くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「人間模様」「ジプシーのとき」

kurawan2016-02-04

「人間模様」
市川崑監督初期の作品。90分足らずの映画ですが、やたら長く感じるのは、それぞれの登場人物のエピソードが、どこに向かうというわけでもなく繰り返し語られるからだろう。

物語は、ある留置所で引き取り手を待つデパートの若き社長小松原、その秘書吟子。そこへやってくるのは、この作品の中心人物、女学校の校長をしている母がいる男絹彦。何気ない導入部から、余計な説明を排除して、それぞれの人物の人生の一瞬を描いていく。

絹彦を慕う従兄弟の砂丘子。恋とかそういうものに全く無頓着で人のいい絹彦は、秘書をクビになった吟子を気遣うが、そんな絹彦が疎ましい砂丘子。そのあてつけに小松原のところに秘書になろうと行く砂丘子だが、断られ、木下という胡散臭い会社の秘書になる。

吟子が盲腸だと聞けば徹夜で看病する絹彦。さらにその手術費用まで工面してやる絹彦に、自暴自棄になる砂丘子。いつの間にか絹彦に惹かれる吟子だが、絹彦にその気のないのを知り、小松原と結婚。一方木下という男は闇ブローカーで、砂丘子と体を交えた日に警察に踏み込まれ、自殺する。それぞれの様々な人間模様を、市川崑らしい乾いたタッチで描いていくのですが、くりかえすエピソードがややくどい。

斜めの構図や、ハイテンポの細かいカットの挿入など、のちの市川崑の映像を匂わせるカットもたくさん登場するが、いかんせん、今一歩完成に至っていないので、技巧的に見えてしまう。

初期の作品のレア度を味わうのに十分な一本だったかという感じの映画でした。


「ジプシーのとき」
映画としては素晴らしい。とにかく画面が美しいし、幻想的な演出をちりばめた映像に心が奪われる。そして、その映像をさらに盛り上げるために流れるジプシーの素朴な音楽や歌声が、別世界に私たちを誘ってくれます。監督はエミール・クストリッツァ、1989年作品です。

ユーゴのとあるジプシーの村、祖母から不思議な力を授けられた青年ベルハンは、村の女性に恋をし、愛する妹や大好きな祖母と暮らしている。雌鶏やガチョウなどを画面に効果的に配置し、ランプや電球の黄色や赤が色なす素朴な村の景色、羽衣のように舞う薄布の幻想的な映像や、サーカスのようなファンタジックな画面で見せる演奏やダンスのシーンがとにかく美しい。

ある日、足の悪い妹の足を直してやるからとジプシーのアーメドがベルハンの妹を連れにやってくる。妹についてベルハンもアーメドとともに都会へ行くが、実はアーメドは妹を売り、金にしようとしていたのだ。しかもこの男の仕事は、子供を買い、物乞いや売春、窃盗をさせたりして生活をしている悪人だった。

なんとか協力を拒否するも、ベルハンはいつの間にか悪の世界に染まっていく。しかも、アーメドが高血圧で倒れた時に、親身に助けたためにアーメドに代わって、子供達を働かせるボスになる。そして大金を稼ぎながら、一時有頂天になるのだが、アーメドの指図で新たな子供の調達を任されてひとり出かけた時、故郷に立ち寄り、何もかも騙されていたことを知る。

愛する恋人は妊娠していて、ベルハンが父親だと言われるが、叔父に犯されたのだからと信じない。すっかり人が変わった孫を悲しむ祖母だが、ベルハンの本当の姿を知り信じる。

アーメドを責めるもとぼけられ、ある日警察の立ち入りに会う。それを機会にアーメドたちは何もかも自分のものにして、ベルハンらを捨てて逃げてしまうのだ。

ベルハンは恋人と結婚するが、彼女は子供を産んで死んでしまう。ウェディングドレスが夜の闇に生き物のように飛び回り、ベルハンらを誘う画面が幻想的である。

そして、時が経つ。妹を探しにローマに出かけ、そこで、アーメドに再会、そして息子は四歳になっていた。

妹を助けだし、息子を伴いアーメドの元を脱出、妹たちを汽車に乗せて、自分はアーメドに復讐するために戻る。この日はアーメドの結婚式であった。

その席で、ベルハンは例の不思議な力でフォークをアーメドに突き立て殺すが、逃げる途中、撃たれてしまう。

ベルハンの葬儀の場、死体の目の上に置いた金貨を盗む息子、それを追いかける神父、外、ダンボール箱をかぶった息子が逃げ、神父が追いかける。雨が降ってきてエンディング。不思議なラストで、何もかもがファンタジーだったのではないかとさえ思われるのです。

映像詩という感じの叙情詩で、物語はベルハンの半生のお話ですが、幻想的な映像の数々と、美しいカットの連続、物悲しい音楽の調べは、本当に別世界に誘ってくれます。とってもいい映画ですが、やはり二時間半ほどあるのはちょっと長いですね。