くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「田園詩」(デジタルリマスター版)「ボーンズアンドオール」「狂乱の大地」

「田園詩」

淡々と進むまさに映像詩という感じの作品で、これという物語もなく、美しい田園風景の中で起こるさまざまな日常を切り取っていくとっても素朴で綺麗な作品でした。監督はオタール・イオセリアーニ

 

都会のビル、一人の男がある事務所に入ってくる場面から映画は幕を開ける。そして一室に集まった男たちの姿からカットが変わるとある農村の場面が変わる。このジャンプカットにまずアッと思わされる。ここはジョージアののどかな農村、首都トリビシから弦楽四重奏の楽団がやってくる。村人たちは彼らと接点を持とうとする。

 

彼らが泊まる家の娘エドゥキは幼い弟や妹の面倒を見ながら音楽家の若者たちの世話をするが、チェリストの青年に密かな恋心を抱く。近所の人たちとの仲違いや、干し草をめぐってのたわいない出来事や川で爆薬を使っての魚獲りなどの風景が美しいカットで捉えられていく。やがて一夏が終わって音楽隊はバスに乗って都会に帰っていく。それを見送るエドゥキたち。街に戻ったチェリストの青年が自宅で練習をしている姿で映画は幕を閉じる。

 

筋の通った大きな話があるわけでもなく、淡々と農村の風景が描かれていく。チェリストに想いを寄せるエドゥキの場面も本当にさりげなく捉えていくので、油断すると気がつかないくらいである。ただ、干し草を背負って歩く老人の映像や、牛たちを追う姿、魚を獲る二人の男、音楽家たちの邪魔をしようといたずらして音を出す村の青年たち、などなどがあまりに素朴でみずみずしく捉えられていて美しい。まさに映像叙事詩という雰囲気の一本。心が洗われる思いがする一本でした。

 

「ボーンズアンドオール」

ホラーテイストの究極のピュアなラブストーリーという感じの映画なのですが、ちょっと展開に工夫がなさすぎるのでくどくどと語られるのがややしんどい。それにに人喰いという登場人物の苦悩が今ひとつ迫ってこない上に、映像がちょっと臭うほどの胸焼け感がありたまりませんでした。監督はルカ・グァダニーノ

 

平凡な高校の光景、ピアノを弾いているマレンのところに一人のクラスメートが近づいてくるところから映画は幕を開ける。どうやらこの女子生徒は、マレンに好意があるらしくホームパーティに誘う。夜間の外出を禁止されているマレンだが、窓をこじ開けて脱出してホームパーティへ向かう。なぜ閉じ込められているのかという疑問が頭をよぎるが、テーブルの下でマレンと彼女を誘った友達が仲良く会話をしていて突然、マレンが友達の指を咥えて齧ってしまうところで、マレンが異常者であることがわかる。マレンが叫びながら自宅に戻り、父に家に引き入れられると共に、またやったのかというセリフと荷造りを始める。

 

引っ越した先で、マレンが翌朝を覚ますと父の姿がない。手紙と出生証明書、わずかなお金が残されていた。マレンはその証明書から母の住むミネソタへ向かうことにする。ところが途中のバス停までしかお金がなく、夜、寝場所を探していると一人の中年の男が近づいてくる。匂いで同類だと分かったのだと言ってやってきた男はサリーという名で、ある家に案内する。

 

そこには瀕死の老婦人がいた。翌朝、亡くなった老婦人をサリーは食べ、マレンにも勧める。言われるままにマレンも死体を食べる。サリーは食べた人間の髪の毛でロープを作っていた。マレンは不気味なものを覚えてその家を逃げ出す。スーパーで食料など万引きしていて、酔っ払いの男を懲らしめている一人の青年リーと知り合う。彼もまた同類だった。酔っ払いの男を食べたリーの車に乗りマレンはその場を旅立つ。

 

リーは妹のケイルに車の運転を教える為自宅に向かっていた。そこでマレンはケイルと出会う。まもなくして自宅を後にしたリーとマレンは、途中、同類の二人の男と出会うが、彼らの異様さにリーとマレンは逃げる。そして、ようやくマレンの母が住むミネソタにたどり着く。しかしいたのは祖母だった。

 

マレンの母は近くの精神病院にいるという。マレンが訪ねると、両手を食べて隔離されている母がいた。母はマレンがいずれ訪ねてくると知っていて、訪ねてきたら襲いかかって殺すつもりだった。すんでのところで逃げたマレンはリーと再び西へ向かう。

 

車の調子が悪くなってきたので引き返そうとするが、途中襲った男に妻子がいたことで諍いとなり、リーとマレンは別れる。ところが、マレンは途中サリーと再会する。ずっと後をつけてきたのだという。マレンはサリーにこれ以上近づかないようにと告げ、サリーはその場を去る。

 

マレンは孤独になり、リーの自宅に辿り着きケイルと再会、マレンがテント生活をしていることを聞いてリーのところに行く。二人は愛し合っていた。西へ行き、それぞれ仕事を見つけて生活を始める。ある日、一人戻ったマレンはベッドの上のカバンを見つける。それはサリーのものだった。突然、サリーがマレンに襲いかかる。戻ってきたリーと取っ組み合いになり、サリーを殺すがリーも瀕死の重傷を負う。サリーのカバンにはケイルの髪に毛があった。自分を食べろというリーにマレンは泣き崩れ、やがて食べる。広い草原でマレンとリーが仲良く座っている映像でエンディング。

 

サリーが繰り返しマレンの前に出てくる構成がやや工夫不足だし、マレンやリーの両親の苦悩、さらにマレンたちの苦悩が今ひとつこちらに伝わり切らない上に、妙に人間を食べる場面が生々しいのが気になる。そういう映像を意図しての演出なのだろうが、全体に透明感がもう少し欲しかった気がします。

 

「狂乱の大地」

傑作か怪作か、架空の国エルドラドの歴史叙事詩を、詩を交えた台詞と背後の効果音、そして登場人物の掛け合いで描いていくドラマ。広大なスペクタクルシーンもなく、ひたすら人物の狂乱で描いていく演出スタイルにいつのまにか圧倒されてしまいます。と言っても、映像表現としてクオリティが高いのかと言われれば素直に感想を書けない。独特の個性を備えた一本、そんな感じの映画だった。監督はグラウベル・ローシャ

 

空撮でエルドラドの国にカメラが寄っていく。白いスーツを着込んだ一人の男がやってくる。レジスタンスの解散を指示するが集まってきた人々は革命こそ未来であるかの発言をする。無駄な殺戮をやめようという声に耳を傾けず、機関銃を押し付けてくる男。聖職者から議員となって人々の心を掴もうとするヴィエイラ。彼を脅威に思いながら、外国資本を味方に権力の座に居座るディアス。彼の友人でありながらも反逆しようとするパウロ、彼らに関わる女性たち。

 

狂ったように権力者を持ち上げ、実力者を盛り立て、国の未来を変えるというより、次第に権力闘争の狂乱の中に身を置いていく民衆たち。翻弄されるパウロ。映画はただその狂騒をひたすら大音声の台詞と背後に聞こえる機関銃の音などで描写していく。そこにあるのは、ただ映像で語るべしというバイタリティ溢れる演出のみの世界である。

 

ディアスが王冠を被り頂点に立ったかに見えるが民衆に担ぎ上げられるヴィエイラが人民の中で支持される。翻弄されながらも行動をするパウロは銃で撃たれたのかそうではないのか、全ての場面が冒頭のレジスタンスの解散という絵に遡って、ディアスのクローズアップで映画は終わる。

 

シュールであって、爆発するようなバイタリティの塊を感じさせる映画。よく理解できているか疑問ですが、映像の迫力を堪能する作品でした。