くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal 後編」「ウォーデン 消えた死刑囚」

「劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal後編」

闇のサーカス団によってピンチになったセーラーマースたちの場面からカットが変わり、ネプチューンらお姉様方三人のシーンへ。今や娘をネプチューン、ウラヌス、プルートの三人で育てるが、娘はみるみる成長しやがてサターンとなる。そして目覚めたセーラーサターンはちびウサたちのピンチを救うべく旅立つ。

 

一方闇のサーカス団の四姉妹は実はデスムーンの女王ネヘレニアに操られていたのだった。ネヘレニアはかつてプリンセスセレニティの母が女王であった頃、光の月の国に入り込んで闇の世界を広めて来た女王だった。

 

エリオスの必死の浄化作用で、何とか胸の苦しみから脱出したセーラームーンとタキシード仮面はセーラー戦士たちと力を合わせ最後の戦いに臨んでいく。と物語は単純なのだがいかんせん説明シーンがくどくて頭がいっぱいになってしまった。

 

そして、ネヘレニアを倒したセーラームーンたちは晴れて地球に光をもたらし平和になってハッピーエンド。そして物語は続くで映画は終わる。って、続くんかい!ということです。

 

まあ、懐かしさだけで見に行った映画なので多くは求めませんが、それなりにドキドキしている自分がいました。

 

「ウォーデン 消えた死刑囚」

なかなか面白い一本で、何気ない恋物語かなんかのオープニングから何のことはないサスペンスが次第にじわじわと人間ドラマに転換していく。それでいて、どこかホラーテイストさえ盛り込まれた面白ささえ見え隠れする。映画を楽しんだという感じで堪能できました。監督はニマ・ジャウィディ。

 

ある刑務所、絞首台を撤去しようとしている場面から映画は幕を開けます。ようやく土台だけ取り外したところで、カメラは引越し作業をしているような刑務所内のドタバタへ。所長のヤヘド少佐は囚人たちを新しい刑務所に移送する業務に奔走している。新しいところで絞首台を作って欲しいと高齢の男に頼むが良い顔をしない。上官がやってきて、出世を約束した言葉を告げると、部屋の裏に入ったヤヘド少佐は小躍りして喜ぶ。そんな彼の部屋に電話が何度もかかってきている。

 

上官が帰った後、電話を聞いてみると、一人の死刑囚が行方不明だという。事情を聞くためソーシャルワーカーを呼ぶが何とそれは美しい女性だった。ヤヘド少佐は、行方不明になったアフマドという囚人が実は15年の刑から死刑に変更されたことを聞く。間も無く、アフマドの妻と娘というのがやってくる。刑務所内に隠れているはずだからと取り壊すのはまってくれと懇願したりする。

 

しばらくすると、取り壊すための重機がたくさんやってくる。皇后がやってくるための空港の拡張のため、今夕までに取り壊しをし終えないといけないのだという。どうやら行方不明の囚人は靴墨を塗って逃げたようで、靴墨の痕跡のあるところをあちこち調査するが一向に見つからない。やがてソーシャルワーカーの女性は一旦刑務所を離れるが、しばらくしてまた戻ってくる。しかもアフマドは無罪で、殺人は事故だったのだと訴える老人も現れる。ヤヘド少佐は、独房の中を調べていて突然ドアが閉まって出られなくなったりする。ソーシャルワーカーの女性も実はアフマドの逃亡のために、刑務所内を撹乱するため戻ったのだ。

 

女性の行動に不審を持ったヤヘド少佐は、彼女を逃亡幇助だと責める。ヤヘド少佐は、刑務所内に隠れていると確信し、ガスを充満させて燻り出そうとするが見つからない。刻限が迫ってくる中、ヤヘド少佐はこのままここを立ち去ろうとする。そして立ち去ったふりをして、離れたところから刑務所を監視してみると、一人の男が出てくるのを見つける。ところがヤヘド少佐らの動きを不審に思ったソーシャルワーカーが戻ってきたことで、アフマドはまた刑務所内に逃げ込む。ヤヘド少佐はもう一度探そうとするが結局見つからず、そこへ上官が、辞令を持ってくる。腹を括って荷造りをしたヤヘド少佐だが、アフマドが落としたらしいお守りの中のメモを発見、そして、新しいところへ持っていく絞首台の中に隠れていることに気がつく。

 

ヤヘド少佐が絞首台を乗せたトラックを追う。ソーシャルワーカーも追いかける。そして追いついたヤヘド少佐は絞首台の台座を覗くと隠れているらしい息遣いを認めた。万事休すと思ったソーシャルワーカーだが、ヤヘド少佐は、自分のジープに積んでいたアフマドの荷物をそっと台座の横に置き、トラックに出発の合図をする。こうして映画は終わる。

 

どこかコミカルなところもある憎めないサスペンスで、独房内で出られなくなるというホラーテイストな場面や、靴墨をヒントに探す推理もののような味付け、さらにソーシャルワーカーに気があるヤヘド少佐の子供じみた描写など、愛くるしいほどに楽しめる。イスラム革命前のどこか重々しい背景のはずなのにこの軽さはどうだと言わんばかりに面白かった。

映画感想「私は確信する」「心の傷を癒すということ 劇場版」

「私は確信する」

非常に見応えのある力作で、細かいカットの積み重ねと極端なクローズアップで作り出す緊張感が最後まで物語の気を抜くことがない。しかし、頭から最後まで徹底したその演出は、一方で、無罪判決のために執拗なくらいに凝り固まって奔走する主人公ノラの姿と重なり、こういう姿勢こそが冤罪を生み出すのではと言わんばかりの逆説的な表現になってくる。実在の事件「ヴィギエ事件」の被疑者ジャックが無罪となるまでの物語を架空の人物ノラを通じて描く法廷サスペンスですが、作者の意図は裁判の行方では無いというのもわかります。退屈はしなかった。監督はアントワーヌ・ランボー

 

まずヴィギエ事件についての説明文から映画は幕を開ける。ここを的確に映像で見せようとしなかったのは、この後の本編が混乱するためだろうが、いわゆる、真逆に近いほど裁判のやり方が異なるためやむを得ないのでしょう

 

一人の女性ノラが、一旦釈放となったものの約十年後第二審が決定し、再び法廷に立つことになったジャック・ヴィギエの弁護を敏腕弁護士デュポンに頼む場面から映画は始まります。ノラには一人息子がいてその家庭教師をしてくれている父親がジャック・ヴィギエだったのだ。

 

ジャックの妻スザンヌはある日失踪し、夫であるジャックに殺人の疑いがかかり。しかし、確たる証拠がないまま釈放となる。しかし、マスコミの過剰な報道と検察側の威信もあり再び彼を殺人罪として法廷に立たせる。ノラは最初の裁判では十分に確認されなかった膨大な量の通話記録をデュポンを通じて手に入れ、その分析をアシスタントとして任される。

 

ノラは一人息子と暮らすシングルマザーだが、次第に裁判にのめり込んでいき、仕事先も息子のこともおざなりになり始める。執拗なくらいにジャックの無実とスザンヌの愛人デュランデの殺人の嫌疑の証明に奔走していくノラ。彼女の鬼気迫る行動は時にデュポン弁護士を苛立たせるまでになって来る。しかし、膨大な通話記録を整理していく中で、いかに警察の捜査が雑であったか、証人達の証言が曖昧で偽証も含むものであったか、そしてそんなことに拘らず裁判が進められて来たかが見えてくる。

 

そして、判決の日、ジャックは無罪となり物語は終わっていく。日本などと裁判の形式が違う上に、具体的な証拠による裁判というより心象や感情による判決が優先されるという裁判のやり方への疑問のメッセージを全面に押し出してくる演出はなかなかの迫力で、法廷劇の面白さと作者のメッセージが両立したなかなかの秀作という感じでした。

 

「心の傷を癒すということ 劇場版」

素直に何度も泣いてしまいました。映画全体が優しくて癒される秀作でした。こういう良い映画をたまには見ないと心が荒んでしまいますね。神戸の精神科医安克昌氏の著書を原作にしたNHKドラマの劇場版再編集作品ですが、本当に心が清められてしまいました。監督は安達もじり。

 

時は1970年の日本万博の年、神戸に住む安田家の三人の幼い兄弟のシーンから物語は幕を開けます。母の鏡台からから外国人登録証を見つけ、自分たちが在日韓国人だと知ります。父は事業家で、子供たちにも世の中の役に立つ人間になれと厳格に育てていました。長男は東大へ進みますが、次男の和隆は、中学時代から尊敬する精神科の先生に惹かれて、医学部に進み精神科医を目指します。そんな和隆を父は厳しく非難します。

 

やがて、映画館で知り合った終子と結婚、間も無く子供が生まれます。しかし、阪神淡路大震災が起こり、和隆は自分に何ができるのかと悩みます。しかし、精神的に支えること、自分ができる範囲で一生懸命働くことを実行していきます。

 

新聞社の求めに応じて、被災地での出来事を本にし、それが賞を取ることになりますが、そんなころ、父は病で亡くなります。亡くなる前、父は和隆のことを誇りにしていました。

 

ところが、ある日、腹部に痛みを覚えた和隆は、検査で癌が見つかります。間も無く三人目が生まれようとする頃、三人目の子供に光と名付けて和隆は死んでいきます。

 

セリフの一つ一つ、場面の一つ一つが実に優しい作品で、四話のテレビドラマを見事に一本の作品にまとめられていて、本当に良かったです。

映画感想「ろまん化粧」「すばらしき世界」

「ろまん化粧」

入り組んだ男女が織りなす恋愛模様という感じで、どれという核の話もなく、ただ入り乱れて雑多な展開となる。まさに映画黄金期のプログラムピクチャーという空気の映画でした。監督は穂積利昌。

 

パリで学んできたヘアスタイリストの女性が日本へやって来るところから映画は始まる。彼女を迎えにきたのは美容室を営む掛井だが、空港で新聞社の真木という男と出会い一目惚れしてしまう。しかし、掛井の所の専属モデルの一人木塚の弟隆が掛井に一目惚れしてしまい、強引にキスをする。しかし掛井にその気がないため、自暴自棄になった隆は大学を辞め、真木の紹介で出版社に勤める。しかし、そこの上司の女性と良い仲になり生活は荒れてくる。

 

一方、あるミスコンに出場した真木の妻の妹が見事優勝し、どんどん有名になっていく。そんな話の合間に掛井は大会社の重役風間と見合いすることになる。しかし、どうにもいけすかない風間に愛想を尽かした掛井は、やはり真木を忘れられない。しかし、真木の心が定まらず、たまたま出会った隆と一夜を過ごしてしまう。

 

直後、掛井は真木から結婚を申し込まれるが、すでに遅いと断る。そんな時、サラリーマン仲間に恨まれた隆はチンピラに刺されて死んでしまう。死ぬ直前、掛井は真木を愛していると言って息を引き取る。

 

掛井はフランスにもう一度行くというヘアスタイリストと飛行機で旅立って映画は終わる。って、結局何なのだという物語ですが、今みれば当時の世相や風俗が垣間見られる面白さがあります。

 

「すばらしき世界」

なんとも嫌味な映画である。映画としてはよくできた作品だが、ラストで初めて出るタイトルクレジットで一気に嫌な気分になってしまった。何でもっと素直にたのしめる映画を作ろうとしないのだろう。「ヤクザと家族」とほぼ同じテーマを扱っているが、あちらが男目線のドラマ作りなのにこちらはインテリの女目線の作品になったように思えます。ヤクザとして生きたことによるペナルティを描く一方で、母親への追慕を終盤に盛り上げてくる。しかも、ラストで健常者たちがする行為に目をつぶれるようになった結果ああいうラストを迎え、そしてタイトルクレジット。これはどうなんだろうか。監督は西川美和

 

雪が深々と降る刑務所の場面から映画は幕を開ける。主人公三上が十三年の刑期を終え、北見の雪深い刑務所を出る日が来た。荷物を返してもらい、見送られてバスに乗る。今度こそ堅気になると呟く。そして、保護士の元へ出かけ、生活保護の申請をし、仕事を探そうとするも、すぐに昔の癖が出てキレて暴れてしまう。高血圧で薬を手放せない。このあたりの三上の描き方の描写がまるで聞かん坊の子供を描いているように見える。

 

ここに、刑務所から出て来た人物に焦点を当てて番組を作ろうとしている吉澤という女が、今は小説を書こうと頑張っているかつての同僚津乃田を誘い、三上が刑務所にいる時に自らの服役記録を綴った身分帳から母親を探してほしいという依頼に乗るという企画を進めようと近づいてくる。そして、津乃田らは三上に近づくが、三上がチンピラを袋叩きにするのをみて、津乃田は尻込みしてしまう。この後、吉澤も含め取材の二人は消えてしまう。

 

免許を取ろうとしてもうまくいかず、スーパーでは疑われてしまうがそこの店長と仲良くなる。生活保護課の担当者からも哀れみを受ける。しかし、どうにもうまくいかずもがく中、いけないと思いながらかつての兄弟分に電話をしてしまう。そして故郷の九州へ行った三上はそこで気楽に自分の居場所を見つけた気がする。ところが、そこにも警察が踏み込み、すんでのところで女将さんに助けられて脱出した三上は再び東京へ戻る。

 

心配していた津乃田は、かつての孤児院の手がかりが見つかったからと話し、自分が三上のことを小説にするから、元の状態に戻らないでくれと頼む。三上も受け入れ、孤児院へ行くが、三上の母親のことは結局わからなかった。このエピソードを入れた理由がどうも曖昧なのが気になりました。

 

三上は生活保護課の担当者の提案で介護施設にパートに行くことになる。さまざまなことに目を瞑って生きろと保護士らに諭され、それを頑なに守る決心をする。

 

ある日、三上が仲良くしている発達障害のある職員が健常者の若い職員にいじめられているのをみて、思わず手が出そうになるが、必死で三上は感情を抑える。そして、職員らが障害者をネタにふざける姿にも同調してしまう。

 

その帰り、障害のある職員から花をもらう。それを持って帰る途中、三上にかつての妻から電話が入る。出所祝いにご飯でも行こうという。今や人妻となり子供もいる元妻との会話にかすかに心が晴れる。雨が降ってくる。三上は家に帰るが、高血圧のためかそのまま死んでしまう。

 

駆けつける津乃田やスーパーの店長、保護士、生活保護課の担当者、映画はここで空にカメラが振られタイトル「すばらしき世界」と出る。醜いものに目を瞑って自分のことだけで生きる普通の人たちが作る世界がすばらしき世界になっているかと言わんばかりで、そうなって初めてまともになる三上を描くという嫌味さはさすがにいただけない。深読みしすぎかもしれないが、そのほか三上の脇の人物の存在感が今ひとつ薄いのが余計に嫌味さが目立つ仕上がりになった気がします。

映画感想「ファーストラヴ」

「ファーストラヴ」

面白くないわけではないのですが、と言って面白いわけではない。直木賞を取った原作の人間ドラマの厚みが映像に昇華できなかったという感じです。物語が重くて奥が深いのに、こちらに迫ってこない。脚本が悪いのか演出が悪いのかその弱点が見つからない映画でした。北川景子が綺麗すぎるというのが実は原因だったのかもしれない。監督は堤幸彦

 

某大学の美術棟の一室、一人の男性が血を流して倒れている。死んだのは有名な画家の聖山那央雄人。カットが変わり血のついた包丁を持ち歩いている聖山環菜の姿。被疑者の環菜は動機はそっちで見つけてほしいという供述をし逮捕されていた。公認心理士の真壁由紀は、彼女のことを本にすべく取材を始める。そして国選弁護士庵野迦葉に会いにいく。迦葉は由紀のかつての恋人であり、今は義理の弟であった。

 

由紀の夫真壁我聞は写真スタジオを営んでいるが、元は写真家であった。迦葉は母に捨てられ、叔父の家で育てられたが、そこにいたのが我聞で、二人は血のつながらない兄弟だった。物語は由紀が環菜との接見で次第に環菜の過去を探り出していく。環菜は小学生の頃、父の弟子たちのモデルをしていたが、全裸の男性モデルの間に佇むという構図で、幼い環菜には苦痛だった。その苦しみから自傷癖になっていた。

 

そんな彼女に優しくしてくれたのがコンビニでバイトをしていた大学生裕二だった。そこまで調べていく由紀は、かつての自分の境遇との接点を見つけていく。由紀の父は海外出張の時に少女買春をしていて、そのことを母から由紀の成人式の日に聞く。由紀が幼い時、父の車のダッシュボードから少女の写真がたくさん出て来たことがあり、父が普通ではないと思っていたのだ。

 

由紀は、自分の子供時代の出来事を環菜にぶつけ、環菜の心を開かせようとする。そして環菜は、自分は父を刺していないと最初の供述を覆した。物語はここで大きく転換するはずなのだが、どうもドラマに大きなうねりが見えてこないし、由紀にしても環菜にしても、幼い頃の悲惨な境遇がこちらに迫ってこないのである。由紀は夫我聞に隠していた過去や迦葉との関係など全てを我聞に告白するが、我聞は薄々わかっていたとあっさり受け入れてくれる。

 

そして法廷、迦葉は環菜の無実を主張、証人らに供述も環菜に有利に見えたが、判決は実刑八年となる。由紀は裁判の後、トイレで手を洗う環菜の母の手首に自傷の跡を見つける。この辺りももう少し突っ込んだ演出をすべきだが、さらっと流してしまう。

 

エピローグ、環菜が服役する姿、由紀が我聞の写真展に佇む姿、迦葉がようやく家族になれたとつぶやく姿で映画は終わるのだが、どれもこれも心の底から訴えて来ているように見えない。芳根京子の法廷シーンの熱演や木村佳乃の悪母ぶりのスパイス的なシーン、我聞を演じた窪塚洋介の飄々とした佇まいはいい感じなのだがどうもうまく噛み合っていない。何とも通り一遍に滑って行った物語という出来栄えでした。

映画感想「秘密への招待状」「マーメイド・イン・パリ」

「秘密への招待状」

オリジナルを見てないので何とも言えないけど、良いお話なのですが、ちょっと古臭い感じの演出が気になり、女優二人の存在感が目立ちすぎて、肝心のドラマ部分が薄れてしまった感じですね。監督はバート・フレインドリッチ

 

インドで孤児院を営むイザベルが子供達と瞑想している場面から映画は始まる。俯瞰で捉えるカメラがまず一昔前の演出という感じである。経営が苦しく寄付を募るも集まらず苦慮しているところへ、ニューヨークの実業家テレサから寄付の申し出が来る。しかも破格の二百万ドル。イザベルは話を詰めるべくニューヨークへ向かう。

 

イザベルがニューヨークで会ったのは、会社経営者のテレサで、間も無く娘グレイスの結婚式を控えているので、イザベルにも出席してほしいという。ところが、出席したイザベルは、そこでかつての恋人オスカーと再会する。何とオスカーはテレサの夫だった。しかも、グレイスは、かつてオスカーとの間に生まれた娘だった。オスカーとイザベルは出産後の子育てに不安を抱え、出産と同時に養子に出すということで別れたのだ。ところがオスカーは娘を育て、しかもテレサと再婚していた。

 

偶然の再会と出来事にテレサやグレイスも含め混乱に陥る。実はテレサは病気で、余命幾ばくもなく、その中で会社を売却する決心をしたのだ。事情の変化に、テレサは寄付額を二千万ドルに引き上げ、グレイスとイザベルで基金を設立、イザベルはニューヨークに住むことにして、テレサはイザベルに、オスカーとの息子二人とグレイスの面倒を見てほしいと頼む。

やがて、テレサは亡くなり、グレイスはインドへ荷物を取りに戻る。息子のように可愛がっているジェイにも別れを告げて映画は終わっていく。

 

グレイスが離婚することになったと言うがその辺りの描写がちょっと弱い。さらに不必要な俯瞰撮影、おそらくドローンなのだろうが、が無駄な描写に思える。しかも、ジュリアン・ムーアとミッシェル・ウイリアムスの存在感が大きすぎて、ドラマ性が希薄になってしまったのが残念。オリジナル版はおそらくずっとよく仕上がっていたのだろうが見てないので何とも言えません。

 

「マーメイド・イン・パリ」

面白い題材になりそうなのに、ファンタジーにするのかラブストーリーにするのかドラマにするのか方針を決めて突き進めば良かったのに、センスのない監督のリズム感の悪い演出とどっちつかずの物語に、いったい何だったのかと言う作品でした。ただ、人魚役の女の子は可愛かったので許しましょう。監督はマチアス・マルジウ。

 

マペットアニメのようなコミカルなタイトルから、ローラースケートを履いた主人公ガスパールが颯爽とパリの街を疾走し、とある船上カフェに行く。そこは合言葉を告げると船底の特殊な店に入ることができて、ガスパールはそこで歌手として働いている。オーナーは彼の父である。このオープニングは実に素敵なのです。

 

このそばの桟橋に一人の男が甘い歌声に惹かれて運河の中に身を沈めていく。何やら妖しい雰囲気なのだがこの導入部が実に弱い。そしてガスパールは、桟橋で傷ついた人魚を見つける。人魚を病院へ連れていくが、そこで、ガスパールが目を離した隙に近づいた医師が人魚の歌声を聞いて死んでしまう。

 

ガスパールは、病院が取り合ってくれないのでオート三輪で自宅に人魚を連れ帰る。人魚の名前はルラと言って、自分の歌声を聞くと死ぬのだと言うが、愛を失ったガスパールには効果がない。このガスパールの悲劇の過去も全く描写されていないので、その後、終盤にかけルラに恋して来たガスパールが命の危険になるくだりに信憑性がない。

 

ガスパールの部屋のそばに世話焼きのロッシという女がいて、人魚の存在を知るが、普通に接し始める。一方、ルラに殺された医師の妻ミレナが執拗にガスパールを探す。ルラは二晩の後に海に帰らないと死んでしまうと言う。ルラに惹かれ始めたガスパールは、ルラと何とか暮らそうと考えるが、時間は迫って来る。この辺りが実に適当で、ラブストーリーの盛り上がりも、タイムリミットのサスペンスもない。さらに、ミレナはルラの血液を採取したり、ロッシが脱出を手伝ったり、もう終盤は支離滅裂になってくる。

 

ファンタジックコメディなのか、ラブストーリーなのか、はたまたサスペンスなのかとごちゃごちゃになり、最後はガスパールはルラを海に返しその場で気を失うが追いかけて来たミレナがガスパールの心肺蘇生をして助ける。て何やねんと言う感じである。ガスパールは、閉店した父の船を使って海の彼方へとルラを追って行って映画は終わる。まあ、何とも言えない雑な作品でした。

映画感想「ジャスト6.5闘いの証」

「ジャスト6.5 闘いの証」

サスペンスでもアクションでもない、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた社会ドラマだった。イランという国の圧倒的な描写、一見ただの麻薬捜査の物語かと思えば、次第に見えて来る本当の暗部。もちろん、麻薬取引を容認するわけではないが、その存在の裏にあるギリギリの人間ドラマに終始目を離すことができなかった。見事。監督はサイード・ルスタイ。

 

刑事の乗った車がとある建物にやって来るところから映画は始まる。そして、その建物に突入するが、売人と思しき男が見当たらない。一人の刑事ハミドが、屋根の上に映る影を見つけ、屋根から飛び降りた売人の若者を追いかけ始める。途中、持っていた麻薬を投げ捨て逃げる青年は、金網を乗り越える。ところがそこは残土を埋める工事現場の穴で、逃げ出せなくなる。一方、追って来たハミドは青年を見失う。青年の落ちた穴に、ブルドーザーが土を被せ埋めてしまってタイトル。このオープニングにまず引き込まれます。

 

麻薬撲滅チームのリーダーサマドは、麻薬組織の元締めナセルを逮捕すべく、人々に薬を売っているある家に捜査に入る。しかし証拠は見つからないなか帰ろうとして、麻薬犬がその家の主人の妻に吠えかかる。そして夫婦ともども逮捕。コンクリートの土管の中で薬を吸っているホームレスたちを一斉に取り締まり逮捕する。この時のシーンが物凄くて、どれだけいるのかわからないほどの人間が逮捕されるのは圧巻である。

 

サマドは逮捕した売人から、繋がりを辿って、組織の元締めナセルの居場所をかつてのナセルの恋人の女性の口から聞き出すことに成功。

サマドらはナセルがいるペントハウスに突入するが、ナセルは睡眠薬を大量に飲んでプールで意識不明になっていた。サマドはナセルから、密売のルートなどを聞き出し、そのつながりを究明していく。ナセルはサマドを買収したり画策するがサマドは取り合わない。

 

イランの裁判なので、いわゆる裁判官一人が聴取しながら調べていく展開となる。冒頭でハミドが取り逃した売人の事件が蒸し返されたり、ナセルの証言でサマドが押収した麻薬を一部着服したと責めてみたり、欧米や日本の裁判とは少し様相が違うので、最初は戸惑うが、そこに適当さはなく、公正に進んでいくから、映画としてしっかり見ることができる。

 

やがてナセルの刑が決まって来るが、自分が築いた財産が全て没収されるということになり、カナダに留学していた娘も帰らなければならなくなり、家なども全て取り上げられて、家族が泣き崩れるに及んで、ナセルは必死で家だけでも残してほしいと懇願する。逮捕された様々な人々の裁判のシーンの中でイランのスラム地域の、悲惨な現状を切々と描写するくだりは、胸に迫るものがあります。

 

ナセルは死刑が確定し、やがて死刑執行の日が来る。大勢を一度に絞首刑にする施設がいかにもイランという感じがしますが、その装置を点検する姿、そして一斉に執行されるのをじっと見つめるサマドの視線がどことなく痛々しい。

 

間も無くしてサマドは署長になったようですが、カットが変わり、サマドは警察を辞めて家族の元に戻るという。ナセルが退避された時の麻薬常習者は百万人だったが今や六百万人で、キリがないことへの虚しさをハミドに訴える。

 

ハイウェイ、たくさんのパトカーから警官が降りて来る。渋滞している車を縫って中央分離帯に迫ると、蟻のように大勢のホームレスが逃げ惑う。こうして映画は終わる。重々しい社会テーマの作品ですが、裁判シーンでの様々な境遇の罪人たちの行動は胸に迫るものがあります。映画的なシーンもふんだんに描かれ、作品としてもクオリティの高い一本でした。

映画感想「わたしの叔父さん」「ダニエル」

「わたしの叔父さん」

なるほどそういうことね、と映画ファンを唸らせる映画だった。淡々と繰り返される物語、これという抑揚のない展開、時々挿入される美しい風景にカット、そして主人公クリスの表情の変化、その全てに物語が描かれている見事なヒューマンドラマだった。監督はフラレ・ピーダセン。

 

一人の女性クリスが朝起きて身支度をしている。農場の世話をするために起きたのである。同居しているのは脳梗塞で体の不自由な叔父さん一人。時々獣医のヨハネスがやってくる。クリスは獣医志望で大学にも合格したが、叔父さんの農場の世話で、いっていない。しかし、獣医の本を常に読み、ヨハネスについて獣医の仕事を手伝ったりしている。ヨハネスもクリスに獣医の本などを持ってきたりして応援する。クリスの父は自殺したらしいが何故自殺したかは語られない。

 

そんな彼女は教会の合唱でマイクという青年を見つける。彼もまた農場を引き継いでいた。マイクはクリスを食事に誘う。そんなクリスに叔父さんはヘアアイロンを買ってやったりする。そしてデートの日、なんと叔父さんもついてきた。というより、クリスが心配で連れてきた感じである。

 

叔父さんもいつまでもクリスに頼れないと思ったのかリハビリの女性を呼んだりする。そんな時、ヨハネスはコペンハーゲンの大学で講義をするから行かないかとクリスを誘う。悩むものの、二晩程度だからとヨハネスに諭されて、コペンハーゲンへ向かう。しかし、約束の時間にクリスが電話しても出ないので、ヨハネスが妻に見にいってもらうと、何と滑って転んで意識を失っていた。入院した叔父さんを献身的に看病するクリス。そしてマイクの優しい言葉も受け付けない。

 

退院した叔父さんはクリスと一緒にまた元の生活に戻る。クリスはヨハネスに貰った本や叔父さんに買ってもらった獣医用の聴診器なども返してしまう。そして、クリスは以前と同じく叔父さんと食事を始める。クリスが何か言おうとして暗転、映画は終わる。

 

なるほど、そういうことかと唖然としてしまいました。周りが良かれと思ってクリスに近づいて来ること自体が全く意味がないことで、余計なことなのである。普通の人が考える価値観が全てではないことを淡々と繰り返す物語で見せていくという映像表現に圧倒されてしまった。美しい景色のカット、巨大な農機具を洗う姿、牛の中で働くクリスと叔父さんの場面、全てが順風満帆なのだ。邪魔をしているのは周りなのではないのか。自分の価値観を他人に押し付ける無意味さを見事に描き切った作品という一本でした。

 

「ダニエル」

典型的なB級ホラーで、これという面白みもない映画。ただ、アーノルド・シュワルツネッガーとティム・ロビンスの息子が出ているという話題だけで公開された感じです。監督はアダム・エジプト・モーティマー。

 

カフェの場面から映画は始まる。そこへ突然ライフルを持った男が入って来て乱射。カットが変わるとヒステリックに喚く女がいて、夫らしい男が罵倒している。それを見ている男の子ルーク。居た堪れなくなり出ていくと、カフェでの惨殺現場に出くわす。このオープニングは見事。

 

やがてルークは母と二人きりで生活するようになるが、友達のいないルークは架空の友達ダニエルを作り出す。しかし息子の様子がおかしいと思った母は、ドールハウスの中にダニエルを閉じ込めた風にして鍵をかけさせる。そしてルークは大学生になる。

 

寮で暮らすルークだが、母が次第におかしくなって来るに及んで、彼女を病院へ入院させる。しかし自分もいつか狂うのではないかと考え始める。そんな時、幼い時にダニエルを閉じ込めたドールハウスを思い出し、鍵を開けてしまう。一方、ルークは街でキャシーという画家志望の女性と知り合う。この辺りまでは実によくできているのだが、ここからラストまでとにかく羽目を外してグダグダになっていくのである。

 

映画は、ルークがダニエルと行動を共にし、キャシーと過ごしたり友人と遊んだりするうち、次第にダニエルがルークに占める割合が増えてくる展開となる。まあよくある流れで、後はどう治めるのかということなのだが、ルークは心療内科に通い始めていて、そこでダニエルのことを相談する。というのもみるみる過激になるダニエルに恐怖を覚え始めたためだ。

 

薬を処方して貰ったが効かないので、医師は東洋医術で治療しようとする。ところが眠ったルークの傍に実態となったダニエルが現れ、ルークの体を乗っ取り医師を殺してしまう。そして、肉体を持ったダニエルはキャシーのところへ向かう。と、この辺りになるともうやりたい放題である。

 

一方のルークはどこかに閉じ込められた。そこから何とか逃げようとする。そこで、冒頭でカフェを襲ったジョンという男と会う。彼もダニエルという影に操られたのだ。と、この辺りから心理サスペンスではなくオカルトサスペンスになってしまう。ダニエルは悪魔の化身か何かのようになる。そして、キャシーを襲っているダニエルとルークは対決し、屋上から二人とも飛び降りて大団円。前半はしっかりできていたのに後半、どうしようも無くなって、とりあえず締めくくった感じで、全く救いのないラストだった。