くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「母へ捧げる僕たちのアリア」「神々の山嶺」「わたしは最悪。」

「母へ捧げる僕たちのアリア」

意外なほどに良い映画でした。オペラの曲だけでなく散りばめられる音楽のリズムが映画にテンポを生み出しているし、さりげなく温かい兄弟愛が滲み出て来る展開も胸に迫って来る。それでいて、難民だろうか、それとなく描かれる貧富の問題なども語られ、映画を奥深いものにしている。しかも脚本がいいのか、登場人物の紹介などが実に上手い。良質の映画でした。監督はヨアン・マンカ。

 

一人の少女が浜で砂遊びをしていて、そこへサッカーボールが転がってきてキック、カットが変わり浜辺でサッカーをする男たち、それを見る少年ヌールは隣の少女にサッカーをしている自分の兄弟のことを話している。このオープニングが実に上手い。古ぼけた公営団地で暮らすヌールには三人の兄がいる。サッカー好きでやや荒っぽいアベル、男娼のような仕事をしているムー、怪しい仕事をしながらいつもアベルと喧嘩をするエディ、そして寝たきりの母がいた。ヌールは、母にオペラの曲を聞かせるのが日課だった。それは、かつて父が母にプロポーズした時の曲だったが、ヌールもまたオペラが大好きだった。

 

公共の奉仕活動に定期的に参加しているヌールは、ある時、仕事先の中学校で、サラという女性が歌のレッスンをしている現場に遭遇する。しかも、それは大好きなオペラの教室で、サラは有名なオペラ歌手だった。盗み見るようにしていたヌールはサラに誘われて教室に顔を出すようになるが、兄の目や、奉仕活動でなかなか思うように練習できない。それでも、何か才能を感じたサラは熱心にヌールを誘う。

 

エディは何かにつけて家を飛び出したいとアベルと喧嘩をし、その仲裁はムーがしていた。喧嘩ばかりしているようで実は兄弟の絆はしっかりしていて、自宅で家族と暮らしたいという母の最後に願いを叶えるべく兄妹は奔走していたのだ。しかし、事業で成功した伯父が何かにつけて母を入院させようと画策、とうとう強制的に病院へいれてしまう。しかし、知人からの連絡でアベルらは母を自宅に連れ帰ったりする。

 

警察に目をつけられているエディはヌールと夜道歩いている時に、パトカーを破壊し逮捕される。ヌールはその場を逃げたが、アベルの言われていたピザ屋で働くことになってしまう。レッスンに来ないヌールを心配してサラがヌールの家に初めてやって来る。しかしそこに警察が踏み込み、横暴な態度でヌールらに迫る姿につい反抗しサラも逮捕されてしまう。

 

釈放されたサラをアベルが迎えに来る。サラはアベルに、ヌールに渡して欲しいと一通の手紙を手渡す。間も無くして母は息を引き取る。葬儀の場で、オペラを流した後四人の兄弟は自宅に戻り、アパートの住人たちと別れのパーティをする。その時、アベルはヌールにサラに預かった手紙を渡す。それは、サラの舞台への招待状ともしかしたら、ヌールを引き取ってオペラ歌手として育てるという文面だったのかもしれない。

 

アベルに送られてサラの公演場所に行ったヌールは、サラの舞台に感動、迎えにきたアベルの車でその場を去る。浜辺、オープニング同様にサッカーをする姿をヌールが見ている。そして、夏休みが終わり、人々も減り、僕は明日旅立つ、と呟いてカメラ目線になってエンディング。

 

不思議なほど引き込まれる映画で、具体的な展開はほとんど水面下で描かれるのですが、画面から想像する何者かが半端なく大きく広い。埋葬の帰り、四人の兄弟を背後から捉える画面も何か語りかけるし、アベルがサラに、自分達の両親がかつて着いた港だとさりげなく語るセリフにも彼らのこれまでが見えてくる。兄弟それぞれが固い絆で結ばれ、必死で生きている姿が終盤にいくに従って滲み出て来る演出も見事。良い映画でした。とにかく良い映画だった。

 

「神々に山嶺」

実写では作れない映像をアニメで再現したという話題の作品でしたが、意外なほどに普通のアニメだった。確かに山岳シーンは気を抜けないほどの素晴らしいし緊張感に溢れているけれど、街中の場面が並のアニメなので全体が普通に見えてしまった。クオリティは高いけれど、ずば抜けた仕上がりとまでいかない感じです。監督はパトリック・インバート。

 

風景写真家の深町は、海外の現場で登山家を撮影している場面から映画は幕を開ける。仕事を終えてバーで飲んでいたが、そこへマロリーのカメラを売りつけに来る男と出会う。マロリーは、エベレスト初登頂に成功したと言われているが、消息不明のままゆえ、1953年に別の登山家の記録が最初とされていた。もしマロリーのカメラにその証拠があれば歴史的な事件だった。カメラを売りにきた男は胡散臭いので退けたが、店を出たところで、その男が路地で一人の男に脅されている現場を見る。なんと脅している男は数年前に行方不明になった伝説の登山家羽生だった。

 

深町はマロリーのカメラの件もあって羽生の行方を探し始める。羽生はかつて達成できなかったエベレスト南西壁無酸素単独登頂を計画していることを知り、羽生の居場所を突き止め同行することを承諾させる。そして、二人は山頂を目指すが、あくまで単独登頂なので羽生は深町に構わないと念押しをする。しかし嵐に遭遇、命の危機に瀕した深町は羽生に助けられ、その場で頂上を目指す羽生とベースキャンプに戻る深町の二人は別れることになる。

 

深町は予定より遅れた羽生をひたすら待つがとうとう諦め下山し始めるが、羽生のサポーターから、マロリーのカメラを深町は託される。しかし、結局マロリーは頂上に辿り着いたのかは不明、羽生も頂上についたのかは推測のまま映画は終わる。

 

登山シーンが見せ場だというが、実写で描こうと思えば描けると思えるシーンなので、アニメ作品としては普通だったかなという印象でした。

 

 

「わたしは最悪。」

面白い作品なのですが、監督の根底にある感性が下品なのか映画全体が濁って見えてしまう。さらに主人公ユリアの笑顔さえも爽やかさがなく、観客の気持ちを逆撫でするような画面で、まさに題名通り最悪な感覚に陥ってしまう。アニメとの合成や主人公以外をストップさせてしまうテクニカルな映像作りは面白い。でも、それもテクニックでしかないのが残念。映画自体のクオリティは決して低くないのですが、センスの問題でしょうか。監督はヨアキム・トリアー

 

主人公ユリアのドレスシーンから、物語は遡って、彼女が学生時代から医学の道に進み、肉体より心に興味を持ったという過去が描かれる。そして、序章、終章と12章から物語はなっているとテロップの後本編へ。

 

若きユリアは本屋に勤めていたが、コミック作家のアクセルと知り合い恋に落ちる。しかし、アクセルの家族のところに行った際、何かにつけて子供を作って欲しいという気持ちが伝わってきて、ユリアは引いてしまう。それでも愛し合う二人の生活は順風満帆だった。あるパーティでユリアは一人の男性と知り合い、成り行きで浮気をしてしまう。彼の名前はアイヴィンと言った。アイヴィンの妻は宗教や社会問題にはまり込んでしまい二人の関係は冷めていた。そんな時アイヴィンはユリアに出会ったのだ。二人は一時の恋で別れたのだが、後日、たまたま本屋にやってきたアイヴィンと再会、ユリアの心が燃え上がってしまう。しかし、アイヴィンには寄り添う女性がいた。しかし、ユリアのことを愛し始めていたアイヴィンはデートの約束をする。

 

朝、いつものように目覚めたユリアの前にコーヒーを入れるアクセルがいたが、ユリアが電気のスイッチを入れると周りの時間が止まる。ユリアはそのままアイヴィンとの約束の場所に行き、ひとときを過ごし戻って来る。そしてユリアはアクセルに別れようと話す。

 

ユリアはアクセルと別れ、アイヴィンと暮らし始める。何事もなく幸せな日々かと思われたが、ユリアは妊娠してしまう。アイヴィンは子供を欲しがっていなかったので、戸惑ってしまう。そんな頃、アクセルが膵臓癌で入院していて、余命わずかであることを知る。ユリアはアクセルの病室に行き過去の思い出を語る。程なくアクセルの容態が悪化してしまう。

 

アイヴィンと別れたユリアだが、シャワーを浴びていて、血が流れる。流産したということかと思われるシーンである。カットが変わり、カメラマンの仕事をするユリアは、この日女優の写真を撮っていた。撮影が終わり帰っていくその女優を窓から見ていたユリアはその女優がアイヴィンから赤ん坊を受け取る場面を見てしまう。こうして映画は終わっていく。

 

映画自体は面白い作品ですが、いく先々で最悪の状況になる主人公の人生には共感しづらいし、そもそもこのユリアという人物に感情移入しにくい憎々しさがあるのはなぜだろうか。しかも、監督の感性なのか、何かと下ネタらしいエピソードが散りばめられていて、これが韓国映画ならストレートなのだがそこはヨーロッパ映画ゆえに抑えられているのは救いである。いずれにせよあまり好きな映画ではなかった。