くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「すべてが変わった日」「キネマの神様」

「すべてが変わった日」

丁寧に作られた映画なのですが、善と悪の描き方が今ひとつわかりづらくて、果たして本当に主人公たちは正義を貫いたのか分かりかねる部分があり、ストレートに物語を受け取れなかった。でもダイアン・レインはやはりいくつになっても永遠のマドンナだし、ケヴィン・コスナーはいくつになってもかっこいい。監督はトーマス・べズーチャ。

 

元保安官のジョージと妻のマーガレットが、息子ジェームズとその妻ローナ、孫のジミーと平和に暮らしている場面から映画は幕を開ける。しかし、ローナとマーガレットはよくある嫁と姑的なギクシャク感がある。孫を溺愛するマーガレットは、ジミーを我が子のように可愛がっていた。

 

ある日、ジェームズが乗っていた馬が単独で戻ってきたのを見たマーガレットは、夫ジョージをよぶ。慌ててジョージが外へ行くとジェームズは落馬して息絶えていた。そして数年後、ローナはドニーという青年と再婚する。近くに住んでいるものの寂しいマーガレットは、ある日街でドニー夫婦を見かける。ところがドニーはローナやジミーに暴力を振るっていた。心配になったマーガレットが、お菓子を届けにローナの家に行ってみると、引っ越した後だった。

 

ローナは、黙って出て行ったローナたちのことが気がかりで、家財道具を車に積んで探しにいくことにする。ジョージも妻の気持ちに応えるように同行する。ところが、いく先々で、ドニーの親戚たちウィーボーイ家に不信が募っていく。途中で出会った先住民のピーター青年に出会うが、彼もウィーボーイ家には気をつけるようにいうし、かつて勤めていた保安官詰所でも同様のことを聞く。

 

ようやく、ウィーボーイ家に辿り着き、ローナと再会するが、ウィーボーイ家の当主ブランチは少し横暴な女だった。街で働くローナを見つけたマーガレットは、ローナとジミーを助け出したいからとジョージと泊まっているモーテルに来るようにいうが、なんと来たのはブランチとその息子たちだった。そして、銃で脅したジョージを返り討ちにし斧で手に怪我を負わせて立ち去る。

 

マーガレットはジョージの治療が済んでからピーターの元を訪れるが、夜中、ジョージは単身ローナを助けるためにブランチの家に向かう。そして身を呈してローナとジミーを逃すが。ジョージは撃たれて死んでしまう。その撃ち合いに中でブランチらも全員死んでしまう。駆けつけたマーガレットとピーターはローナとジミーを助け出す。マーガレットはローナとジミーを車に乗せ、ピーターと別れて走り去って行って映画は終わる。終盤はかなり雑な展開になります。

 

果たしてブランチはそんなに悪人なのか、マーガレットのジミーへの思いとジェームズへの追慕による過剰な反応なのかが曖昧に見えてしまう。原作があるので描いている通りでいいのだろうが、もうちょっとメリハリの効いた描写を入れた方が作品がしまった気がします。いい作品なのですが今一歩秀作に届かずという感じに仕上がりでした。

 

「キネマに神様」

監督は山田洋次。ということで、現役監督としてはトップクラスの監督なので期待が大きかったけれど、残念ながら、結集したスタッフも役者も志村けんの亡霊に取り憑かれてしまって、なんとも残念な作品に仕上げてしまった感じです。映画に対する夢を描いた原作のはずなのに、何を間違えたか全部説明していく展開は明らかに脚本が崩れてしまっています。50年前の登場人物と現代の人物が同じに見えない。さらに毒の抜けてしまった菅田将暉の演技が映画を引っ張っていかない。永野芽郁がそれでも抜きん出て光ってるのは救いです。さらに、終盤になんでコロナを無理やり出すのか。志村けんの死に取り憑かれたとしか思えません。原作をもっと練り込んで映画として仕上げようと思わなかったのか。それがとにかく残念。山田洋次監督は出来不出来にムラのある人なのですが、これはその中で不出来の部類に入る仕上がりだった気がします。

 

映画雑誌の編集室で働く歩のところに父ゴウの借金の取り立ての電話が入るところから映画は始まる。博打と酒に溺れるどうしようもない歩の父ゴウは、この日もとぼけて妻の淑子や歩に適当なことを言って誤魔化す。そんな父を許せない歩は、何かにつけ父を許してしまう母淑子を咎める。ゴウは孫の勇太とは何某か親しい。勇太は祖父のゴウには何かの才能があると信じていた。

 

歩らに追い出され、親友のテラシンが経営する映画館で時間を潰すゴウのところに妻淑子がやってくる。淑子はこの映画館で掃除婦として働いていた。

 

時は50年前に遡る。撮影所で助監督をする若き日のゴウは、師匠でもある出水宏(明らかに清水宏のイメージ)の撮影現場で頑張っていた。ヒロインの桂園子と親しく接するゴウはスタジオでも信頼され人気もあった。映写室のテラシンとゴウは親友同士で何かにつけ話をするが、テラシンには将来映画館を持つ夢があった。

 

ある時、ゴウがよく頼む食堂の出前をテラシンの部屋に届けさせた際、食堂の淑子とテラシンが出会う。テラシンは淑子に一目惚れしてしまい恋に落ちる。そんなテラシンにゴウはラブレターを書いてみたらと進めるが淑子はゴウのことが好きだった。

 

監督になり夢をもつゴウは自分でもシナリオを書いていた。題名は「キネマの神様」と言って、ラブストーリーとファンタジーを絡めた作品でテラシンも園子らも大絶賛する。テラシンの淑子への告白は失敗し、淑子はゴウに本心を打ち明ける。そんな頃、ゴウは監督昇進が決まり「キネマの神様」の撮影クランクインとなる。しかし、緊張とこだわりに苦しむゴウは初日に大怪我をしそのまま撮影所を辞めることになって映画は作られないままとなった。田舎に帰るゴウを追って淑子が向かう。

 

現代、歩や妻淑子に追い出されるように家を出たゴウが家に帰ってみると、孫の勇太が、ゴウが若い頃書いた台本をパソコンに打つと言い出す。木戸賞に応募しようというのだ。ゴウは才能を認めてくれた勇太の気持ちが嬉しくてその提案に賛成。ところがなんと木戸賞の大賞を獲得する。しかし、お祝いで酔い潰れたゴウは、発作で入院、授賞式には勇太らが代理で参加する。

 

ゴウは、テラシンの映画館で、小田監督(明らかに小津安二郎)の「東京の物語」をやるというので車椅子で連れて行ってもらう。時は2020年、コロナの猛威で映画館も危機に陥っていた。この辺りが無理矢理挿入された部分だろうが、ここで言葉で映画の窮状を伝える場面を挿入した稚拙な脚本にげんなりしてしまった。

 

映画を見るゴウだが、いつの間にかスクリーンの中の桂園子がスクリーンを飛び出しゴウのところへやってくる。それはゴウの脚本そのままだった。そして、園子はゴウをスクリーンの中へ誘う。映画館のゴウは意識を失ってしまう。おそらく死んだのだろう。場面が変わり、小田監督の元でカチンコを構えるゴウがいた。こうして映画は終わる。

 

結局、志村けんの亡霊に取り憑かれたスタッフたちが自己満足のために作った作品のレベルになってしまったのが実に残念。沢田研二に急遽入ってもらって仕上げようと意気込んだのなら、なぜ、最高の映画作品を作ろうとしなかったのか。山田洋次もやきが回ったのかと思わざるを得ない映画だった。