くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ヴァチカンのエクソシスト」「ロング・グッドバイ」「サントメール ある被告」

「ヴァチカンのエクソシスト

出だしは普通のB級ホラー的な展開なのですが、脚本が丁寧に描かれているために、次第にそれなりに面白いサスペンスに変遷していく。一見、悪魔との対決ホラーのみの見せ場であるかに思えるが、謎解きをさりげなく挟んだ終盤の流れが映画をエンタメとして面白くしています。クライマックスの派手な展開も娯楽映画のテイストで楽しめました。面白かった。監督はジュリアス・エイバリー。

 

イタリアのとある村、アモルト親父が悪魔祓いの要請を受けてやってくる。ベッドで叫ぶ青年の前で、いかにもな儀式を始め、傍に用意した豚に乗り移らせて、豚を撃ち殺して解決する。実はこの青年は精神疾患だったので、暗示によって救い出したのだとアモルト神父は法王庁で説明する。それでも、若い法王庁の運営者たちは、彼の行動に非難の目を向ける。そんな視線を無視するアモルト神父だった。

 

スペインの片田舎のサン・セバスチャン修道院に、古い建物を修復する仕事をしているジュリアとその家族がやってくる。娘のエミリーは田舎に連れてこられて不満だらけ、弟のヘンリーは、父を目の前で事故で亡くし、言葉を喋れずにいた。修復作業が始まるが、ガスが充満していて、建築業者は手を引いてしまう。母親はそれでも仕事を続けようとするが、まもなくしてヘンリーは奇声を発し始める。病院でMRIを取るもわからない。エミリーも不気味な物音を聞くようになる。この修道院を預かるトーマス神父がヘンリーに向かうが跳ね飛ばされてしまう。

 

そんな頃、法王庁教皇はアモルト神父に、サン・セバスチャン修道院に行くように指示する。不気味な思いを感じながらアモルト神父はサン・セバスチャン修道院へやってくるが、ヘンリーの姿を見て、その目の動きから悪魔の憑依であると判断、エクソシズムを開始する。トーマス神父の補助のもと戦うが、何かが違うという違和感を抱いていた。アモルト神父は修道院の庭の井戸を調べると、バチカンの紋章と、そこに埋められた異端者たち、そして、悪魔を阻止したかつての祓師たちの存在を知ることになる。

 

モルト神父はトーマス神父と地下室へおり、この修道院に隠された真実を知る。かつて悪魔祓いに失敗して悪魔の存在を残した過去、悪魔祓いから逃れた悪魔は悪魔祓い師に乗り移り、そのままヴァチカンに潜入して様々な宗教的な悪事を行ってきた事実があった。それをヴァチカンは隠してきたのである。今回のヘンリーに憑依した悪魔の名前を突き止めたアモルト神父とトーマス神父は、最後の戦いに臨む。

 

ヘンリーと対峙したアモルト神父たちだが、アモルト神父の過去の贖罪であるロザリオが出てきたり、トーマス神父の過去の公開である婚約者の幻覚が現れ、次第に劣勢になる。そしてとうとうアモルト神父は自らの体を投げ出してヘンリーを助けようとする。そして、ヘンリーたち家族を、まず修道院から逃す。悪魔に憑依されたアモルト神父が地下室で変異していく姿を見たトーマス神父が、悪魔に敢然と臨み、アモルト神父を助け、最後に二人で悪魔を地獄に突き落として、無事悪魔祓いを終える。

 

法王庁では、教皇がトーマス神父をアモルト神父と組ませて、残る199の悪魔の降誕した地を浄化する仕事に就かせて映画は終わっていきます。

 

教皇が調べているサン・セバスチャン修道院の真実の説明や、病で倒れる下のサスペンスはちょっと雑に処理されていますが、実在の人物を描きながら娯楽性を兼ね備えた物語づくりがとにかく面白く、あくまでエンタメ作品の雰囲気で制作されているので、素直に楽しめる映画に仕上がっていました。

 

ロング・グッドバイ」マーロウ、テリー

決して名作とか傑作とかではないのだけれど、映画の楽しみが詰め込まれている作品で、随所に遊びが散りばめられていて、あのシーンも楽しい、このシーンもにんまりするという面白さは絶品。正当なミステリーファンは許せないほどの大胆な改変とラストの変更はありかもしれないけれどとにかく癖にな流カルト映画だった。監督はロバート・アルトマン

 

主人公フィリップ・マーロウのベッドに飼い猫が飛び乗ってきて餌を要求してくるところから映画は始まる。猫の好みに餌を買いに行くついでに。隣人でいちもはんらでヨガをしている女性たちが買い物を頼んできたりする。餌を買って与えたものの気に入らない飼い猫はぷいとどこかに行ってしまう。そこへ友人のテリーがやってくる。メキシコへ行きたいからと言うので、マーロウはテリーを送っていく。

 

翌朝、突然刑事がやってきてマーロウは逮捕される。テリーの妻シルヴィアが殺されたのだという。三日勾留されて釈放されたマーロウだが、テリーがシルヴィア殺害を自白して自殺した知らせを受ける。自殺なのか殺人なのわからないままなので、マーロウはテリーとシルヴィアを殺した犯人を調査し始める。

 

そこへ有名作家の妻ウェード夫人から、夫を探して欲しいという依頼が来る。マーロウは調査の末、夫のロジャーは精神科の病院にいることが判明、無事救出する。ロジャーはヴァリンジャー医師のもとにいたが、なんとかウェード夫人のアイリーンのところに戻すが夫婦仲は悪かった。ロジャーはヴァリンジャー医師に大金を借りていて催促されていた。ホームパーティの席でヴァリンジャー医師に詰め寄られ、とうとう大金を返済する。ホームパーティの後の夜、マーロウはアイリーンと、ロジャーについて話していると、酔ったロジャーは一人海に入って行きそのまま溺れて死んでしまう。事件の現場でマーロウは、ロジャーがシルヴィアと浮気をしていて、テリーを殺したらしいとアイリーンから聞かされる。

 

しかし、五千ドル札がマーロウの元に送られてくる。不審に思ったマーロウは、テリーから大金を回収するはずだったヤクザ組織のアウグスティンのところに向かうが、マーロウが交渉している最中、大金は戻って来る。マーロウがウェード夫人の家に行くと、すでにアイリーンは自宅を引き払って何処かへ消えていた。街でアイリーンを見かけたマーロウは後を追いかけるが、車に撥ねられて入院させられる。

 

大したこともなく勝手に退院したマーロウは、どこかおかしいと感じ、テリーが向かうはずだったメキシコへ向かう。そこで、死んだはずのテリーと出会う。テリーは、アイリーンと不倫をしていたが、シルヴィアに見つかったので殺したのだという。そして、顔を潰した死体を作ってもらって死んだことにし、アウグスティンにも金を返し、大富豪のアイリーンと一緒になって余生を過ごす計画だと告白する。マーロウはテリーを銃で撃ち殺し、その場をさる。途中、車でくるアイリーンとすれ違う。ハリウッドは楽しいという曲が流れ、自宅に帰ったマーロウの猫はやはり行方知れずで映画は終わる。

 

マーロウとアイリーンとの会話の向こうに、海に入っていくロジャーの場面を重ねたり、ロジャーとアイリーンが言い争う中、浜辺に出ているマーロウをガラスに映して重ねたり、マーロウが病院に入院した横に、身体中包帯で巻かれた患者を同室にして伏線にしたり、あちこち遊び心満載の映画で、完成度の高い作品ではないけれど、クセになる面白さが詰まっています。これが映画の面白さです。

 

「サントメールある被告」

胸に訴えかけてくる重々しい何かを感じて映画が終わる。その何かをもう一度映画を振り返って考えてみるのだけれど、正解が見つからない。なのに、不思議なくらいに胸が熱くなってくる。その圧倒的なメッセージは、純粋な母親の子供への愛情なのか、フランスという白人の国にやってきたアフリカ黒人の体験した疎外感なのか、西洋人が黒人に持っている偏見なのか、終盤に流れる曲、中盤に頻繁に挿入される細かいインサートカットやイメージシーン、フラッシュバック、それぞれに全く無駄のない演出が施されているしんどさが見事な作品でした。監督はアリス・ディオップ。

 

マリグリッド・デュラスの映像を見る学生たちの姿で映画が始まる。場面が変わると、主人公ラマが自宅に帰ってくる。大家族なようで、姉妹がいて両親もいて、終盤にわかるが恋人なのか夫なのかがいる。母親が、祖母の病院に付き添う人を探すが誰も自分の生活が忙しいようでラマも行くところがあるからと断る。

 

ラマはスーツケースに衣服を詰めてサントメールの街へ向かいホテルに泊まる。彼女はこの町で行われる裁判の傍聴をするためにきたらしい。どうやら彼女は文筆活動をしているようでこの事件を本にするのか記事にするのかのやりとりを電話でしている。

 

裁判が始まり、被告であるロランスが出廷する。15ヶ月育てた娘を海に捨てて殺したために起訴されていたが、最初の供述で、自分は無実だと訴える。そして彼女は、呪術によって追い込まれたとか、この二年間、自分を疎外する周囲の人々からの視線に苦しめられたとか、一見、辻褄が合うようであっていない供述をする。ロランスの娘の父親リュックや、ロランスの通う大学の教授などの証言などもあるが、どれもに真実が見えず、裁判官も混乱していく。

 

ラマはたまたまロランスの母と知り合い、ランチを食べるが、母はラマが妊娠していることを言い当てる。ロランスは、全て事実だと言い張るが、証拠書類の中に証明するものが見当たらず、彼女の幻覚なのか、病的なものなのかさえ不明の中審理は進む。終盤、ラマはロランスに視線を送っていて、ロランスはそれに気付いたのか、ラマの方へ視線が送られ、ふっと笑みをもらす。それを見たラマは涙が止まらなくなり、ホテルに帰って恋人に連絡をする。やってきたアドリアンは、あくまで裁判の女性は自分たちとは違うからと慰める。

 

ラマは、自分は民族衣装に身を包み、帰ってきた今風の服装の妹と鏡に映る姿を思い出したり、外の景色に視線を移したりし、ロランスの訴えるものの真意を感じ取る場面が挿入される。裁判も終盤、弁護人は、ロランスがたどった行動は、あくまで科学的に弁明するしかないと訴える。自宅に戻ったラマのそばにラマの母がいて、疲れたと呟きながら、ラマを撫でている。こうして映画は終わっていきます。

 

終盤、埃がホテルの部屋を舞い、外の景色に被って軽いタッチの音楽と歌声に重なってラマの家族の微笑ましい風景が映される。裁判所の外では白人が大勢集まって騒いでいる。その中を一人黒人であるラマが進む。隅々まで行き渡った映像演出が、語るべき何かを見ている私たちの胸に訴えかけてくる迫力に圧倒されて、劇場を出る。恐ろしいほどの映画ですが、さすがにしんどい。特に裁判の序盤、ロランスがひたすら自分のこれまでを説明するくだりはかなりの体力が入りますが、ラマがロランスと視線を合わせてから一気に映画が動いてラストへ畳み掛ける。見事な映画と言える一本でした。