「愛妻物語」
新藤兼人監督のデビュー作で、自らの自伝的な物語を脚本にし、映像にした一本である。
さすがに溝口健二監督に師事しただけあって、ゆっくりとパンし、回転するカメラワークや、カメラの位置を想像させるようなゆっくりとした移動、丁寧に繰り返すカットと、無駄のないズーミングは、オーソドックスとはいえすばらしい安定感を見せる。
しかし、このオーソドックスさが、晩年まで、映画らしい本物の映像を作らせる礎になったのだろうと思うと、全く頭が下がる。そして、もちろん、脚本家としても一流であった新藤兼人の力量を見せられる一本でした。
映画は、後に妻となる孝子のアップから始まる。二階で間借りする主人公沼崎は、勉強中の脚本家で、当然孝子の父親は孝子の結婚には反対、しかし、両親の反対を押し切って、追い出されて一人暮らししている沼崎のアパートへ転がり込む孝子。
こうして、沼崎と孝子の苦労物語が本編となる。
人物のアップから、カメラが引いて二人のショット、さらにゆっくり回って次のカット、階段を上ってくる孝子、カメラがゆっくり回転すると二階の沼崎の姿など、どこか溝口健二のカメラワークに似ていなくもないが、一方で、新藤兼人らしいワーキングも繰り返す。
しかし、孝子が血を吐き、物語が転換する後半部分から、アングルは、下から見上げたり俯瞰で見下ろしたり、あるいは、クローズアップによる表情の描写など、微妙に映像演出が変わるあたりの柔軟性は、さすがに見事である。
京都へ行って、初めて坂口監督に、話にならないと突っ返され、一年間の修行の後に、坂口監督のシナリオを任され、それでも、だめ出しの連続の苦労話から、孝子の病床、そして、次第に一人立ちしてくる沼崎の成長と、やがて孝子の死によるラストシーンまで、ほとんど無駄のない映像の見事さは、後の新藤兼人の手腕をにおわせる。
もちろん、この映画もすばらしい一本で、孝子の死後、孝子の歌声を追って一階から二階に上る沼崎の姿を外からカメラが追うエンディングは、まさに溝口流。それでも、情感あふれるラストシーンである。
上質のクオリティの、名作の一本だと呼べると思います。
「GODZILLAゴジラ」
いまさらでもない、邦画「ゴジラ」のアメリカ版リメイク、監督はギャレス・エドワーズというB級映画でデビューした監督で、渡辺謙の役名が芹沢猪四郎とオリジナル版の博士名と監督名を混ぜたオマージュも遊び心満点。
と、少しは期待した作品だが、無駄なスケールアップ、切れのないストーリー、もったいぶりすぎる演出、と結局、オリジナル版の脚本なり、演出、そして、そのエッセンスがいかに優れていたのかということの証明に終わった。
まず、ストーリーとして、ゴジラの相手で登場するムートーなるハヤブサのような奇妙な怪物が、異常なくらいに動物離れしたデザイン。この怪物と同世代の怪物として描かれる古代生物の頂点という紹介のゴジラと、あまりにも極端な造形。ありと言えばありだが、結局、このムートーがやたら、画面を覆うので、明らかに、ゴジラに対する、アメリカ人のライバル意識としてのキャラクターだと見ざるを得ない。
もう一つ、導入部、日本の原発が何かの仕業で大爆発し、それから15年後という設定。後に、この原因は、ムートーだとされ、このムートーを倒すためにゴジラがやってくると言う、日本の昭和ゴジラシリーズのタイトルマッチバージョンを踏襲したストーリーが、また中途半端。
オープニング映像に、ビキニ環礁での水爆実験を、実はゴジラ撲滅のためという過去のアメリカの罪への正当化という導入部も、かなりずるい。
芹沢博士の意味も、どうでもよい。主人公らしい青年将校フォードの話、彼の家族の物語も、結局、さらりと流す。
ムートー等を倒すためにメガトン級の核爆弾をサンフランシスコ沖において、おびき寄せるが、難なくムートーに奪われて、そのまま、人類が危機に陥る陳腐で安易なストーリー構成の弱さ。
ラストは、正義の味方ゴジラが、ムートーを倒し、それまで畏怖におびえていた人々は、余りに素直に、ゴジラを見送るという、適当さ。
確かにCGの迫力で描くクライマックス、全体のほんの終盤だけの派手なシーンは、その見せ方といい、オリジナル版を意識した演出はいただけるが、ここまでがやたらもったいぶって長いので、ラストが実にあっけないし、バトルシーンも物足りないのだ。
おもしろくないとは言わないが、退屈であることは、明らかに脚本の適当さ、弱さに起因すると思える一本だった。やはり、1954年版のオリジナル版は、脚本もすばらしかったが、まだまだ幼稚なミニチュアとはいえ、演出力で見せた円谷英二の見事な特撮演出がすばらしかったと改めて、うなってしまった。