「陽だまりハウスでマラソンを」
非常に軽い題名である。しかし内容は、もう少し奥が深いし、しっかりしている。確かに、元オリンピック選手が老年となり、もう一度マラソンにでて、完走するという感動物語であるが、その背後に、年老いたことへの問いかけ、老人施設問題、人生を駆け抜けることの意味、家族、親子、様々な何かが潜んでいる。
映画は、オリンピックで次々と偉業を成し遂げる主人公パウルの若き日の姿がモノクロで描かれる。
そして、時が移り、愛する妻マーゴと二人暮らしの日々。しかし、マーゴはガンを宣告されており、時々、転倒するようになっている。
弱ってきた両親に、娘のビルギットは老人施設に入ることを勧める。そしてしぶしぶ入所したパウル達だが、規則的な毎日を送らせようとする施設のやり方に耐えられなくなり、パウルは、ベルリンマラソンにでるといってトレーニングを始める。
当然、施設の反感や一緒に生活する老人達から白い目で見られるが、かつての英雄だと気がついてから空気が変わる。
妻でトレーナーだったマーゴが実に存在感がいい。病魔に冒されながらも、けなげに夫を支える。それも夫を愛するが故という視線がたまらなく愛しいのである。
映画はここまで、非常にいいテンポで進んでいくのだが、パウルが、施設が呼んだ神経科の医師の面談を受け、問題ありとされそうになって、飛び出してから、やや、間延びしてもたつくのが残念。このあたり、監督のメッセージなのだろうが、もう少しうまく処理すべきだった。
テレビにでたパウルが、施設を非難したり、それで、若い療法士の女性がなやんだり、このあたりが、ちょっと、脚本が雑である。結局、このあたりの場面の意味が生かされないままに、再び施設に戻ったパウル。
しかし、トレーニングの間にマーゴが死に、落ち込んだパウルに、マラソンにでることで、希望を与えようとかつて諍いのあった老人が画策してクライマックスへいく。
そして、見事完走し、娘も恋人とうまくいって一年後、孫を抱いて庭に立つパウル伸す型でエンディング。このエピローグもとっても美しいし、人わりと何かを考えさせてくれる。
とにかく残念なのが、中盤のエピソード。何か意図があるのだろうが、映画として、前半のテンポで走り抜けてほしかった。でもいい映画だった。
「ロスト・フロア」
スパニッシュ・スリラーというキャッチフレーズに引き込まれて見に行ったのだが、あれ?ただの誘拐映画やん?という足下をすくわれた落ちに、ちょっとあきれてしまった一本。
しかも、上質なというのとはちょっと違う、荒っぽい脚本で、面白くなりそうだと引き込まれたのは冒頭の四分の一くらいで、あとは、平凡な展開になってしまった。
ニュースのナレーションが流れ、町を見下ろすカットでタイトル。映画は主人公セバスチャンが自宅マンションのエレベーターに乗ると、怪しげな髭面の男と乗り合わせたりと、いかにもなオープニングである。
家に帰ると、別居している妻が待っている。妻は二人の子供達を引き取りたい意向。簡単な会話の後、妻は仕事ででかけ、セバスチャンは子供達を学校に送るべく連れだそうとする。
セバスチャンがエレベーターで、二人の子供達は階段で降りる競争をするのが常で、この日も7階から1階に降りる競争をする。
ところが、1階にセバスチャンが着いても、子供達が降りてこない。管理人などに聞いても見ていないという。こうして本編が始まる。時折螺旋階段を見下ろしたり見上げたりするカットがミステリアス。
三階にすんでいる警視に助けてもらい、探すが見つからない。妻が戻ってきて探し始めるが、そこに犯人から誘拐したという連絡。ここで、どっと疲れてしまう。なんだ、ただの誘拐劇か。しかも、金の受け渡しは屋上で、ブロックの上に置いたのを、自転車に乗った男が持っていくだけ。金の用意も、上司らしい男に、ふんだくる。もう、適当すぎる。
さらに、すべてが終わったあと、実は人身事故を起し、金のいる警視が、セバスチャンの妻が立てた計画に乗って手伝ったことがわかる。ああやっぱりという話だ。
妻は、二人の子供を連れ帰りたかったということで、まんまとセバスチャンに書類にサインさせ、空港に行くが、真相がわかったセバスチャンが後を追って、取り戻してエンディング。なんなの?という感じの映画だった。
「時計じかけのオレンジ」
まったく、スタンリー・キューブリックという人は恐ろしい才能だと改めて驚嘆してしまった。
もちろん、一点通しを徹底した構図、奥から手前に延々と移動するカメラ、サイケデリックなほどの色彩演出、シャープで冷たさを感じさせるような画面づくりなどなど、彼の個性を書き出したらきりがないが、それ以上に、オープニングからエンドクレジットまで、磨き抜かれたリズム感が貫かれている。
その完成度は、凡人では生み出せない、いわゆる天才肌の才能と呼ぶしかない。全く、何度もいうが恐ろしい。しかし、その個性故に、のめり込み、はまりこんでしまう魅力が作品全体からあふれでてくるのだ。
今回、ほぼ40年ぶりくらいに見直したが、そのストーリーの細部やエピソードの些細な部分は忘れているところがたくさんあるし、勘違いしていたところもある。それほどに映像作品として並外れた出来映えなのである。
これはもう、映像芸術と呼ぶしかない。そして、何度見ても、何か発見をし、何かに驚き、そしてまた見たくなるのである。
今更ストーリーを語る必要がない。どういう経緯で主人公アレックスがルドヴィゴ療法を受けることになったかは、完全に間違っていたし、元の状態に治療される経緯も勘違いしていたが、この作品がブラックコメディの傑作だったという点を再認識した。
演技に対する演出も含め、すべてが、笑い飛ばしている怖さがあるのだ。冷たい視線が画面全体にみなぎっている。全く、寒気がする映画だった。