くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「レナードの朝」「Sin Clock」「カラヴァッジオ」

レナードの朝

オリバー・サックス医師の実体験に基づく作品で、いわゆる難病と戦った医師と患者のヒューマンドラマですが、その奥にある生きると言う意味を考えさせられる映画でした。公開当時見逃していた一本で、この手のドラマは苦手なのですが、正直、やはり自分には苦手分野の映画でした。でもいい映画ですね。監督はペニー・マーシャル

 

子供達が遊んでいる。一人の少年レナードが河岸のベンチに自分の名を刻むが手が微妙に痺れている。学校のテストで突然文字が書けなくなりそのまま自宅で療養するようになる。それから三十年経つ。一人の医師セイヤーは仕事を探して精神科の長期療養病院にやって来る。研究一筋で臨床医として働いたことがなかったが、院長は彼を迎え入れる。しかしセイヤーは、どう対処していいか戸惑うばかりだった。

 

ある日、ルーシーというアルツハイマーの患者が彼の元にやって来る。ふとしたことで彼女がメガネを手に持ち直すのをみたセイヤーは、ボールを投げると反射的に受けることを発見する。似ている他の患者のカルテを調べたところ30年以上前に流行した脳症の記録ににていることに気がつく。さっそく似た症状の患者全てにボールを投げてみたり、特定の音楽を聴かせて反応を見たろし始めり。熱心な彼の姿に看護婦のエレノアは一緒に手伝いようになる。

 

他の医師も次第にセイヤーに協力するようになり、病院内の景色が変わり始める。そんな頃、ある製薬会社が開発したパーキンソン病の薬が脳症に効果があるという実験データを見つけ、さっそくその薬を一人の患者レナードに投与する許可を得る。少量から始めたがなかなか効果が出ず、ある深夜、セイヤーは限度に近い量の薬を与えてみる。翌朝、セイヤーが目を覚ますとレナードはベッドを抜けてテーブルで自分の名を書いていた。レナードはさっそく他の患者に試すことを提案、l賛同してくれる出資者たちから資金を集め、薬の投与を始める。

 

1969年に夏、突然エレノアらに呼び付けられたセイヤーが病室に行くと、なんと投与した患者が全員立ち上がったり、話したりしている現場を目撃する。こうして薬の投与により治療が始まるが、レナードハー病院へ土地の見舞いに来ているポーラという女性が気になり始める。

 

ところが、レナードの精神状態が少しづつ過敏になってくり。どうやら薬に副作用らしく、攻撃的になったり他の患者を扇動したり、医師達に反抗したりし始める。さらに痙攣が始まり、とうとうセイヤーにつかみかかってしまう。その夜、セイヤーがレナードの様子を見に行くと、立てなくなったレナードがセイヤーに助けを求めてきた。レナードは、自分を実験台にしてこの薬に効果を検証してほしいとセイヤーに頼む。

 

セイヤーはレナードへの薬の量や症状を観察するようになる。レナードは、いつも来てくれるポーラに最後の別れを言い、闘病に専念するようにするが、まもなくして痙攣が止まらず元の状態になってしまう。他の患者も次第に薬の効果が薄れてくる。レナードにポーラはかつて父にしていたように本を読み聞かせに斬るようになる。レナードは、この日も深夜まで研究をしている。先に帰るエレノアに声をかけたものの、ふと、かつてレナードに言われた言葉を思い出し、エレノアをお茶に誘い浸り歩いて行って映画は終わる。テロップで、セイヤー医師は今も研究を続けているが、兄夏の奇跡は起こっていないと出る。

 

全く退屈しない見事な恋性で描かれる人間ドラマなので、映画のレベルはなかなかのものですがいかんせん、好みにタイプの作品ではないので、自分としては絶参にできないのは少し勿体無いかもしれません。でも名作ですね。

 

「Sin Clock」

面白い話なのですが、脚本が弱いためにありきたりに展開するし、前半が妙にくどくどしてる割には肝心のクライマックスが雑に流れるのはちょっと勿体無い。細かい暗転を繰り返す映像演出が稚拙に見えるし、オープニングのフラフラしたカメラワークもまずい。決して駄作ではないはずですがこういうのを作らせると韓国映画は上手い。勿体無い仕上がりの映画でした。監督は牧賢治。

 

中華料理のテーブルを囲むいかにも半グレ風の若者達と曲者的な男。真面目そうなメガネの男の冗談に反応したサイコな男が懐から目玉を取り出し、メガネの男が腰を抜かしてタイトル。なんとも幼稚な出だしである。

 

会社を首になりタクシーの運転手をしている高木の姿から映画は幕を開ける。先輩世良の指導を受ける場面がフラッシュバックしたりする。ある時、ホステスと乗り込んできた代議士風の男を乗せる。降り際、名刺入れを落としたのを見つけた高木はその男が大物代議士大谷だと知る。大谷が話していた絵の話を、同じ時に入社したサバン症候群で、一度見たらすべて記憶してしまう番場に話す。彼は絵画にも興味があった。その絵が値段がつけられないほどのもので、盗まれたままどこにあるのか不明な逸品なのだという。

 

高木の同僚で同じ時に入社したのは自衛隊上がりの坂口だった。高木は仕事中、横暴な警官に捕まり、その腹いせに車を飛ばしていて事故を起こしてしまう。高木には別れた妻子がいるが、とうとう愛想を尽かされる。このエピソードはなんの意味もなく挿入されている。ある夜、坂口は高木に近づいてくる。高木、番場、坂口は3の数字でつながる奇異な関係なのだという。そして、先日の絵画に話、大谷代議士の話などを総合し、その絵を奪って大金を手に入れる計画を持ち出す。その絵画の処分の相談が冒頭の場面であるが、中国人らしき相手らの素性の描写が実に弱い。

 

そして決行の夜、時間通りに番場も坂口も高木も行動し、最後の待ち合わせ場所に坂口らは到着するが高木は3分遅れてくる。ナビの時間で行動していたはずがなぜか高木の乗った車のナビが3分狂っていた。そして金はまんまとその前の入れ替えの際に何者かに横取りされたことがわかる。思い返してみると、高木の車の整備をしていたのは世良だった。彼が高木らの計画を知り、巧みに金を横取りしたのである。世良は金を持ってバルセロナ行きの飛行機に乗った。エピローグ、高木はニュースでバルセロナ行きの飛行機が一機行方不明になったというのを聞いていた。こうして映画は終わる。

 

とにかく、勿体無いとしか言いようがなく、脚本で登場人物が描ききれていない上に、演出描写も上手くないために、せっかくのトリックの面白さや、ストーリー展開のワクワク感、さらにラストのどんでん返しも素人レベルになってしまった。もうちょっと、ちゃんと映画を勉強して作って欲しいと思う一本でした。

 

カラヴァッジオ

見事な映画ですが、回想形式で描かれる物語なので、断片的なシーンの連続と時間や空間が前後するために最初はかなり混乱してしまう。しかも人名がわかりづらく、その整理がつくまではちょっとしんどい。しかし、一人の天才的な画家が、愛欲と権力に翻弄される様を詩篇を挿入しながらの格調高い演出スタイルで描く画面は見るものを惹きつけてしまうから不思議です。決して分かりやすく感動するドラマでもなんでもないですが、ハイクオリティな傑作だと思います。監督はデレク・ジャーマン

 

1610年、みすぼらしい小屋に横たわるカラヴァッジオ、傍には口の聞けない助手の男が世話をしている。死の床にあって、カラヴァッジオは若き日の様々な出来事を思い起こす。貧しい村の子供を金で買って自分の助手として雇い入れるカラヴァッジオの姿。ローマで、貧しいながら道端で絵を描いて生活していたが病気で入院してしまう。そこで出会ったのはデル・モンテ枢機卿だった。彼はカラヴァッジオの才能を見抜いて自宅で絵を描かせるようになる。そしてローマの教会から「聖マタイ伝」連作の絵を任されるが難行する。

 

そんな頃、カラヴァッジオは賭博師のラヌッチオと彼の愛人で売春婦のレナと出会う。カラヴァッジオは銀行家のジェスティアーニの依頼で「エロス」という絵を描く。ジェスティアーニの豪華なパーティにラヌッチオとレナを連れていくが、そこでレナは法王の甥のボルゲーゼ枢機卿を紹介される。ボルゲーゼ枢機卿はレナに心を奪われるが、レナはカラヴァッジオとラヌッチオの前で、自分は玉の輿に乗るためにボルゲーゼ枢機卿に近づいたのだと告白する。

 

数日後、レナはテベレ川で水死体となり、ラヌッチオが容疑者として逮捕される。しかしカラヴァッジオは彼を釈放させるべく奔走し、法王へも嘆願した結果、ラヌッチオは釈放される。しかしラヌッチオはカラヴァッジオに、自分こそが真犯人だと告白、カラヴァッジオはラヌッチオの首にナイフを当て殺してしまう。そして冒頭の場面、カラヴァッジオは、息を引き取る。しめやかに棺が運び出され、映画は終わっていく。

 

史実はどうかわかりませんが、終盤、カラヴァッジオの後ろにトラックが置かれていたり、かなり大胆な絵作りがされているように思います。まさに芸術、と言えばそれまでですが、高尚な作品という印象の一本で、ちょっとしんどかった。