「ロケットマン」
「ボヘミアン・ラプソディ」よりも格段に映画として楽しかった。ミュージカル仕立てというのもあるけれど、テクニカルな特殊映像を駆使して描くエルトン・ジョンの半生はとにかく音楽に彩られ破天荒ながら賑やか、そんな空気感が出ていたと思います。監督はデクスター・フレッチャー。
一人の派手な衣装の男エルトン・ジョンが依存症の矯正施設にやってきて、ミーティングに参加するところから映画は幕を開ける。そして、彼の子供時代へ。
イギリスの郊外で育つ幼いレジーはその天才的な才能をピアノで見せるところから物語は始まる。やがて、みるみるその才能は開花し、一気にアメリカでスターへの道を上り詰める。ところが一方で幼い頃からの孤独感で酒とドラッグに浸り、信じる友は次々と去っていく中で、次第に壊れていく。
しかし、最初から作詞家として彼と共にいたバーニーが最後に施設のエルトンを訪ね、この歌詞に曲をつけてくれと言って、エルトンがピアノに向かって映画は終わる。
全編にミュージカル調のシーンも散りばめ、時に特殊撮影のような画面を組み合わせた絵作りが楽しい作品で、派手ないでたちのエルトン・ジョンそのものが映像になっている感じが面白い。
エンドクレジットで、今のエルトン・ジョンが語られて映画は終わりますが、映画として楽しかった。
「ドッグマン」
シュールな展開とエンディングから見て、主人公マルチェロの心の風景の映画なのではないかと思います。完全な不条理劇で、なぜという説明がどこにもないからです。妻と娘が去って孤独になったマルチェロは、自分をこき使う乱暴者のシモーネに隷属している。町の人々は彼を殺そうとしている。それはマルチェロの本心なのではというのが私の解釈でした。監督はマッテオ・ガローネ。
海辺の寂れた街で犬のトリートメントサロンを経営するマルチェロ。娘と妻は彼の元を去り、たまに娘に会っている。マルチェロにはシモーネという男が付きまとい、何かにつけてマルチェロにドラッグをせがんだりする。
短気で乱暴者のシモーネは町の嫌われ者だが、警察に突き出すことを誰も躊躇している。ある時、マルチェロはシモーネからマルチェロの隣の店に泥棒に入ろうと言われ、マルチェロは断るが、シモーネはマルチェロの店の壁を破り隣に押し入る。ここが明らかに辻褄が合わないところから、マルチェロの心象風景なのではと思うのです。
そして、マルチェロはなぜかシモーネをかばい、刑務所に行く。そして一年後、戻ってみれば全てを失っていて、マルチェロの友達もいない。シモーネは相変わらず暴力的に絡んでくる。マルチェロはシモーネに純度の高いドラッグを餌に自分のサロンの犬小屋にまんまと閉じ込める。しかし、力づくで出てきたシモーネを殺す。
マルチェロは死体を焼こうとするが、かつてのサッカー仲間に自分がみんなの思いを遂げてシモーネを殺したことを見せようと死体を持ってくるが、誰もいない。映画は町の中央で一人になっているマルチェロのカットでエンディング。つまり、彼は孤独という呪縛に縛られていたのだ。シモーネはかれの暴力的な部分の具現化ではないかと思う。
どうにもイライラする映画でしたが、そういう解釈をするとなんか納得できる気がします。
「ディリリとパリの時間旅行」
オリジナリティあふれるアニメ画面も楽しいのですが、ストーリーが単純に面白いのです。サスペンスというには大げさですが、心ならずハラハラドキドキが楽しい映画でした。監督はミッシェル・オスロ。
ニューカレドニアからやってきたディリリは聡明な少女。彼女はパリでオレルという青年と友達になる。折しもパリでは少女たちが誘拐される事件が相次いでいて、ディリリも狙われたこともあり、ディリリはオレルと一緒にその謎に迫っていく。
19世紀末から20世紀初頭のベル・エポックのパリを舞台にして、当時の画家や科学者、歌手などなどの実在の人々をちりばめながら、人々の協力で、誘拐された女性、少女たちを助け出す。
悪人たちがいかにも非現実的なキャラクターで、女たちを四つん這いにして自分たちの椅子などにして蔑んでいるところなど、逆に微笑ましい。そして、こんな悪人たちから助け出す手段に、ツェッペリン伯爵の飛行船を使うという荒唐無稽な脱出作戦も面白い。
絵作りは平坦ですが、ヨーロッパらしい色彩配色が美しく、モダンなテンポとレトロな色合いが見事にマッチした秀作でした。素直に面白かったです。