くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「マンダレイ」(4Kデジタルリマスター版)「イディオッツ」(4Kデジタルリマスター版)「大いなる自由」

マンダレイ

ドッグヴィル」と同じ撮影形式をとって黒人差別問題を痛烈に批判する実験的な作品でした。映像作品としての面白さもありますが、ラストの強烈なドンデン返しのあまりの衝撃にかえって差別問題の恐ろしさ、人間の恐ろしさを痛感してしまいました。監督はラース・フォン・トリアー

 

ドッグヴィルの街から脱出したグレースとその父、そしてギャングたちは、マンダレイの街にやってくる。そこで、いまだに奴隷制度が行われている集落で、あまりの時代錯誤に娘のグレースは敢然とその改革を訴える。そして父の制止も聞かず、弁護士と一部の部下を借りて村に残ることにする。

 

黒人の代表のウィルレム、誇り高い黒人族のティモシーらを中心に、雇用主との契約を新たに作り、民主主義による意思決定の方法を導入して、積極的に改革していくグレースだが、自由を手に入れたことで何をして良いか路頭に迷う行動を取る黒人たちに戸惑ってしまう。

 

理想に燃えるグレースはリーダーシップをとって、自ら農作業をし、次第に黒人たちも自主的に働くという行動を始める。しかし一方で飢えが黒人たちを襲い始め、幼い子供の食糧を老婦人が盗む事件が起こる。集会の結果老婦人を殺すことが決まり、グレースは自ら手を下す。

 

やがて収穫が行われ、綿花のトラックが街に行き、その売り上げの金が入る。歓喜に盛り上がる黒人たちの中、グレースは抑えていた欲望を解き放し黒人の一人とSEXをする。ところが心地よい眠りから目覚めると争いが起こっていた。隠していた金が盗まれ、犯人がわからないまま一人の夫人を殺したのだという。

 

そんな頃、父から迎えの連絡が来る。一方、ギャングの一人の詐欺師が、マンダレイの金で賭博に来た黒人をカモにして金を取ったからとグレースに届けに来る。実は気高い黒人と思っていたティモシーが犯人だった。グレースは、この集落に主人、ママが残した黒人の経歴を記した資料を読み直すと、ティモシーは気高い黒人の種族でなく卑しい種族だとわかる。

 

グレースは村を出る決意をし、ウィルレムに、黒人の資料と取り戻した金を手渡すが、黒人の資料を作ったのは実はウィルレムだと告白する。そして、黒人たちの決議で、ママがいなくなった中、この村のリーダーとしてグレースを選んだことを告げる。グレースは、脱出するために、柵を使ってティモシーを磔つけ、鞭を振るう。そして、父が来る時間に柵の外に出るが、そこには父の置き手紙だけが残されていた。グレースは、村を逃げ、新たな地へ逃亡して映画は終わる。

 

結局黒人差別問題は、今も昔も変わることなく続いていることを痛烈に皮肉った作品として締めくくられる。ある意味現実ではあるが、ある意味希望がなさすぎるのは辛い。

 

「イディオッツ」

表現方法の是非はともかく、ストレートに、なんのこだわりもなく自らの主張を映像化する試みは感服します。でも、流石にこれはやりすぎではないかと思えなくもありません。監督はラース・フォン・トリアー

 

家庭で何かがあり飛び出してきた風のカレンは、レストランに入り、やけ食い風に注文しようとする場面から映画は幕を開ける。同じフロアに障害者らしいグループがあり、その中の一人がカレンの手を離さないので、カレンはその障害者と一緒に車に乗り込む。しかし、彼らは障害者のふりをしているだけだった。

 

障害者のふりをして高級レストランでただ食いしたり、つまらないものを売りつけたり、金持ちに文句を言って責め立てたりする姿を見て最初カレンは嫌悪感を覚えるが、いつの間にかそういうイディオッツ=愚か者になることに惹かれるようになり、自らも障害者のふりをしてみたりする。

 

彼らが住まいするのはメンバーの一人の叔父が所有する売却予定の邸宅だった。叔父がやってきて荒れ放題になっているのを非難したり、買手がやってきたりするが、障害者のふりをしたり、障害者の施設があることに無理矢理賛同を得たりするが、どれもが偽善的な回答ばかりだった。そんな人々を蔑みながらも、自分たちの行動に何か卑屈なものも垣間見られる。映画は、ドキュメンタリータッチのカメラで、グループ解散後のメンバーへのインタビューを交えて展開していく。

 

ある時、メンバーの一人の父親が娘を連れ戻しにきて無理やり連れ帰るが、グループのリーダーは強制的に押しとどめることは間違っていると、行かせる。そして、他のメンバーにも元の生活に戻ってやり直せるか試すのがいいとメンバーを選んでいく。

 

グループが解散同然となり、カレンも自宅に戻ることにするが、気の強いスザンヌに同行してもらう。家に帰ったカレンを母や妹、祖父、夫が出迎える。実はカレンは生まれたばかりの子供を亡くし、そのショックで家を出たらしいことがわかる。家族で食事をし始めたが、カレンは障害者のふりを始める。それをみた夫はカレンを殴り、スザンヌは、グループに戻ろうと連れ出して映画は終わる。

 

障害者をある意味非情な偏見で捉えている視点がちょっと気分が悪くなりますが、描かんとするメッセージはかえって強烈に伝わってきます。所詮、人々は自分たち以外は蔑んでいるものだという偽善の中で生きる生き物だと言わんばかりの映画でした。

 

「大いなる自由」

いい映画なんですが、もういい加減、ゲイのラブストーリーこそがピュアなので素敵なのだという話はやめてほしい。変態に変わりがないのだからと思います。描きたいのは、ゲイが違法だったことを訴えたいというのもあると思いますが、男同士の恋愛と友情を絡めた展開は非常に上手い。その点で評価したい映画でした。監督は セバスティアン・マイゼ。

 

1967年、トイレの撮影映像が繰り返される。そこに次々と男が入ってきては出ていく。いつも写っているのはハンスという男で、カットが変わると裁判所の場面、当時、ゲイは違法行為であったため、ハンスは有罪となり刑務所に入れられる。刑務所では顔見知りのヴィクトールと再会する。ヴィクトールは殺人を起こして収監されていた。ハンスはゲイなので一人部屋である。そこに、掃除担当の青年レオが入ってきて、ハンスは興味を覚える。そして時は1945年になる。

 

ハンスはゲイだということで初めて刑務所に送られてきた。変態と同室は嫌だと先にいたヴィクトールに追い出されるが、看守の命令でまた同室になる。ヴィクトールはたまたまハンスの腕にある刺青を見つける。それはドイツの強制収容所の番号だった。可哀想に思ったヴィクトールは、その刺青をわからなくしてやると提案、上から刺青をしてやる。二人はこうして出会う。

 

1957年、ハンスはゲイの罪でまた収監され、ヴィクトールと再会する。しかし今度はハンスの恋人オスカーも一緒に収監されていた。ハンスは聖書に針で穴を開けてオスカーへの思いを綴り、配膳係のヴィクトールに届けてもらおうとするが、ヴィクトールは見返りとして、ハンスに口でして欲しいと頼む。

 

ハンスはなんとかオスカーと刑務所内で会う方法はないかと考え、点呼の時に起きなければ、同じ懲罰牢で一晩過ごせることを知り、オスカーと会う。そんなハンスを危ぶむヴィクトールだったが、ハンスはやめなかった。

 

ある時、ヴィクトールが食堂で配膳の準備をしていると外が騒がしい。覗いてみると一人の囚人が落ちたらしいとわかり、どうやらオスカーだった。ヴィクトールは散歩の時間にハンスを呼び出し、オスカーが屋上から飛び降りたことを知らせる。号泣するハンスを抱きしめるヴィクトールだった。

 

1968年になり、ハンスは掃除担当の青年レオと深夜会う方法を教える。かつてオスカーと考えだした、点呼の時に起きずに懲罰牢で会うことだった。ハンスはレオとそこでSEXをする。しかし、ハンスはレオが教師であり、こんなところにいてはいけないと思い、自分が証人になって、別の刑務所に移してやる。この経緯の根拠が実は理解できなかった。

 

一方、ヴィクトールは仮釈放の審査の日が来た。しかし、面接の緊張に耐えきれず、つい薬物を注射してトイレで気を失ってしまう。ハンスはヴィクトールに助けてやるからと提案、同じ部屋にしてもらう。そして薬中毒で苦しむヴィクトールを介抱してやる。時は1969年、月面着陸の中継もあった。

 

ある時、ハンスは食堂で175条のゲイの禁止の刑法が改正されたことを雑誌で知る。それをヴィクトールに報告し、一緒に脱獄しようというが、ヴィクトールはそんなことはできるはずがないと一笑にする。しかし、深夜窓枠を削っているヴィクトールにハンスは気がつく。

 

やがてハンスはヴィクトールに見送られて出所、世間ではゲイは公認となり、「大いなる自由」というゲイバーにハンスはやってくる。そして、一人の男に視線を送り、誘われるままに地下に降りていくと、様々なところで男たちが抱き合っていた。しかし、ハンスは何か違和感を覚えて店を出、ヴィクトールに約束したタバコを買い、宝石店のショーウィンドウを壊して警報を鳴らして、その場で警察を待つ。こうして映画は終わる。

 

ゲイの映画というより男の友情のドラマという感じの作品で、オスカーとの思い出の場面はホームムービーで映すなど絵作りも良く、いい映画なのですが、やはりゲイという一点だけが引っ掛かる感じになってしまった。