くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「LUCYルーシー」「私は生きていける」「NOノー」

kurawan2014-09-01

「LUCY ルーシー」
リュック・ベッソン監督久々の新作は、SFアクションの名前を借りた「2001年宇宙の旅」だった。
オープニング、いきなり水辺に遊ぶ類人猿のショット。明らかに「人類の夜明け」である。

カットが変わり、脳の研究をするノーマン教授の講義のシーン。それにかぶって、一人の女性ルーシーが、カウボーイハットの奇妙な若者に、トランクをホテルの客のチャンに渡してほしいと依頼し、ルーシーが執拗に断っている。

交互に繰り返すシーンがめまぐるしいCG映像と編集で見せる。物語は実にシンプル。

このルーシーが、トランクで運ばされた中身は、6ヶ月目の胎児が生成する科学物質で、これ人工的に組成したもの。それを韓国人マフィアが集めた人間の腹に埋め込んで、世界へ運ばせるのだが、ルーシーに埋められた薬は、途中で拉致されたときに体の中で破れ広がり、ルーシーは人間離れした力を得る。

しかし24時間しか生きられないと悟ったルーシーは、ノーマン教授にその知識を譲るべく、麻薬捜査官を一人味方つけて教授の研究室に向かう。マフィアのボスがそれをおう。

そして、ルーシーは、密輸されそうになった物質三袋を回収し、自らに注入、100%の脳へのアクセスを可能にして、時をさかのぼり、あらゆる知識を得て、それを自らPCとなり、教授に伝え、消えていく。

クライマックスの惑星のシーンは明らかに「2001年宇宙の旅」のクライマックスである。類人猿に会ったルーシーが、指を合わせて「E・T」のように接するあたり、「2001年・・・」よろしくモノリスと類人猿の出会いである。

人間ドラマや、ストーリーのいきさつを完全に無視し、そのメッセージだけで物語を突っ走る映像は、確かにおもしろいが、非常に作品自体が薄っぺらくなってしまった気がします。やはり、リュックベッソンは「レオン」につきる感じですね。

でも始まってから、ラストシーンまで、全く退屈しなかったし、ストレートにおもしろかったからよかったかな。


「わたしは生きていける」
イギリスのケビンマクドナルド監督の近未来ストーリー。ただ、原作が弱いのか、それぞれの展開やエピソードがどうも幼稚に見えるのが気になって仕方なかった。

ただ、イギリスの監督らしく、美しい田園の風景の描写、細かいカットと緩急をつけた編集は実にうまいリズム感を生み出している。

物語の中のそれぞれの細かい説明は排除し、叙情的に見せていく演出は、核戦争に見回れた世界を舞台にしているとはいえ、あまり悲壮感も暗さも感じられない。

主人公のデイジーアメリカからイギリスのいとこのところに向かうシーンから始まるが、軽快な音楽をバックにしたタイトルシーンご、不思議な感覚をこちらに与えてくる。

いとこの家で、三人の従兄弟に会い、長兄のエディに恋心を抱く。ストイーリーの中心はこのエディとデイジーの青春ラブストーリーなのだが、切なさとか甘酸っぱさが今一つ描き切れていないのが残念。

従兄弟の家についてまもなく、突然の轟音、飛行機の飛び去る音、そして、雪のようにひる注ぐ死の灰のカットから、第三次世界大戦が起こったらしいと展開。

よきな説明を排除したままに、従兄弟とデイジーは男女に分けられいずこかへ移送される。

デイジーが、一緒につれていかれた三女のパイパーと自宅を目指しての逃亡劇がストーリーの中心になり、ありきたりの暴漢との出会いなどが挿入。ただ、慎重なキャラクターとして描かれているデイジーが地図とコンパスをなくしたり、甘い表現が多々ある物語で、原作の弱みなのだろう。

冒頭の死の灰の知識も内政年が今時いるかと思えたり、細かいエピソードがどうも弱い。人の心が読めるかのようなデイジーのつぶやきのシーンの意味も不明のままにラストシーンへ進む。

結局、戻ってきたら、エディが瀕死で帰っていて、彼を手当し、そのうち戦争も終わり、平和な中で新たな生活に向けて進み出してエンディング。

映像は美しいし、アメリカ映画にない品が感じられるSF映画ですが、もう一声、物足りなさを感じる一本でした。


「NO ノー」
チリのピノチェト独裁政権を題材にしたサスペンスドラマで、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート作品である。

ピノチェト政権が国際的に非難され始めた1988年、任期延長の国民投票時の宣伝合戦を、ドキュメンタリータッチの手持ち映像を駆使し手描いた物語で、画面の荒さでリアリティを作り出し、俳優を俳優と思わせないようなカメラアングルで、まるで、実際の人物が演じているかのように思わせる。

YES派、つまりピノチェト政権側の強力な妨害工作が迫る中、わずか15分の宣伝映像を与えられたNO派は、プロの宣伝マン、レネにCM制作を依頼する。

普通に考えれば、ピノチェト政権の独裁映像を全面に出して、訴えかける画面を想像していたが、レネが考えたのは、全くそんな映像を用いず、ただ、楽しいダンスシーンやふざけたほのぼのシーンにかぶせたNOの文字を訴えるものだった。

しかし、そのメッセージは徐々に人々に浸透し始め、焦ったyes派は強硬的な圧力、さらには対抗策として、模倣した映像を取り込んで反撃する。その模様がストーリーの中心になり、NO派が勝利するラストでエンディングを迎える。

ありきたりの感動シーンで終わらせず、あくまで現実の出来事として、処理の後、スケボーで町に抜けていくレネの映像がうまい。

YES派とNO派の宣伝合戦が、ドキュメントタッチが強すぎて、映画としての、のめり込みがしにくい部分もあるが、なかなか個性的な一本で、アカデミー賞ノミネートを納得させる作品でした。

監督はパブロ・ララインという人です。