「巴里祭」(4Kデジタルリマスター版)
ルネ・クレール監督の代表作の一本をほぼ40年ぶりに見直しました。たしかにフランス映画らしいコミカルな展開は独特の世界で洒落ていますが、さすがに物語だけ見れば、ちょっと古き良き時代という感じです。ただ、画面の構図の活かし方や、ほのぼのした楽曲の使い方などはさすがです。
花売り娘のアンナとタクシー運転手のジャン、時は巴里祭前夜、二人はさりげなく惹かれ翌日のダンスの約束をする。ところがその夜、ジャンのタチの悪い元カノが戻ってくる。さらにアンナの母親の容態が悪くなる。
アンナがダンスを断るためにジャンの部屋に行き、そこに元カノを発見、そのまま二人に溝ができてしまう。やがてジャンは元カノとそのアパートを出、時が経つ。
ジャンはタチの悪い連中と付き合い始め、強盗をするためにアンナが勤めるカフェにやってくる。そこで二人は再会するが、ふとしたことでまた別れ別れに。
アンナはカフェをクビになり、もう一度花売りになろうとやってくる。そこに冒頭で登場するアンナにご執心の酔っ払いの金持ちの老人と再会。大金を貰い、その金で花売り車を買い商売を始める。そこに車がツッコミ、その運転手がジャンで、二人はキスをして映画は終わる。
冒頭に出てくる酔っ払いの老人がチャップリンを思わせる演出が施されている。何度か登場するジュークボックスが物語にスパイスになったり、小道具などを巧みに使ったユーモアはさすがに光っています。名作という言葉が当てはまりますが、ちょっと時代を感じさせる映画でした。
「よこがお」
なんとも鬱陶しい映画だった。どこかシュールでオブラートに包むような描写を織り交ぜながら行間を描いていく演出はなかなかのものですが話が暗いです。監督は深田晃司。
市子が美容院で髪を染めてもらっている。指名して出てきた美容師米田とやがて親しくなる。市子は訪問介護師で、この日も訪問先で介護をしている。その家の長女基子も介護士になるということでその妹のサキと一緒に勉強を見てやっていた。
いつものように喫茶店で勉強を見ている市子の前にいとこの辰男がやってきて、借りている本を返し旅行へ出かける。その場に基子もサキもいた。ところが、サキがその日から行方不明になる。数日後、帰ってきたが、犯人は辰男だった。
市子は、犯人の親戚ということで、基子の母らに話そうとするが、基子はやめるようにいう。基子はいつのまにか市子に親しみ以上の感情を持っていた。一方市子は婚約者がいた。
やがて何者かの通報で市子が犯人の親戚であることがマスコミにバレ、訪問先も出入り禁止になり間も無くして職も失う。情報を流したのは基子で、市子が結婚することへの嫉妬と復讐のようであった。
次第に追い詰められる市子は、米田と体を交え、その写真を米田の恋人に送る。その恋人こそ基子だった。市子は復讐のつもりだったが、すでに米田と基子の関係は終わっていたのを知る。
市子は何もかも失い、出所してきた辰男を迎え、引き取る。基子らは引っ越してしまい行方は分からなくなるが、ある時、交差点で看護師姿の基子を見かける。
そのまま市子は車で走り去り映画は終わるが、なんとも心理劇的な部分も垣間見られ、とにかく暗い展開に終始する。市子自体もどこか妙な空気を持っているところもあり、一概にマスコミの被害者とも見えない。映画のクオリティは低くないが、なんともやるせない映画だった。
「風をつかまえた少年」
それほど期待していなかったが、思いの外良かった。まずカメラがいい。アフリカの風景を大きく捉え、自然に左右されている様を叙述に描いていく。それと物語の展開も適度にドラマティックで、細かいエピソードをしっかり捉えていくので、主人公の家族やその村が追い詰められていく様が見事に描かれている。監督はキウェテル・イジョフォー。
アフリカのマウアイの村、今年は干ばつで作物が育たず、止むを得ず木々を売却したりしているが、それがさらに土地を枯れたものにしていた。雨を降らすにも昔からの祈り任せの日々。主人公ウィリアムは中学に進学したものの、後期の授業料が払えず退学の危機に陥る。
政府からの視察も選挙目当てで、政策を非難した村の族長は政府関係者に袋叩きにされる始末。そんな状況で、みるみる作物が減っていき、次々と人が死んだり離村していく。たまたま担任教師の自転車の発電機を目にしたウィリアムは、書物から風力発電を思いつく。そして電気のポンプで水を組み上げれば年中作物が育てられると考えた。
そして、先生の発電機を手に入れ、父親の自転車をなんとか手に入れたウィリアムは家族の手伝いもありとうとう風車による発電機を完成させる。
実話を基にしているが、物語の展開も映画的で面白いし、風景を捉えるカメラも美しい。次第に飢餓が迫ってくる緊張感もうまく描写されているし、最後まで飽きずに見ることができた。食べ物の大切さもひしひしと感じる映画でした。