くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ファーストラヴ」

「ファーストラヴ」

面白くないわけではないのですが、と言って面白いわけではない。直木賞を取った原作の人間ドラマの厚みが映像に昇華できなかったという感じです。物語が重くて奥が深いのに、こちらに迫ってこない。脚本が悪いのか演出が悪いのかその弱点が見つからない映画でした。北川景子が綺麗すぎるというのが実は原因だったのかもしれない。監督は堤幸彦

 

某大学の美術棟の一室、一人の男性が血を流して倒れている。死んだのは有名な画家の聖山那央雄人。カットが変わり血のついた包丁を持ち歩いている聖山環菜の姿。被疑者の環菜は動機はそっちで見つけてほしいという供述をし逮捕されていた。公認心理士の真壁由紀は、彼女のことを本にすべく取材を始める。そして国選弁護士庵野迦葉に会いにいく。迦葉は由紀のかつての恋人であり、今は義理の弟であった。

 

由紀の夫真壁我聞は写真スタジオを営んでいるが、元は写真家であった。迦葉は母に捨てられ、叔父の家で育てられたが、そこにいたのが我聞で、二人は血のつながらない兄弟だった。物語は由紀が環菜との接見で次第に環菜の過去を探り出していく。環菜は小学生の頃、父の弟子たちのモデルをしていたが、全裸の男性モデルの間に佇むという構図で、幼い環菜には苦痛だった。その苦しみから自傷癖になっていた。

 

そんな彼女に優しくしてくれたのがコンビニでバイトをしていた大学生裕二だった。そこまで調べていく由紀は、かつての自分の境遇との接点を見つけていく。由紀の父は海外出張の時に少女買春をしていて、そのことを母から由紀の成人式の日に聞く。由紀が幼い時、父の車のダッシュボードから少女の写真がたくさん出て来たことがあり、父が普通ではないと思っていたのだ。

 

由紀は、自分の子供時代の出来事を環菜にぶつけ、環菜の心を開かせようとする。そして環菜は、自分は父を刺していないと最初の供述を覆した。物語はここで大きく転換するはずなのだが、どうもドラマに大きなうねりが見えてこないし、由紀にしても環菜にしても、幼い頃の悲惨な境遇がこちらに迫ってこないのである。由紀は夫我聞に隠していた過去や迦葉との関係など全てを我聞に告白するが、我聞は薄々わかっていたとあっさり受け入れてくれる。

 

そして法廷、迦葉は環菜の無実を主張、証人らに供述も環菜に有利に見えたが、判決は実刑八年となる。由紀は裁判の後、トイレで手を洗う環菜の母の手首に自傷の跡を見つける。この辺りももう少し突っ込んだ演出をすべきだが、さらっと流してしまう。

 

エピローグ、環菜が服役する姿、由紀が我聞の写真展に佇む姿、迦葉がようやく家族になれたとつぶやく姿で映画は終わるのだが、どれもこれも心の底から訴えて来ているように見えない。芳根京子の法廷シーンの熱演や木村佳乃の悪母ぶりのスパイス的なシーン、我聞を演じた窪塚洋介の飄々とした佇まいはいい感じなのだがどうもうまく噛み合っていない。何とも通り一遍に滑って行った物語という出来栄えでした。

映画感想「秘密への招待状」「マーメイド・イン・パリ」

「秘密への招待状」

オリジナルを見てないので何とも言えないけど、良いお話なのですが、ちょっと古臭い感じの演出が気になり、女優二人の存在感が目立ちすぎて、肝心のドラマ部分が薄れてしまった感じですね。監督はバート・フレインドリッチ

 

インドで孤児院を営むイザベルが子供達と瞑想している場面から映画は始まる。俯瞰で捉えるカメラがまず一昔前の演出という感じである。経営が苦しく寄付を募るも集まらず苦慮しているところへ、ニューヨークの実業家テレサから寄付の申し出が来る。しかも破格の二百万ドル。イザベルは話を詰めるべくニューヨークへ向かう。

 

イザベルがニューヨークで会ったのは、会社経営者のテレサで、間も無く娘グレイスの結婚式を控えているので、イザベルにも出席してほしいという。ところが、出席したイザベルは、そこでかつての恋人オスカーと再会する。何とオスカーはテレサの夫だった。しかも、グレイスは、かつてオスカーとの間に生まれた娘だった。オスカーとイザベルは出産後の子育てに不安を抱え、出産と同時に養子に出すということで別れたのだ。ところがオスカーは娘を育て、しかもテレサと再婚していた。

 

偶然の再会と出来事にテレサやグレイスも含め混乱に陥る。実はテレサは病気で、余命幾ばくもなく、その中で会社を売却する決心をしたのだ。事情の変化に、テレサは寄付額を二千万ドルに引き上げ、グレイスとイザベルで基金を設立、イザベルはニューヨークに住むことにして、テレサはイザベルに、オスカーとの息子二人とグレイスの面倒を見てほしいと頼む。

やがて、テレサは亡くなり、グレイスはインドへ荷物を取りに戻る。息子のように可愛がっているジェイにも別れを告げて映画は終わっていく。

 

グレイスが離婚することになったと言うがその辺りの描写がちょっと弱い。さらに不必要な俯瞰撮影、おそらくドローンなのだろうが、が無駄な描写に思える。しかも、ジュリアン・ムーアとミッシェル・ウイリアムスの存在感が大きすぎて、ドラマ性が希薄になってしまったのが残念。オリジナル版はおそらくずっとよく仕上がっていたのだろうが見てないので何とも言えません。

 

「マーメイド・イン・パリ」

面白い題材になりそうなのに、ファンタジーにするのかラブストーリーにするのかドラマにするのか方針を決めて突き進めば良かったのに、センスのない監督のリズム感の悪い演出とどっちつかずの物語に、いったい何だったのかと言う作品でした。ただ、人魚役の女の子は可愛かったので許しましょう。監督はマチアス・マルジウ。

 

マペットアニメのようなコミカルなタイトルから、ローラースケートを履いた主人公ガスパールが颯爽とパリの街を疾走し、とある船上カフェに行く。そこは合言葉を告げると船底の特殊な店に入ることができて、ガスパールはそこで歌手として働いている。オーナーは彼の父である。このオープニングは実に素敵なのです。

 

このそばの桟橋に一人の男が甘い歌声に惹かれて運河の中に身を沈めていく。何やら妖しい雰囲気なのだがこの導入部が実に弱い。そしてガスパールは、桟橋で傷ついた人魚を見つける。人魚を病院へ連れていくが、そこで、ガスパールが目を離した隙に近づいた医師が人魚の歌声を聞いて死んでしまう。

 

ガスパールは、病院が取り合ってくれないのでオート三輪で自宅に人魚を連れ帰る。人魚の名前はルラと言って、自分の歌声を聞くと死ぬのだと言うが、愛を失ったガスパールには効果がない。このガスパールの悲劇の過去も全く描写されていないので、その後、終盤にかけルラに恋して来たガスパールが命の危険になるくだりに信憑性がない。

 

ガスパールの部屋のそばに世話焼きのロッシという女がいて、人魚の存在を知るが、普通に接し始める。一方、ルラに殺された医師の妻ミレナが執拗にガスパールを探す。ルラは二晩の後に海に帰らないと死んでしまうと言う。ルラに惹かれ始めたガスパールは、ルラと何とか暮らそうと考えるが、時間は迫って来る。この辺りが実に適当で、ラブストーリーの盛り上がりも、タイムリミットのサスペンスもない。さらに、ミレナはルラの血液を採取したり、ロッシが脱出を手伝ったり、もう終盤は支離滅裂になってくる。

 

ファンタジックコメディなのか、ラブストーリーなのか、はたまたサスペンスなのかとごちゃごちゃになり、最後はガスパールはルラを海に返しその場で気を失うが追いかけて来たミレナがガスパールの心肺蘇生をして助ける。て何やねんと言う感じである。ガスパールは、閉店した父の船を使って海の彼方へとルラを追って行って映画は終わる。まあ、何とも言えない雑な作品でした。

映画感想「ジャスト6.5闘いの証」

「ジャスト6.5 闘いの証」

サスペンスでもアクションでもない、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた社会ドラマだった。イランという国の圧倒的な描写、一見ただの麻薬捜査の物語かと思えば、次第に見えて来る本当の暗部。もちろん、麻薬取引を容認するわけではないが、その存在の裏にあるギリギリの人間ドラマに終始目を離すことができなかった。見事。監督はサイード・ルスタイ。

 

刑事の乗った車がとある建物にやって来るところから映画は始まる。そして、その建物に突入するが、売人と思しき男が見当たらない。一人の刑事ハミドが、屋根の上に映る影を見つけ、屋根から飛び降りた売人の若者を追いかけ始める。途中、持っていた麻薬を投げ捨て逃げる青年は、金網を乗り越える。ところがそこは残土を埋める工事現場の穴で、逃げ出せなくなる。一方、追って来たハミドは青年を見失う。青年の落ちた穴に、ブルドーザーが土を被せ埋めてしまってタイトル。このオープニングにまず引き込まれます。

 

麻薬撲滅チームのリーダーサマドは、麻薬組織の元締めナセルを逮捕すべく、人々に薬を売っているある家に捜査に入る。しかし証拠は見つからないなか帰ろうとして、麻薬犬がその家の主人の妻に吠えかかる。そして夫婦ともども逮捕。コンクリートの土管の中で薬を吸っているホームレスたちを一斉に取り締まり逮捕する。この時のシーンが物凄くて、どれだけいるのかわからないほどの人間が逮捕されるのは圧巻である。

 

サマドは逮捕した売人から、繋がりを辿って、組織の元締めナセルの居場所をかつてのナセルの恋人の女性の口から聞き出すことに成功。

サマドらはナセルがいるペントハウスに突入するが、ナセルは睡眠薬を大量に飲んでプールで意識不明になっていた。サマドはナセルから、密売のルートなどを聞き出し、そのつながりを究明していく。ナセルはサマドを買収したり画策するがサマドは取り合わない。

 

イランの裁判なので、いわゆる裁判官一人が聴取しながら調べていく展開となる。冒頭でハミドが取り逃した売人の事件が蒸し返されたり、ナセルの証言でサマドが押収した麻薬を一部着服したと責めてみたり、欧米や日本の裁判とは少し様相が違うので、最初は戸惑うが、そこに適当さはなく、公正に進んでいくから、映画としてしっかり見ることができる。

 

やがてナセルの刑が決まって来るが、自分が築いた財産が全て没収されるということになり、カナダに留学していた娘も帰らなければならなくなり、家なども全て取り上げられて、家族が泣き崩れるに及んで、ナセルは必死で家だけでも残してほしいと懇願する。逮捕された様々な人々の裁判のシーンの中でイランのスラム地域の、悲惨な現状を切々と描写するくだりは、胸に迫るものがあります。

 

ナセルは死刑が確定し、やがて死刑執行の日が来る。大勢を一度に絞首刑にする施設がいかにもイランという感じがしますが、その装置を点検する姿、そして一斉に執行されるのをじっと見つめるサマドの視線がどことなく痛々しい。

 

間も無くしてサマドは署長になったようですが、カットが変わり、サマドは警察を辞めて家族の元に戻るという。ナセルが退避された時の麻薬常習者は百万人だったが今や六百万人で、キリがないことへの虚しさをハミドに訴える。

 

ハイウェイ、たくさんのパトカーから警官が降りて来る。渋滞している車を縫って中央分離帯に迫ると、蟻のように大勢のホームレスが逃げ惑う。こうして映画は終わる。重々しい社会テーマの作品ですが、裁判シーンでの様々な境遇の罪人たちの行動は胸に迫るものがあります。映画的なシーンもふんだんに描かれ、作品としてもクオリティの高い一本でした。

映画感想「わたしの叔父さん」「ダニエル」

「わたしの叔父さん」

なるほどそういうことね、と映画ファンを唸らせる映画だった。淡々と繰り返される物語、これという抑揚のない展開、時々挿入される美しい風景にカット、そして主人公クリスの表情の変化、その全てに物語が描かれている見事なヒューマンドラマだった。監督はフラレ・ピーダセン。

 

一人の女性クリスが朝起きて身支度をしている。農場の世話をするために起きたのである。同居しているのは脳梗塞で体の不自由な叔父さん一人。時々獣医のヨハネスがやってくる。クリスは獣医志望で大学にも合格したが、叔父さんの農場の世話で、いっていない。しかし、獣医の本を常に読み、ヨハネスについて獣医の仕事を手伝ったりしている。ヨハネスもクリスに獣医の本などを持ってきたりして応援する。クリスの父は自殺したらしいが何故自殺したかは語られない。

 

そんな彼女は教会の合唱でマイクという青年を見つける。彼もまた農場を引き継いでいた。マイクはクリスを食事に誘う。そんなクリスに叔父さんはヘアアイロンを買ってやったりする。そしてデートの日、なんと叔父さんもついてきた。というより、クリスが心配で連れてきた感じである。

 

叔父さんもいつまでもクリスに頼れないと思ったのかリハビリの女性を呼んだりする。そんな時、ヨハネスはコペンハーゲンの大学で講義をするから行かないかとクリスを誘う。悩むものの、二晩程度だからとヨハネスに諭されて、コペンハーゲンへ向かう。しかし、約束の時間にクリスが電話しても出ないので、ヨハネスが妻に見にいってもらうと、何と滑って転んで意識を失っていた。入院した叔父さんを献身的に看病するクリス。そしてマイクの優しい言葉も受け付けない。

 

退院した叔父さんはクリスと一緒にまた元の生活に戻る。クリスはヨハネスに貰った本や叔父さんに買ってもらった獣医用の聴診器なども返してしまう。そして、クリスは以前と同じく叔父さんと食事を始める。クリスが何か言おうとして暗転、映画は終わる。

 

なるほど、そういうことかと唖然としてしまいました。周りが良かれと思ってクリスに近づいて来ること自体が全く意味がないことで、余計なことなのである。普通の人が考える価値観が全てではないことを淡々と繰り返す物語で見せていくという映像表現に圧倒されてしまった。美しい景色のカット、巨大な農機具を洗う姿、牛の中で働くクリスと叔父さんの場面、全てが順風満帆なのだ。邪魔をしているのは周りなのではないのか。自分の価値観を他人に押し付ける無意味さを見事に描き切った作品という一本でした。

 

「ダニエル」

典型的なB級ホラーで、これという面白みもない映画。ただ、アーノルド・シュワルツネッガーとティム・ロビンスの息子が出ているという話題だけで公開された感じです。監督はアダム・エジプト・モーティマー。

 

カフェの場面から映画は始まる。そこへ突然ライフルを持った男が入って来て乱射。カットが変わるとヒステリックに喚く女がいて、夫らしい男が罵倒している。それを見ている男の子ルーク。居た堪れなくなり出ていくと、カフェでの惨殺現場に出くわす。このオープニングは見事。

 

やがてルークは母と二人きりで生活するようになるが、友達のいないルークは架空の友達ダニエルを作り出す。しかし息子の様子がおかしいと思った母は、ドールハウスの中にダニエルを閉じ込めた風にして鍵をかけさせる。そしてルークは大学生になる。

 

寮で暮らすルークだが、母が次第におかしくなって来るに及んで、彼女を病院へ入院させる。しかし自分もいつか狂うのではないかと考え始める。そんな時、幼い時にダニエルを閉じ込めたドールハウスを思い出し、鍵を開けてしまう。一方、ルークは街でキャシーという画家志望の女性と知り合う。この辺りまでは実によくできているのだが、ここからラストまでとにかく羽目を外してグダグダになっていくのである。

 

映画は、ルークがダニエルと行動を共にし、キャシーと過ごしたり友人と遊んだりするうち、次第にダニエルがルークに占める割合が増えてくる展開となる。まあよくある流れで、後はどう治めるのかということなのだが、ルークは心療内科に通い始めていて、そこでダニエルのことを相談する。というのもみるみる過激になるダニエルに恐怖を覚え始めたためだ。

 

薬を処方して貰ったが効かないので、医師は東洋医術で治療しようとする。ところが眠ったルークの傍に実態となったダニエルが現れ、ルークの体を乗っ取り医師を殺してしまう。そして、肉体を持ったダニエルはキャシーのところへ向かう。と、この辺りになるともうやりたい放題である。

 

一方のルークはどこかに閉じ込められた。そこから何とか逃げようとする。そこで、冒頭でカフェを襲ったジョンという男と会う。彼もダニエルという影に操られたのだ。と、この辺りから心理サスペンスではなくオカルトサスペンスになってしまう。ダニエルは悪魔の化身か何かのようになる。そして、キャシーを襲っているダニエルとルークは対決し、屋上から二人とも飛び降りて大団円。前半はしっかりできていたのに後半、どうしようも無くなって、とりあえず締めくくった感じで、全く救いのないラストだった。

映画感想「愛染かつら」(新版総集編)「帰郷」(大庭秀雄監督版)「夢みるように眠りたい」

「愛染かつら」(新版総集編)

前篇、後篇、続篇、完結篇を再編集してまとめたもので、幾度も映画化されている最初の映画です。これということもなく、ただ、時代を楽しむ一本でした。監督は野村浩将

 

主人公かつ江が娘と散歩しているシーンから、独身であることが条件だという看護婦たちからの責めに切々と事情を話す冒頭場面、そして病院の御曹司の博士号取得のお祝いで歌を歌う場面につながる。

 

あとは、愛染かつらの木で愛を誓い合うものの、ふとした行き違いから誤解が生まれ、やがてクライマックスのハッピーエンドに流れていく。当時熱狂したであろうすれ違いの恋愛劇と、当時モダンであった恋愛の夢物語の組み合わせに、ノスタルジックな感動を覚えてしまいました。一世を風靡し、時代を翻弄させたほどのこういう古い映画は本当に良いです。

 

「帰郷」

これは良かった。単純な人間ドラマ、人生ドラマなのにここまで胸に迫ってくるのはどういうことだろう。主演の佐分利信のの圧倒的な演技力もさることながら、周辺の人物がなんとも言えない世界を構築していく。これこそ日本映画全盛期の力量というものでしょう。ラストシーンにはなぜか胸が熱くなって動けなくなってしまいました。名作。監督は大庭秀雄

 

時は1944年のシンガポール、一人の水商売の女性左衛子がルーレットをしている。隣に中国人風の男守屋が座っている。どこか守屋が気になる左衛子だが、彼は危ない人物だからと友人に教えられる。しかし、まもなくして、左衛子は守屋を紹介される。守屋は実は日本人で、海軍にいるときに不正の責任をとって海軍をやめ、逃亡生活のようなことをしていた。本国日本には妻も娘もいるが、行方不明の守屋はすでに死んだことになっていて、墓もあるという。そんな守屋と左衛子は一夜を過ごす。やがて終戦となる。

 

時は1947年、東京で水商売を始めた左衛子は、たまたま守屋伴子という女性と知り合う。それはシンガポールで一夜を共にした守屋の一人娘だった。左衛子は守屋が日本に戻っていること、しかも妻や伴子にも会っていないことを知る。伴子の母節子は隠岐という政治家志望の野心家とすでに結婚していた。隠岐も決して悪い人間ではないものの、伴子は守屋の日本での居場所を左衛子の店で働く男に突き止めてもらう。

 

伴子は左衛子と共に京都にいる守屋を訪ねる。左衛子は会わず、伴子だけが守屋と会い、守屋が父であるとわかる。そして食事だけして、タクシーで駅に向かう。このタクシーの中の守屋と伴子の会話シーンが素晴らしい。さりげないやり取りなのに、佐分利信の演技力の迫力でじわじわと父親としての存在感が伝わってくる。

 

東京に戻った伴子は父や母に責められるも守屋に会ってきたとは言わない。左衛子はあの時、守屋に会えば良かったと後悔している。そんなとき、伴子の今の父隠岐の講演の場に守屋が現れる。隠岐は守屋が現れたことは何もかもに悪い方向に進むかのように嗜める。それは決して責めているわけではなく、その言葉に守屋も自らの居場所はすでに日本にないことを知る。そして、日本を離れることを決心するが、最後の夜、左衛子が守屋を訪ねる。そして自分も連れていって欲しいという。守屋はカードで左衛子の気持ちを汲むかどうか決め、そして負けた左衛子は残らざるを得なくなる。そのゲームは守屋のイカサマだった。

 

守屋は自分の墓に参ったあと日本を後にする。こうして映画は終わるが、その余韻の深さにしばらくは感動が消えない。墓地をさる守屋の姿、その背中に、戦争が起こした悲劇が浮かび上がってくるのである。まさに名作。その名にふさわしい作品でした。

 

「夢みるように眠りたい」デジタルリマスター版

以前から見たかった一本に、ようやく見ることができました。登場人物の台詞はサイレントで、効果音や背景の人物の言葉だけがトーキーで聞こえるという、ちょっと自主映画のような作品、林海象監督長編デビュー作です。

 

怪盗黒頭巾のチャンバラシーンを撮影しているような場面から映画は始まる。しかしこの作品「永遠の謎」は警視庁の検閲によってラストシーンが撮影されず、幻となった。

 

時は昭和初期の東京に移る。私立探偵魚塚のところに、月島桜と名乗る老婆から娘の桔梗が誘拐されたと電話が入る。最初は取り合わなかったが、執事らしい老人が現れ、身代金と捜査費用を手渡され、魚塚は助手の小林と捜査に乗り出す。しかし、最初の謎が解けたかと思うと桔梗は姿を消し次の身代金と謎が残される。魚塚は謎を解いていきながら、次々と追加される身代金を持って桔梗を探すが、いつのまにかドラマのように出来すぎていることに気がつく。

 

そして、ついに追い詰めた魚塚だが、そこには「永遠の謎」の撮影のクライマックスと重なっていた。さらに、月島桜こそ桔梗であり、自分の幻の映画を完成させるべく桜が計画した事件だとわかる。こうして目的を果たした桜は命を閉じていく。

 

シュールな中に、昭和初期のノスタルジーをあちこちに散りばめ、感性の全てを注ぎ込んだような自主映画的な作風はなかなか近年見かけなくなった映画です。決して劇的でもなんでもないのですが、映画ファンとしてみて良い一本だった気がします。

 

映画感想「人妻椿 前篇」「人妻椿 後篇」「暖流」(再編集版 吉村公三郎監督版)

「人妻椿」(前篇)野村浩将監督版

次から次へと間断なく不幸に見舞われていく主人公の物語は、退屈しないと言うより、突っ込んでしまうくらいだが、娯楽映画としては良くできているのかもしれません。戦前の昭和11年の映画なのにテンポがとっても良い映画です。監督は野村浩将

 

順風満帆の矢野家の夫婦と息子の姿から映画は幕を開けます。矢野を孤児院から救い出して今の地位に育てた恩人の有村社長は、ある男に贈収賄の証拠を突きつけられ、思わず銃で撃ち殺してしまいます。それを、恩のある矢野昭が身代わりになり、大陸へ逃亡。残された妻嘉子と息子を有村社長は面倒を見ると約束するが、俄かに死んでしまう。

 

経緯を知らない有村家の長男夫婦は、嘉子に冷たく当たるが、長男は色気を出して、矢野の夫昭は大陸で瀕死の状態だと言う偽手紙を情婦にせんと金を貸したり店を持たせたりする。しかし、裏を知った嘉子は逃げる。ところがここに、彼女を女優として認めた草間という金持ちの男がいた。有村家の長男も、会社のために妹を草間と結婚させようと画策しているが断られる。

 

一方未亡人となった嘉子は、実家の父を頼ってくるが、生活の苦しい父は網元の男に未亡人を引き合わせ、網元はその父を海で死なせてしまう。あわや網元に嫁がせられる嘉子だが、その村の和尚の計らいで脱出。

 

ところが、嘉子がビル火災に巻き込まれ、たまたま、網元と草間が、叫ぶ未亡人を発見し助けに入るというところで前篇が終わります。本当に、突っ込んでしまうくらい次々と不幸に見舞われていくのはある意味小気味良いですね。

 

「人妻椿」(後篇)

あれよあれよと言う間にラストシーンという駆け抜けるような仕上がり。カットしてるんじゃないかと思うほどに説明シーンはすっ飛ばしでしたが、まあ面白かった。監督は野村浩将

 

火事で焼け出された嘉子、そして彼女を助けるため重傷を負った草間と網元の病院での場面から映画は始まる。そして、退院した嘉子はかつての女中の家に厄介になるが、いづらくなり出ていく。しかし子供が肺炎になる。一方草間は、嘉子にお礼の金を渡すべく嘉子のいた女中の家を訪ねるが、すでに嘉子はいない。しかし三千円という金を女中に託しアメリカへ旅立つ。

 

一方嘉子は、生活のために芸者になる。そこで、かつて有村に殺されたギャングの兄貴分近藤というのに出くわす。そんな頃、嘉子の夫矢野は成功して戻ってる。そして、嘉子の女中も再び嘉子を見つけ、逃すために画策をする。ところが嘉子は、待ち合わせの駅に行けず近藤に連れ去られる。しかし、矢野は、有村に会い、成功して得た金を有村に託し、全てのことを水に流すと言うと、有村も改心する。そして、有村の事件の真相を明らかにして矢野の無実を証明する。やがて矢野も嘉子と会い、嘉子の実家で法事をする場面で映画は終わる。

 

とまあ、ドタバタのクライマックスですが、悪人が次々とあっさり改心すると言う流れもツッコミどころ満載、単純明快な流れなので、素直に主人公の行く末を追いかけることができるので肩が凝りませんでした。

 

「暖流」(再編集版 吉村公三郎監督版)

以前、増村保造版を見たことがあるが、こちらは現存するのはこのフィルムだけらしい戦前の吉村公三郎監督版。正直たんたんと流れる一昔前の恋愛ドラマという感じで、これと言うのめり込めるものはありませんでした。

 

大病院の院長の娘啓子が指の怪我で訪れる場面から映画が始まる。彼女に気がある笹島医師が担当。経営が傾いているこの病院の院長は日疋という男を立て直しのために雇い入れる。病で余命わずかを知った院長は病院をスムーズに引き継ぐべく雇い入れたのだ。日疋は、看護婦の一人石渡に声をかけ、病院内の人事の裏話を聞き取ることを始める。

 

しかし、いつのまにか石渡は日疋に仕事以上の感情を持ち始める。一方日疋は、何度も自宅に出入りするうちに院長の娘啓子を思うようになり、啓子も日疋のことが気になり始める。啓子に気がある笹島は啓子に結婚を申し込むが、女癖の悪い笹島を問い詰め、啓子は笹島から離れる。そんな頃、仕事が一段落してきた中で、日疋は啓子に結婚を申し込む。しかし色良い返事をもらう前に、啓子は石渡の日疋への気持ちを察し、自分は身を引くことを決意し、石渡の背中を押してやる。

 

石渡は病院を辞めたが、日疋の家を訪ねる。そこへ啓子にふられた日疋が帰ってくる。そして日疋は石渡と結婚を決める。仕事が最終段階に入り、別荘に住んでもらっている啓子とその母の元を訪ねた日疋は、夜明けの海岸で、石渡と結婚することに決めたことを啓子に話す。啓子は日疋に気づかれないように涙を流して映画は終わっていく。

 

吉村公三郎らしいシンメトリーでしっかりとした構図の画面を繰り返す映像は、品の良さを感じさせますが、物語にハリが生み出しきれず、ちょっと退屈な流れになった感じです。二部作で作られたものを再編集で一本にしたためにリズムが狂ったのかもしれないのは残念。

映画感想「樹海村」「哀愁しんでれら」

「樹海村」

まあ、「犬鳴村」よりはそれなりに面白かったです。でも、理由づけが全くできてないので、ただのホラー場面の連続という感じでした。監督は清水崇

 

樹海村の自殺者をパトロールしているのでしょうか、車に乗った男女が走っていると、幼い姉妹が飛び出してくる。タイトルが終わると、いかにもなYouTuberみたいな女の子が自撮りしながら樹海の中に入り、突然パニックになって倒れてしまう。そんな心霊サイトばかり見ている引きこもりの少女響のカットに変わる。姉の鳴が話しかけても無視するように仲の悪い姉妹。

 

結婚する友達の引っ越しの手伝いに行った響と鳴、そして鳴の彼氏でお寺の息子と山間の家に行きその軒下で古ぼけた箱を見つける。その箱は決して調べたりしてはいけないものだと響は言うが、この家の管理人がその箱を持って帰ろうとして車に轢かれる。

 

寺の息子がその箱を父の寺に持ち込み、その住職はお祓いをしようとするが、何物かを感じる。直後、寺は全焼し、箱を燃やそうとしている響の姿が防犯カメラに映っていて、響は病院へ入る。しかし、鳴らの周りでは不思議なことが起こり始め、結婚した友達の奥さんが行方不明となる。そして、鳴とその恋人らが樹海に消えたらしい奥さんを探しにいくが、パトロールの人たちと出会う。さらに、行方不明の奥さんは木の中に取り込まれていた。

 

一人戻った鳴は響の部屋のカーペットの下に不気味な地図を発見する。あの不気味な箱は、昔、樹海に捨てられた人々が作った樹海村にあった呪いの箱だった。鳴はその地図に則って箱を返すために樹海へはいっていくが、そこで、樹海村の人々に捕まる。しかし、彼女を助けたのは、鳴と響が幼い時に自殺したと聞いている母親だった。鳴らの母は、呪いの箱を樹海に返しに行って自らを犠牲にして娘たちを守ったのだ。というか、なんで、その箱が身近なところに現れるのかの理由づけが全くない。

 

鳴は母と脱出するが、母は樹海の洞窟に落ちてしまう。鳴に襲いかかってくる樹海村の化け物。そんな鳴を助けたのが入院しているはずの響だった。そして、響は自らを犠牲にして鳴を逃す。

 

時が経ち、鳴は結婚して子供がいる。その子供が物置に入っていって、響ちゃんと呼ぶと、そこにあの呪いの箱があって映画は終わる。で、結局、どういう解決したのか良く分からないエンディングでした。さすがにクライマックスの絵作りは、清水崇の才能が出ていて、安っぽくなかったのは良かった。

 

「哀愁しんでれら」

久しぶりに、毒のある日本映画の傑作に出会いました。ストーリー構成の面白さ、先の読めないワクワク感、従来の価値観を覆す奇抜さ、キャスト選定の成功、などどれをとっても工夫がみられ本当に面白かった。土屋太鳳は嫌いな女優なのですが、それを払拭して、拍手してしまいました。監督は渡辺亮平。

 

一人の女性が教室の机の上を歩く逆さまの映像から映画は幕を開けます。上品なドレスを着た彼女が白衣を脱ぎ捨てて、彼方に去って物語は始まる。児童相談所で仕事をする小春はこの日もある家庭を訪問していた。まともに相手をしない母親の手を力ませに掴んで、必死で子供の無事を確かめようとするが、奥から出てきた子供は手を振るだけ。職場に戻った小春は行き場のないストレスをぶつける。

 

母が突然家を出てから母代わりに高校生の千夏、そして父の面倒を見ている小春。自転車屋を営む気のいい父親、この日も疲れた小春はカレーを作り千夏に悪態をつかれながらも楽しい食卓。同居の祖父が突然風呂場で倒れ、父が慌てて病院へ車で連れていくが途中で酔っ払いの自転車を避けたために事故を起こす。救急車で病院へ連れて行った小春たちだが、火の不始末で自宅が火事になっている。そして一階の自転車店が燃えてしまい、父は就職先を探す羽目に。この導入部の畳み掛けが実に鮮やかで小気味いい。

 

踏んだり蹴ったりの一夜の後、小春は夜道、たまたま酔っ払いが踏切の中で倒れてしまったのを目撃、見過ごそうと思ったが助けてしまう。渡された名刺には、開業医であることを示す文字があった。小春の友達に背中を押され、助けた男性大悟とデートをするが、大悟には小学生の娘ヒカルがいた。ヒカルと小春はすぐに意気投合し、大悟と小春の仲もどんどん発展、さらに大悟は千夏の家庭教師を務めた上に、小春の父の就職も世話し、祖父の入院先まで手配する。とんとん拍子に進む中、当然のように小春と大悟は結婚する。

 

このまま普通に終わるはずはないと見ていたら案の定で、ヒカルはみるみる赤ちゃん返りをし始め、一方、学歴や教養に極端に拘る大悟の本性も現れてくる。ヒカルは小春が毎日持たせてくれている弁当を食べずに、弁当は作ってくれないと学校では言っていたり、小春にもらった筆箱をトイレに捨てていたりする。小春はヒカルの本性が見えてくるに従い、母親としての自分はどうするか悩む一方で、なんとも言えないストレスに押しつぶされていく。

 

そんな時、ヒカルのクラスの女の子が窓から落ちて死んでしまう。その子はヒカルがひそかに好きな男の子といつも仲良くしていた女の子だった。ますます追い詰められていく小春は、ある時、大悟の部屋で大悟が大切にしているうさぎの剥製を壊してしまい、それをヒカルに見られ、あまりにヒカルが極端に大騒ぎするので、つい叩いてしまう。ところがそれが大悟にバレ、完璧を求める大悟は小春を追い出す。しかし、ヒカルが泣きついてくる。それでもその場を去る小春。

 

何もかもに疲れた小春は、自暴自棄になり線路の中で倒れてしまう。あわや電車がという時、大悟が駆けつけ小春を助け、もう一度やり直すことに。小春は母親として生きる覚悟を決める。一方大悟も、今までの思い出などを捨て、小春、ヒカルと三人で生きる決意をする。そんなある時、ヒカルの靴が学校で盗まれる。大悟と小春は学校に駆け込むが、そこに、ヒカルのクラスメートの男の子が、クラスの女の子を突き落としたのはヒカルだと言う。

 

家に落書きをされたりする大悟たちだが、小春は、自分たちがヒカルのためにできることはまだあると言う。校医でもある大悟は新型インフルエンザの予防接種の仕事が間もなくある。そこで、ある計画する。

 

そして、予防接種の日、大悟は手際良く注射をしていく。傍には看護服姿の小春がいる。一人の少女が小春に、ヒカル宛の手紙を渡すが小春は読まない。接種が終わり、小春はもらった手紙を読む。ヒカルの無実はみんなわかっていると書いていたが小春は無視する。

 

まもなくして、教室で、たった一人の生徒ヒカルに小春が算数の授業をしている。大悟もその場にいる。廊下では大勢の子供たちが死んでいる。ワクチンの代わりにインシュリンを注射したのだ。映画の冒頭で、糖尿病の注射をする小春の父親が呟いた一言がここで生きてくる。こうして映画は終わる。

 

日本映画もやるじゃないか。このタイミングで、ここまで毒のある物語を臆面もせずに平然と演出し、仕上げたスタッフたちに拍手したい。サスペンスとしても面白いし、現代の学校や親のあり方へのブラックユーモアも効いている。良い人役ばかりの土屋太鳳、田中圭の配置も上手い。絵作りもなかなか凝っていて面白い。大傑作と拍手したい一本でした。