のない描き方をする。せっかくのハイセンスな町並みのとらえ方のおもしろさが、ただ、それだけで終わるのがとってももったいないのです。

主演を演じたディアーヌ・フレーリもチャーミングでキュートなのに、生きてこないのがもったいないですね。

彼女のおへそのアップで始まるオープニングがなかなかのもので、そこから一気に本編へ入っていく導入部はとってもすてき。でもその後の淡々としたリズムは、さすがに78分のいう短さでも、しんどくなってくる。

長編デビューのエリザ・フクサスという監督の感性は認めてもいいかと思える一本で、もう少し、ストーリーテリングということも考えるともっとおもしろい佳作に仕上がったと思います。


「ストロボライト STROBE LIGHT」
伊丹市が全面協力し、市民が一つになって完成させた商業映画というふれこみであるが、所詮素人映画だったという感想に終わったのは実に残念。確かに、ほとんど無名の人々が集まり、限られた条件で最大限の効果をねらったのはわかるが、一般にお金を取って公開するなら、このクオリティでは話にならない。

厳しいことを書いているようですが、このレベルで、わいわいと騒いで高い評価を与えることは、今後の自主映画のレベル云々になると思うからあえて書いたのです。
素人を徹底的にリハーサルして作った「ももいろそらを」のクオリティの高さを知るからこそこういう書き出しをしたいと思います。

俳優のレベルの低さはある程度許されるが、ただ、ヒロイン役の宮緒舞子という女優が余りにもひどいために、肝心の切ないラブストーリーの部分が全部どっちらけである。プロの女優ならもっとしっかり演技勉強をすべし。この程度で許した片元亮監督の妥協もいかがなものかと思ってしまいます。プロフィールなどを調べてみると、出演者はほとんど大阪芸大出身の舞台俳優のようですが、それもまた、それぞれ個性がぜんぜん発揮されていなくて、どれも同じに見えるというのはどうでしょうね。

さらに、脚本の整理が今一つよくない。ストーリーがごちゃ混ぜになって、結局ラストは夢落ちよろしく、今までの展開はどうでも良くてエンディング。意味ありげな主人公小林の公衆電話のシーンもどうでもよく見えてしまう。

プロファイリングの専門家という学者肌の男、ちょっとベテランながら男くさい刑事、新米よろしく坊ちゃんタイプの刑事とのコンビ、そしていかにも実は真犯人と思わせる主人公小林、そして、へたくそながら、けなげに寄り添う恋人などなど、登場人物の配置はよくある設定ながらちゃんと常道をふんでいる。そして、ストーリー展開も決してつまらないわけではない。しかし、終盤になって、最初からこのラストが誰もが知っていたかのような落ちに流れていって、登場人物に時間の流れが見えてこない。

さらに、いまの若手監督らしく、映画をスクリーンでちゃんと勉強していないために、画面は、大スクリーンで上映することを前提にしたアングルやカメラワーク、構図が取られていないので、テレビのサスペンス映画のようなスケールの小ささなのである。

これらは予算がないとかいう問題ではなく、それぞれのレベルがそれほどでもないのに、周りが持ち上げたために、この程度で満足してしまったためのおごりが生んだ映画になっているのである。

映画は暗い部屋、一人待つ美咲のところに包帯を巻いた主人公で恋人の秀がやってくる。何か意味ありげな恐怖感を緒あおって、物語は8日前になる。

手首を切り落とされた猟奇殺人事件が起こり、担当になった刑事たちが現場に集まるところから始まる。主人公小林秀もその一人である。ところが彼には暗い過去があり、幼いときに両親を殺された上に、姉が自殺したのである。ある日、容疑者を追い詰め、冷凍庫での格闘の末に重傷を負ってしまう。しかし、前後して、彼は時々記憶が飛ぶことがあるのに気がつくのである。

一方で猟奇殺人事件を23年前の秀の両親殺人と絡めて捜査し、一方で秀が時々記憶が飛んで、突然奇妙なところにいかにもな姿で現すので、実は彼が犯人ではないかとストーリーが展開。一方でそんな秀に必死で寄り添う美咲という恋人が、秀の子供時代を田舎に聞きに行くこれ見よがしの展開も挿入され、秀との淡いラブストーリーも描かれるのだが、この女優のへたくそなためにこの部分が余計になってしまうのだ。

そして、やっぱり秀が犯人かと思いきや、実は真犯人はただのこそ泥だったという落ちで終わる。途中まで、意味ありげに登場した殺人教唆を引き起こす男や、やくざっぽい不穏な人物などどこ吹く風。結局は、ミステリーの部分、秀のサイコパスの部分、美咲と秀のラブストーリーの部分が三つ巴にかき回されて、どれもどうでもよくてエンディングというなんともてきとうな大団円で締めくくられる。ある意味、もう少し練りこんで、整理して、そぎ落とすところをそぎ落とせばかなり優れた脚本になったろうにと思うとちょっと残念な映画だった。

いずれにせよ、プロならプロ意識を持って、へたくそな演技はどういうものか、へたくそな映画演出がどういうものかを知る勉強になった一本でした。