くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「百花」「グッバイ・クルエル・ワールド」

「百花」

良い映画なんですが、本当に惜しいというのか演出力の弱さというのか。勿体無い映画でした。でも決して凡作ではなく、長回しと繰り返しの映像を駆使して描く一人の女性の忘却の物語と、息子の記憶の物語は、なかなか描けていたと思います。できれば終盤の畳み掛けはもう少し鮮やかなテンポが欲しかったのと、菅田将暉原田美枝子意外の脇役の存在感を上手く使ってもらえればもっと深みのある映画になった気がします。監督は川村元気

 

テーブルの上の一輪挿しからカメラはパンしてピアノを弾く百合子の姿へ。ピアノを弾いていた百合子がふと物音に気がついて玄関に行くと、百合子が帰宅して、一輪挿しに花を生ける。そしてまたピアノを弾く百合子の姿だが、ピアノの音が次第に乱れてくる。こうして映画は始まりますが、「ファーザー」という傑作があった故か、どことなく似ているようなオープニングは気になります。

 

まもなくして、息子でレコード会社に勤める泉が帰ってくる。母の言動がどこかおかしいのに気がつきますが、話を合わせて、出される夕食を食べる。大晦日、まもなくして年が明ける。一月一日は百合子の誕生日である。そこへ泉の妻香織から電話が入る。泉は母に適当な嘘を言って家を出る。認知症が始まったことを実感する泉、香織は妊娠していて6か月後に出産予定である。

 

一方、百合子の認知症は加速度的に進み始め、スーパーで同じ通路を繰り返し進みながら記憶が繰り返し、その上、かつて愛した男性浅葉を見つけた幻覚を見て店を飛び出し、万引きで捕まってしまう。雨の日、幼い泉に傘を持って行こうと小学校へ行ってしまう。そんな母を、泉は施設に入れることにする。施設へのバスの中で、百合子が話す泉との思い出は、どこか勘違いしていると泉は思う。実は勘違いしているには泉なのだが。

 

母の認知症はさらに進み、泉のこともほとんどわからなくなる。香織と泉が施設に行った時、半分の花火が見たいと百合子がいうので、香りはネットで調べて、泉は百合子を花火会場へ連れて行く。水際から打ち上げられる花火を見た百合子は、こんなに綺麗なものを見たこともいずれ忘れるのだろうとつぶやく。泉が幼い日、百合子はピアノ教室をしていて、習いにきた浅葉という男性と恋に落ち、泉を残して一ヶ月神戸に行ったことがあった。そこで、阪神大震災にあった。捨てられた思い出をいつまでも忘れられない泉には素直に母に向き合えないものがあった。この微妙さをもっと上手く演出してほしかった。

 

やがて子供が生まれ、百合子はほとんどの記憶を無くしてしまう。百合子の自宅を整理するために泉と香織、百合子が一旦戻る。香織が先に帰り、泉は片付けを一段落させて百合子の横に座るが、つい眠ってしまい夜になる。泉が目を覚ますと百合子が半分の花火だと微笑んでいた。縁側から空を見ると団地の上に半分しか見えない花火が次々と上がっていた。泉はこれを忘れていたのだ。百合子は記憶を失っていくが、泉は過去の記憶を思い出して行く。なぜ一輪挿しなのか、それは泉が母に一輪の花を誕生日にプレゼントしたからだった。施設へにバスの中で、泉が魚を釣った思い出は海だと思っていたが、母は湖だと言った。それも母が正しかった。記憶の曖昧さを巧みにラストに描いて映画は終わっていきます。

 

淡々と進むストーリー、百合子の見る幻覚を繰り返しの映像で見せる演出、長回しのカメラ、それぞれに工夫の見られる作品ですが、いかんせん、母に捨てられた泉の苦悩の描写が弱いために、映画が際立ってきません。あと一歩、本当にあと一歩工夫すれば傑作になったでしょうと思える。原田美枝子の熱演は涙を誘いますが、やはり演出力の弱さはカバーしきれず、香織の存在も物語に生きていないし、泉がかかわっているばバーチャルミュージシャンのエピソードもやや不完全燃焼。原作はもっと良いのかもしれないけれど映画に昇華しきれなかった感じです。でも良い映画でした。

 

「グッバイ・クルエル・ワールド」

とにかく撃ち殺す、流血三昧のクライムエンターテインメントで、一貫したわかりやすい物語などはそっちのけで二転三転して次々と人が死んでいく。悪く言えばB級アクションで、よく言えば、若さがみなぎるバイタリティ溢れる一本、主人公がいるようでいない、勢いだけで走る映画でしたが、それを狙うならもっとキレ良く短時間に凝縮すべきだったかもしれません。若干、終盤にかけて、ダラダラ感が見えてくるし、そもそも登場人物の背景を適当に済ませて行く粗さは認めるとしても、映画全体のリズムはしっかりとってほしかった。監督は大森立嗣。

 

一台の派手なアメ車に乗って一人の女と四人の男がどこかへ向かっているところから映画は幕を開けます。いかにも犯罪を犯しに行きますというオープニング。場面が変わるととあるラブホテル。気の弱そうな若者が一室に入るとそこにはヤクザらが金を数えている。どうやら若者は金の運び屋で、いかにも違法な金である。若者は金を渡すとホテルを出ようと出口に向かい、そこでホテルの受付の矢野に鍵を開けてもらうが、突然腹面の男女がピストルを持って押し入ってくる。さっきアメ車に乗っていた男たちである。

 

ホテルの部屋に突入し、ヤクザものらしき輩を縛って金を取って逃げる。強盗団の最年長らしい浜田は、せいぜい七千万くらいだろうと呟く。いかにも性格の悪そうなチンピラの萩原は、浜田に毒舌を吐く。気の弱そうな女美流、生真面目そうな安西、運転手の武藤らは、次の車に乗り換える場所に到着、その際萩原は武藤と美流に適当な金だけ投げつけて去らせる。武藤は借金を帳消しにしてもらったので納得するものの美流は気分が悪い。

 

一方、金を取られたヤクザの幹部は組織と関係のある悪徳刑事蜂谷を連れて犯人探しを始める。蜂谷は、ホテルの受付の矢野が怪しいと踏んで、萩原に謝礼をもらったところを蜂谷らに抑えられ捕まってしまう。そんな頃、金に不満の武藤と美流は萩原がたむろしている喫茶店へ行く。そこで、武藤は追い返される。美流と武藤は萩原が計画している宝石店強盗に加えてもらうが、萩原は美流を使っただけで、現場で大怪我をさせて放置、さらに武藤も結局殺してしまう。

 

病院に担ぎ込まれた美流のところに蜂谷が現れる。そもそも当初の計画は美流と矢野が立てたものだった。ヤクザたちは、犯人を殺して回れと矢野たちに指示、矢野と美流も恨みがあったので、萩原のいつもいる喫茶店へ行き、ショットガンで皆殺しにしてしまう。そしてさらに安西らを探し始める。

 

そんな頃、妻の父親の旅館を建て直すために、妻子と寄りを戻した安西は、旅館を復活させなんとか元の生活をしようとしていた。しかし安西は元ヤクザの幹部で、蜂谷が関係するヤクザ組織に敵対する組織の構成員だった。身元を隠していた安西だが、たまたま出会った知り合いのチンピラにバラされ、旅館は続けられなくなる。浜田は、元政治家の秘書で、罪を被せられて辞職した経歴があり、悪徳政治家を倒そうと画策していた。選挙が近づき、巨額の裏金が動く情報を得た浜田は地元の半グレを使って、その強奪を計画、安西を引き入れようとして連絡をする。

 

何もかも失った安西は浜田の誘いに乗り、裏金を隠しているガソリンスタンドへ半グレがやってくるが、金を奪ったものの、半グレたちが反旗を翻し、安西も殺されそうになる。ところがそこへ、蜂谷を殺して、安西らの居場所を知った矢野と美流が現れる。そして半グレを一網打尽にするが、安西は窮地を脱する、しかし美流も矢野も怪我をしてしまう。浜田も駆けつけるが、矢野に撃たれて重傷を負う。蜂谷を使っていたヤクザ幹部も矢野と美流に包丁を突き立てられ瀕死のの蜂谷に最後のピストルで殺される。

 

安西は妻子の通る道で待つが、妻は知らないふりをして去ってしまう。安西は浜田と会い、お互い傷を見せて先は短いと笑い合うが、彼方からヤクザ組織のチンピラらがやってくる。銃声だけが聞こえて映画は終わる。

 

とにかく、殺し合いの連続というクライムアクションで、登場人物に何の中身もなくその場限りに人を殺して行く。どの人物にも感情移入できないドライ感が一種のこの映画の魅力のような気がしますが、個人的にはそれほど好みの作品ではなかった。

映画感想「薔薇のスタビスキー」「ベルモンドの怪盗二十面相」

「薔薇のスタビスキー」

これは名作ですね。画面の至る所に配置した赤が目が覚めるほど美しく、どの場面も本当に素晴らしい。そんな見事な映像の中で展開する、一人の犯罪者のめくるめく様な物語が、時に過去に戻り時に現代を描き、交錯したストーリー展開で綴られる様は癖になる陶酔感を誘います。少々難解な作りですが素晴らしい映画でした。監督はアラン・レネ

 

道のかなたから車が一台走ってくる。スターリンとの権力争いに敗れた十月革命の英雄トロツキーは、亡命の上、安住の地を求めてやってきた。。クラリッジホテルのエレベーター、スタビスキーが友人で共同経営者のラオール男爵、弁護士のボレリと降りてくる。美しい画面に引き寄せられていきます。ロビーにいるアルレットに大量の花を送り届け、最大限の愛情を注いでいく。

 

スタビスキーは、国際的な実業家として、銀行を買収し、エンパイヤ劇場を抑え、新聞にも投資していた。ここに、愛する妻アルレットに献身的な愛を捧げる男がいた。名をモンタルボといいい、スペインの地主だがムッソリーニから武器を買い付けるためにマルセイユから来ていたのだ。親しくしている様だがそれを逆手にとって商売をするスタビスキー。政界、財界に金をばら撒いて人脈を作りながら、暗躍するスタボスキーの姿を、スタビスキー亡き後、その犯罪の調査委員会の諮問会で側近のボレリや、ラオール男爵らの証言場面を交えながら、過去と現代を交互に描いていく。

 

実はスタビスキーは、バイヨンヌ市の偽公債を発行していて、それを嗅ぎつけたボニー検察官が彼の前歴を調査し始める。バイヨンヌ銀行の行員が逮捕され、偽公債のことが明るみに出たことをボレリから聞いたスタビスキーは、その日アルレットとオペラを見に行っていた。

 

スタビスキーは彼の息のかかったベリクーリ議員の力を借りて急場を逃れようとしたが、ベリクーリ議員が裏切り、絶望的になってしまう。スタビスキーは、ボレリやラオール男爵の勧めでスイスのシャモニーの山荘へ逃げることにする。

 

しかし、やがて警察が踏み込んできて、スタビスキーは自殺、?あるいは撃ち殺されたかの銃声が聞こえ、葬儀の場面から、何故か妻のアルレットが収監される。全てが謎に包まれ、スタビスキーのおかげで私服を肥やした本物の悪党たちは野に放たれたままだというラオール男爵の言葉で映画は終わっていく。

 

とにかく画面が目が覚めるほど美しいし、音楽も良い、悪党の物語ですが、実は利用されただけであるかの曖昧な展開も実にシュールで、かえって美しい。全体が映像詩の如き一本で、芸術作品と言える映画でした。

 

ベルモンドの怪盗二十面相

これは面白かった。とにかくテンポが抜群に良いし、ラストのドンデン返しも爽快かつユーモア満点で、最高に楽しめました。エンタメ映画の傑作でした。監督はフィリップ・ド・ブロカ

 

三か月の刑務所暮らしからヴィクトールが出てくるところから映画は始まる。出迎えたのは家族同様に生活するラウール。ヴィクトールは早速あちこちの女に電話を入れて、次々と約束をこなしていく。そして目まぐるしいほどの勢いで変装を繰り返して女たちに会い、詐欺まがいの商談を進めて行く。このオープニングとジャン=ポール・ベルモンドの変装と豹変がとにかくスピーディで圧倒されます。

 

アジトでは泥棒仲間のカミーユが出迎えるが、そこへ、保護観察官精神科医のマリーがやってくる。ヴィクトールは早速マリーを街に連れ出し、持ち前の軽口と変装で次々と女性を口説きながらマリーと食事をする。しかし、いつの間にかマリーに惚れて行くヴィクトール。

 

ある夜、大道芸人のサーカスにマリーを連れて行ったヴィクトールは、いつもの様に軽口と口上でその場を盛り上げる。マリーはヴィクトールの家族同様だというそのサーカスの人たちをサンリモ美術館に招待する。実はマリーの父はその美術館の学芸員だった。マリーは父が隠している鍵を取り出して警報を切り、展示室にある祭壇画をみんなに見せる。

 

翌朝、その話をヴィクトールから聞いたカミーユは、その絵が値段がつかないほどの作品だと知り、盗み出すことを計画、文化庁の大臣に当たりをつけて金にする段取りを整えたカミーユは、マリーの両親に、大臣に食事に招待されたという嘘の招待状を送り、ヴィクトールには、マリーをオペラに誘い出すようにして、美術館をからにし、カミーユとラウールは美術館に忍び込むことにする。

 

ところが、マリーが突然、家でレコードを聞くと言い出したり、ヴィクトールを誘惑したりし始め、カミーユとラウールは忍び込んだものの、大慌てになる。なんとかマリーを部屋に足止めするためにヴィクトールはベッドインするが何故か上手くいかず、ショックを受ける。一方、カミーユらはなんとか絵を盗み出すことに成功、早速大臣に買い取りの連絡をする。

 

絵は三枚に分かれるため、一枚を送ってまず本物が手元にあることを大臣に信じさせ、二枚目と引き換えに五万フランの金を手に入れる。しかし、マリーへの想いもあり良心の呵責を感じ始めたヴィクトールは、金を返すためにマリーのところへ行く。マリーは、その金を頂いてしまおうと言い、ロッカーに隠しそのキーをヴィクトール宛に郵送する様にする。

 

一方、金をヴィクトールに返させられたものの、三枚目をラウールが持参して残りの五万フランを手に入れようと計画を先に進めるが、大臣側は、三枚目を手に入れた途端、犯人を捕まえようと待ち受けていた。しかし、絵を届けたラウールは金入らないと言う。実はヴィクトールとマリーの入れ知恵で、計画を変更したのだ。結局絵は戻ったものの大臣たちは犯人を捕まえられず、金を取り戻せないままに終わる。

 

カミーユたちは、ヴィクトールに聞いたロッカーに金を取りに行くがなんと空っぽだった。実はマリーは隣のロッカーの鍵をヴィクトールに送っていたのだ。そしてカミーユたちに、一緒に南の島に行こうと提案する。五万フランを持って南の島に行ったものの、贅沢しているのはマリーの家族だけで、ヴィクトールたちは惨めなものだった。

 

嫌になったカミーユは元の家に帰ると言ってその場を飛び出してしまう。金が入ったらモンサンミッシェルに塀を作るのを夢見えていたカミーユはその寺院の見える空き地に家を構えていた。まもなくしてヴィクトールも一人寂しく戻ってくる。こうして映画は終わる。もう爽快の一言に尽きます。面白かった。

 

とにかく、テンポ良く最後まで突っ走る傑作コメディという感じで、あれよあれよとストーリーが展開して最後のどんでん返しまで突き進む勢いに圧倒されます。マリー役のジュヌビエーブ・ビヨルドが抜群にキュートで可愛らしいので映画がとってもキュートに仕上がっています。本当に面白い映画でした。

 

 

映画感想「花様年華」4K版「ブエノスアイレス」4K版

花様年華

二年ぶりの再見、クリストファー・ドイルの美しいカメラと抜群の音楽センスで奏でる不倫ドラマは、幻想的であり、詩的であり、寓話の如く夢幻の陶酔感に浸ることができます。ただ、中盤までのテンポ良い流れが、終盤は少し間延びする様に思います。監督はウォン・カーウァイ

 

隣同士に同じ日に引っ越してきたチャンとチャウ。チャンの夫は頻繁に出張を繰り返し、日本企業の社長秘書をしているチャンはいつも一人で食事をとっている。一方、新聞社に勤めるチャウの妻も出張気味で家にいない。ある時、チャンの仕える社長のネクタイに気がついたチャンはチャウの妻と不倫しているのではないかと疑問を抱く。一方のチャウも、妻と同じバッグをチャンが持っていたことで妻の不倫に気がつく。こうしてお互いの伴侶の不倫を知ったチャウとチャンは、次第に頻繁に会う様になり、逢瀬を繰り返し始める。しかし、最後の一線を超えることはなかった。

 

全てを捨ててチャウに飛び込みたい衝動を抑えるチャンと、全てを捨てて誘いたいチャウのお互いの心の葛藤が、美しい映像と、流れる音楽のリズムで描かれていきます。雨、夜の灯り、屋台の階段、狭い廊下に並ぶ部屋、スエン夫人、チャウの友人のピンなどなど、空間と人物描写がさらに物語をスタイリッシュなものに変えていく。

 

まもなくして、チャウは、身をひくためにシンガポールのピンの元へ仕事で行ってしまう。航空券がもう一枚取れれば一緒に行ってほしいというチャウの呼びかけ、もう一枚取れれば連れて行ってほしいというチャンの気持ちが交錯したまま、結局、チャウはシンガポールへ。時が流れ、チャンは久しぶりに香港のかつてのアパートにやってくる。たまたま部屋が空き、スエン夫人はアメリカに旅立つということで部屋を借りて住むことにする。時を同じくして、チャウもまた香港に戻り、かつての部屋にやってくるが別の家族が住んでいた。隣の部屋には婦人と子供がこしてきたという。実はチャンとその息子だったが、それを知らず、チャウはバンコクへ向かう。バンコクで、時の流れを実感しながら映画は終わっていく。

 

終盤の流れが少し乱れるものの、非常にいい感じの作品であることは間違いない。美しい映像詩で描く人生の機微、大人の恋の物語は、何度見ても引き寄せられるものがあります。

 

ブエノスアイレス

十年ぶりに見直しましたが、スタイリッシュな映像と素敵な音楽センス、カラーとモノクロを織り交ぜた美しいクリストファー・ドイルのカメラに酔いしれる映画でした。監督はウォン・カーウァイ

 

モノクロ画面で、恋人同士のウィンとファイが愛し合っている場面から映画は幕を開ける。二人はイグアスの滝を目指して車を走らせるが、道に迷い、結局行きつけなかった。金を使い果たし、そのまま言い争って喧嘩別れしてしまう。ファイはブエノスアイレスで、ホテルのドアマンの仕事を見つけ客の呼び込みをしていたが、そこへ白人の男たちとウィンが車で乗り付ける。まもなくして傷だらけになったウィンがファイのアパートに転がり込んでくる。何かにつけて喧嘩ばかりする二人だが、心はお互いを求めていた。ファイはウィンの怪我が治らず、このまま一緒に暮らせたらと思って、ウィンのパスポートを隠してしまう。

 

ファイは、ドアマンの仕事をやめ、身入りの良い調理場の仕事に着く。そこで、旅の金を貯めるためにバイトをしているチャンと知り合う。やがて怪我が治ったウィンはファイの留守中出歩く様になり始め、ファイは、嫉妬も手伝って何かにつけてウィンに当たり散らす。まもなくしてウィンは出て行ってしまう。強気の言葉を投げながらも、ウィンがいなくなり寂しさを隠せないファイは、チャンに誘われるままに酒を飲み、悪酔いを繰り返す。ウィンも実はファイのことが忘れられない。

 

しばらくしてチャンは金が溜まったからと旅に出ていく。最果ての地を目指すのだという。ファイも香港へ戻る金が溜まり、香港へ帰っていく。父の友人を騙して金を取った償いもあった。ウィンはブエノスアイレスに戻ってきてファイのアパートにやってくるが、既にファイはいなかった。部屋を掃除し、ファイがいつも並べていたタバコを並べ、二人で行くはずだったイグアスに滝の回り灯籠を直して、ファイの毛布を抱きしめて泣きじゃくる。

 

ファイは香港へ戻る前にイグアスの滝へ行く。着いたものの、傍にいないウィンを思って、寂しく感じた。チャンは最果ての地へ行き、かつてファイに、記念に録音してほしいと言ったテープを再生するがそこには泣き声の様なものだけだった。ファイは、香港から台湾に行き、チャンの両親の店に立ち寄る。そこにチャンの写真を見つけ、そっと盗んで、列車に乗る。夜の街、ファイの姿で映画は終わる。

 

スタイリッシュな映像詩という感じの素敵なラブストーリーで、男同士の恋物語だからこそ成り立つ展開が実に上手い一本。久し振りの再見でしたが、見直して良かったです。

 

 

映画感想「彼女のいない部屋」「デリシュ!」

「彼女のいない部屋」

映像のリズムだけで物語を語る、なかなかの逸品。一人の女性の絶望から再生までの一時を細かいシーンを紡ぎ合わせて、次第に一つの時間に集約していく展開が秀逸。少々テクニックに頼りすぎたきらいもあるものの、タイトルからタイトルまで一貫した映像センスが素晴らしい作品でした。監督はマチュー・アマルリック

 

一人の女性クラリスがポラロイド写真で神経衰弱をしているが、うまくいかず切れてしまってタイトル、クラリスは荷物をまとめ家を出ていく。被るように、息子ポール、娘リュシ、夫マルクらが金曜日の何やら出発の段取りをしている。母クラリスは仕事らしいか別にいくようである。というより、クラリスは家を出て行っていないかのように見えるシーンも続く。

 

ハイウェイを走るクラリスはガソリンスタンドによる。リュシはピアニストを目指しているようで、ピアノの練習をしている。音階を弾くだけねとクラリスの声がかぶる。次第に上手くなっていくリュシの姿、ポールは父と一緒にクライミングの練習に出かけたりしている。クラリスはマルクと出会った日々の場面が描かれる。こうして過去、現代、そして、今のクラリスの心の中が細かいシーンの連続と前後する編集で語られていきます。

 

雪深い山小屋に着いたクラリス。地元の捜索隊が、湖に大きな雪崩れがあったと報告している。湖に一人の大人と二人の子供の足跡があったという連絡、立ち入り禁止の道を突き進むクラリス。雪が深いのでこれ以上の捜索は雪解けの春まで待とうと告げられる。

 

リュシはピアニストを目指し、パリの音楽院の試験を受けられるようになる。一人の少女が試験会場に入るが、クラリスがそこへ入ってくる。少女はピアノを弾くのをやめる。クラリスは、リュシの夢を現実と錯覚し、別人の娘を付け回すほど精神的に壊れかけていた。ポールとリュシの喧嘩、マルクとの愛の日々が前後して挿入され、山小屋の周りはいつの間にか雪が溶けて緑が見える。かなたから捜索隊の犬が戻る。慌てて飛び出すクラリス。三つの遺体が戻ってくる。泣きじゃくるクラリス

 

自宅、不動産屋だろうか、クラリスの後から男性が家に入る。クラリスはポラロイド写真で神経衰弱を始める。冒頭のシーン。不動産屋がさり、車に乗ってクラリスは家を出ていく。こうして映画は終わる。

 

家を出て行ったのは母ではないというセリフが何度も出てくる。出て行ったのはクラリスではなくてマルクらであること、孤独の底に放り込まれた一人の女性クラリスの悲哀と絶望からの再生を見事に描いていく素晴らしい映画です。少々凝りすぎていると言えなくもないですが、ストーリー全体を把握した感性に拍手してしまいます。久しぶりに見事な作品に出会いました。

 

「デリシュ!」

オーソドックスなストーリーですが、中世絵画を基調にした構図と色彩、光の演出が実に美しい作品。エピソード配分も心地よくて、歴史背景をさりげなく織り込んだ脚本も上手い。良質の一本でした。監督はエリック・べナール。

 

じゃがいもとトリュフを使ったデザートを作るシャンフォール公爵家の料理人マンスロンの姿から映画は幕を開けます。そして、来客に囲まれたシャンフォール公爵が自慢げに料理を食べ、客人たちと談笑している。講評をするからとマンスロンは呼ばれたが、最初は美辞麗句で誉めそやす客たちだが、これといって料理もわからない客人は、一つの言葉をきっかけに料理を馬鹿にし、マンスロンも蔑む。詫びを求めるシャンフォール公爵に、無言で答えて息子と屋敷を追い出されるマンスロン。

 

家に戻り、悶々んとする日々を送るマンスロンの元にルイーズという女が弟子入りしたいとやってくる。最初は断ったもののそのしつこさに、下働きとして住まわせる。ひたむきに使えるルイーズに、マンスロンの心は変わり始める。しかし、マンスロンは、ルイーズが、その仕草から高級娼婦だろうと推測する。

 

マンスロンが去ったあと、シャンフォール公爵は料理に飢えていた。雇い入れた料理人はことごとく首にし、耐え切れなくなって、執政をマンスロンの元に送る。そしてパリへ行った帰り立ち寄りたいから料理を作るように伝えてくる。もう一度シャンフォール公爵に料理を作れることになり嬉々とするマンスロンだが、一週間後というのが突然明日来訪となり、必死で料理を作り始める。じゃがいもとトリュフのデザートはルイーズが担当するが、ルイーズはその料理に何故か密かに毒を入れる。

 

来訪の当日、l待ち構えていたマンスロンの前を公爵らは通り過ぎてしまう。我慢できず、途中の旅籠で食事をしてしまい、マンスロンの家で食事する必要がなくなったのだという。そこで、ルイーズは、菓子に毒を入れたことを白状する。実はルイーズは公爵に騙され殺された貴族の妻だった。ルイーズはマンスロンの元をさり修道院に行く決心をするが、ワインを買いに馬に乗ったマンスロンは落馬して大怪我をしてしまう。

 

三日三晩ルイーズはマンスロンを看病、快復したマンスロンが階下に降りてみると、大勢の兵士が食事をしていた。息子が考えた、誰でも食事を食べてもらえる場を作ってみたのだという。一瞬戸惑うもののマンスロンも乗り気になり、ここに世界で最初のレストランが生まれる。

 

マンスロンのレストランの評判は広がり、いずれ、シャンフォール公爵が再訪することを予見したルイーズは、修道院へ戻る決心をして去ってしまう。人手が減り、レストランは徐々にさびれ始めるが、マンスロンはシャンフォール公爵の屋敷に行き、レストランに食べに来てほしいと懇願する。今の料理に辟易していたシャンフォール公爵はその申し出を受ける。

 

一方マンスロンは修道院へ行き、シャンフォール公爵を呼んだので、思いを遂げてほしいとルイーズを呼び戻す。やがて、シャンフォール公爵がマンスロンにレストランにやってくるが、そこにかつて騙した貴族の妻ルイーズがいる事を知る。しかも、客はシャンフォール侯爵だけでなく他の大勢の客が集まってきた。罵倒するシャンフォール公爵に、マンスロンは、ルイーズに謝罪するようにと迫る。すっかりプライドを挫かれ、他の客らの冷たい視線を受けたシャンフォール公爵は方法の丁でレストランを後にする。カメラはゆっくりと宙に上がり、俯瞰で、にぎやかなマンスロンのレストランを映して映画は終わる。その数日後バスチーユが陥落したとテロップが出る。エピローグで、ルイーズとマンスロンが微笑ましくじゃがいもとトリュフのお菓子、デリシュ、を作る場面で暗転。

 

決して大傑作ではないかもしれないが、ストーリーも映像も実に丁寧に作られていて、作品全体からとっても真摯な空気感が漂ってくる秀作。いい映画でした。

映画感想「ラ・スクムーン」「冬の猿」

「ラ・スクムーン」

これは良かった。旧作「勝負をつけろ」と雲泥の差の出来栄えで、一人のアウトロー大河ドラマのような展開と、男の悲哀、女の切なさが見事にスクリーンに浮かび上がっています。しかも、音楽も素晴らしいし、映像が洒落ていて粋なのもとっても素敵な映画でした。監督はジョゼ・ジョバンニ

 

教会、この地域を牛耳る男ヴィラノヴァが、ある男に何やら指示をする。指示された男が外にいる男ロベルトを撃とうとしてロベルトに撃たれ死んでしまう。ロベルトの傍にはメキシコ人がオルガンを奏でている。その男にロベルトは近づいてタイトル。メキシコ人が奏でる回しオルガンに被るメインタイトルに引き込まれていきます。

 

ロベルトの友人のグザヴィエが無実の罪に嵌められて収監される。なんとか釈放させようとするがうまくいかず、妹のジョルジアがロベルトに助けを求める。「ラ・スクムーン」というあだ名を持つロベルトをヴィラノヴァは疎ましく思っていて、排除すべく呼び出すが逆にロベルトに撃たれ死んでしまう。ヴィラノヴァの部下を手懐けてこの地を収めることになったロベルトは売上を自分のものにしてグザヴィエの釈放のための資金にしようとする。しかし、結局グザヴィエは二十年の刑が確定する。

 

そんなロベルトにかつてのヴィラノヴァの部下たちは良い気持ちではなかった。そんな頃、ロベルトが仕切る街にアメリカ人の集団が暗躍し始める。ロベルトはジョルジアに任せていた店がアメリカ人に荒らされるにつけ、単身でアメリカ人の集団を迎え撃ち、その時、最後の最後で負傷、逮捕され、正当防衛も認められず収監される。

 

一方、刑務所ではグザヴィエは、看守とトラブルを起こし独房に入って看守長にいじめを受けていた。同じ刑務所に入ったロベルトは、巧みにトラブルを起こし、グザヴィエのいる独房へ移り、看守長を脅し、グザヴィエを助け出す。ロベルトには作戦があり、それを待っていた。それはメキシコ人やジョルジアらによる脱走の手はずだったが、結局それは失敗に終わり、その際それまでロベルトの片腕だったメキシコ人は命を落とす。間も無くして第二次大戦が勃発、フランスの劣勢で、恩赦による出征を期待したが叶わなかった。

 

やがてドイツ軍が撤退、そのあとの地雷処理の任務について刑期を短縮させようとグザヴィエもロベルトも志願するが、そこでグザヴィエは利き腕の左手を失う。

 

やがて戦争が終わり、晴れて刑期を終えたグザヴィエとロベルトは古巣の店で用心棒のような仕事をしていた。しかし、片腕を失ったグザヴィエは心が荒れてしまっていた。グザヴィエとジョルジアのためにロベルトは強引に店を譲り受け、それを高値で転売して郊外に牧場を手に入れて、グザヴィエらに移り住ませようと計画するが、ロベルトが不在の時に、強引に店を取られた男たちがグザヴィエとジョルジアを襲う。そこでグザヴィエは死んでしまい、ジョルジアも重傷を負って入院する。

 

裏の世界に飽き飽きしていたロベルトだが、最後の仕事にとその時にグザヴィエが殺し損ねた二人を追って夜の街に消えて行って映画は終わる。

 

とにかくフィルムノワールである。主人公が実にかっこいいし、時の流れを切々と綴る物語が実に情感溢れていて見ていて画面に引き込まれてしまいます。奏でる音楽の調べも実に素晴らしく、まさに一級品という映画でした。

 

冬の猿

流石に、とってもいいドラマでした。画面も美しいし映画になっているという仕上がり、ストーリーの組み立てもしっかりしていて見ていて安心して見ていられる作品でした。監督はアンリ・ヴェルヌイユ

 

第二次大戦末期、丘の上のバーへ一人の女が登っていく。店ではアルベールと友人のエノーが飲んだくれている。空襲の中、二人は自宅を目指す。アルベールの家はホテルを営んでいて、妻のシュザンヌに、戦争を無事切り抜けられたら酒は止めると宣言する。そして十数年が経った。

 

あれ以来酒を絶って、飴を食べる日々のアルベールは、向かいでバーをしているエノーともそれなりに楽しく暮らしていた。ある夜、フーケという若者がやってくる。この街の寄宿舎にいる娘のマリーを連れ戻しに来たのだが、元来の酒好きで、飲むとヘベレケになって騒ぎを起こす。そんなフーケを見てシュザンヌは、またアルベールが酒浸りになるのではと不安になり始める。

 

アルベールはフーケを見ているうちに次第に若き日の自分を重ね始め、ある夜、とうとう二人でヘベレケに酔って、マリーの寄宿舎に怒鳴り込んだり、花火屋に行って大量の花火を浜辺で打ち上げたりしてしまう。そんなアルベールを、不安げに見つめるシュザンヌ。翌朝、アルベールが父の墓参りに行く時間、フーケとアルベールはホテルに戻ってくる。シュザンヌは、一時のハメ外しだったことを知り、また

シラフになったフーケもマリーを連れ帰ることになり、二人を駅に送り出す。列車に乗るアルベール、フーケ、マリー。乗り換え駅で降りたアルベールを列車からフーケとマリーが見送って映画は終わる。

 

決して大傑作ではないのですが、実にしんみりと心に迫ってくるちゃんとした映画という印象の良い作品でした。

映画感想「華麗なる大泥棒」「パリ警視J」

「華麗なる大泥棒」

監督がアンリ・ヴェルヌイユなので、楽しみでしたが映画としては普通の出来栄えでした。オープニングのタイトルバックや前半のリアルなカーチェイスシーンはなかなか見応えのある映像でしたが、ストーリー全体の流れは非常に平坦で、サスペンスでもアクションでもなく、と言ってミステリーでもないどっちつかずの映画でした。

 

港に泥棒仲間が集まってくるところから映画は始まる。そして三人の男と一人の女性がタスコという男の大邸宅に忍び込み、主犯のアザドが駆使するハイテク装置で金庫を解錠していく下りがまず見せ場。たまたま通りかかり外に止めてあった車を不審に思ったザカリア刑事が、邸内を何度か調べるが、結局出て行く。その際、様子を見に出たアザドと一言二言かわす。

 

まんまとエメラルドを盗み出したアザドらは、逃げるために港に来たが予定していた船は修理で五日間足止めだという。さらに不審な車につけられていると察した四人はバラバラに逃げ、五日後の再会を約束する。アザドは追ってきた車とカーチェイスの末、まんまとまいて、ホテルへ行く。しかし、執拗に追ってくるザカリアとの追いつ追われつの逃亡劇が繰り返される。ザカリアの目的は逮捕ではなくエメラルドだった。あとは、アザドが出会う金髪の女性が実はザカリアの仲間だったり、泥棒仲間のエレーヌとのラブストーリーも適当に挿入されるのですが、どれが中心というものでもなく中途半端に展開。

 

アザドは脱出のための船に乗るために港に行くがザカリアが待ち伏せていて、アザドは隠していたエメラルドをザカリアに投げて、ザカリアを小麦で埋めてしまい、船に乗って映画は終わる。なんとも言えない適当なストーリーで、ジャン=ポール・ベルモンドのアクションもそれほどではなく、平凡な映画でした。

 

「パリ警視J」

映画のクオリティ以前に、単純に娯楽映画として面白かった。アクションシーンも程よい量だし、お決まりのカーチェイスもほどほど、主人公のドラマとしてキレの良いストーリー展開なので、飽きることなく最後まで見れました、楽しい一本でした。監督はジャック・ドレー。

 

強引な捜査で左遷されてしまった主人公ジョルダン警視が高速列車で次の赴任地へ向かう場面から映画が始まる。麻薬王で、上層部にコネもあり全く警察が手を出せないメカチを追い詰めるためにやってきたのだが、メカチもジョルダンがやってくることが懸念だった。

 

マルセイユで大規模な麻薬取引の情報を得たジョルダンは、警察が一旦逃してしまったホシをヘリコプターで追い詰め、大量のヘロインを海中に破棄してしまう。そんな捜査に上層部は難色を示し、さらに左遷するが、ジョルダンはめげずに、さらにメカチ逮捕に執念を燃やしていく。一方メカチはジョルダンの部下を殺してジョルダンに濡れ衣を着せようとするが、ジョルダンはメカチの罪を証明する唯一の男フレディに辿り着く。しかし、フレディもメカチの部下に殺され、その殺し屋を追い詰めたジョルダンはついにメカチに辿り着く。そして、ジョルダンを殺そうとした殺し屋の銃で、メカチを射殺する。メカチが何者かに殺されたことが警察無線でジョルダンに伝わり、映画は終わる。

 

普通のポリスアクションですが、それなりに楽しめる映画でした。

映画感想「ドライビング・MISS・デイジー」「地下室のヘンな穴」「この子は邪悪」

ドライビング・MISS・デイジー

やはり良い映画です。さりげない景色や小道具、容姿で時の流れを語りながら、時代背景を鋭く描写し、押さえた色調の画面で淡々と晩年を迎えた人物の姿を描いていく。とってもシンプルな話なのに、不思議なくらい胸に沁みます。ジェシカ・タンディモーガン・フリーマンダン・エイクロイドも素敵。監督はブルース・ベレスフォード

 

年老いたものの元気なデイジーが車で買い物に行こうとし、車をバックして事故を起こしてしまうところから映画は幕を開けます。心配した息子のブーリーは母の反対を押し切り黒人の運転手ホークを雇う。ブーリーは綿工場を経営しているがユダヤ系である。最初は嫌味なことばかり言いながら敬遠していたデイジーだが、背に腹は変えられなくなりホークの車に乗るようになる。物語はホークとデイジーの掛け合いを中心に、物語の背景のさりげない人種差別や世相を盛り込んで展開していきます。

 

叔父ウォルターの九十歳の誕生日に出席のためにデイジージョージア州を出るが、それはホークにとっても初めてのことだった。ホークは字が読めない。そんな彼にさりげなく勉強の本をプレゼントするデイジーアラバマ州では、ユダヤ人であるデイジーや黒人のホークを蔑んだような言葉を警官が平気で喋る。スタンドで黒人はトイレを使うことができない。そんな時代背景をさりげなく描写する。

 

時が流れ、デイジーの家で長らく働いていた黒人のメイドが亡くなり、さらに時が流れ、ある朝、ホークがデイジーの家にやってくると、デイジーは、教師をしていた頃に記憶が戻ってしまい大騒ぎをしていた。認知症が始まった母を、施設に入れざるを得なくなるブーリー。そんな彼の頭も白髪が混じり始める。

 

この日、ホークは久しぶりにデイジーの家にやってきた。運転したのはホークの孫娘である。デイジーの家は売りに出され、すでに買い手が決まっている。やってきたブーリーの車に乗りホークは施設にいるデイジーのところへ行く。この日は調子がいいのか、ホークのこともブーリーのこともわかるデイジーだったが、ホークの手をしっかり握る。ホークも握り返し、これからも一緒にと気持ちを伝えて映画は終わる。

 

舞台劇の映画化ですが、やはり素晴らしい名作だと思います。

 

「地下室のヘンな穴」

人間の欲望を風刺したブラックユーモア的な不条理劇という感じでした。前半の不可思議な展開から後半のサイレント映画のようなコマ送りの展開という映像のテンポを駆使した作りが楽しい一本。フランス発というテイスト満載の一本でした。監督はカンタン・デュピュー。

 

アランとマリーの夫婦がセラピーを受けている場面から、物語は二人が一軒の家を買うため見にきている場面に移る。不動産屋がこの家の秘密を説明するのだが、それは地下室にある奇妙な穴だった。そこを通り抜けると同じ家の二階のところから出てくる。この穴を潜ると十二時間時間が進む代わりに三日若返るのだという。半信半疑ながらこの家を買ったアランとマリー。

 

マリーは早速穴をくぐり抜け若返ることに夢中になり始める。彼女は若くなってモデルをしたいのだというが、アランは全く興味がなく穴に入ろうとしない。ある日、アランの上司で社長のジェラールとジャンヌを招いて食事をする。その席でジェラールは、電子ペニスをつけたのだという。スマホで操作すると自在にできるという奇妙な物だった。

 

ある時、マリーは腐ったリンゴを持って穴に入るとりんごは瑞々しく戻っていた。しかしアランがそれをかぶると中から蟻が出てくる。表面は若返るが中身は老いているのではないかとマリーにいうがマリーはそれでもいいと穴に入ることを繰り返し、やがてモデルができるほど若くなる。

 

一方、ジェラールは、電子ペニスが不調になり、日本へ修理に向かう。留守の間ジャンヌは女性の恋人を作っているのをアランは目撃する。戻ってきたジェラールは次々と女性を変えて恋人を作る。しかし、ある日、車を運転していて突然股間が燃え始めそのまま車は事故を起こして死んでしまう。

 

マリーはモデルの仕事がうまくいかなくなり、それでも穴に入ることを繰り返すうちに精神的に不安定になり病院へ入ってしまう。病院で、マリーがガラスで自分の手を切ってみると蟻が湧き出てくる。アランはのんびり釣りをしている。こうして映画は終わる。

 

マリーとジェラールが好き放題にしている後半はコマ送りのサイレント映画のように描いたり、映像テクニックを駆使して描くブラックユーモアという感じの映画で、なかなか面白かった。

 

「この子は邪悪」

もう一工夫ほしい一本。思わせぶりな展開でなんとか引っ張るけれど、ありきたりといえばありきたり。オープニングの掴みがちょっと弱いので、そのまま、ダラダラとホラータッチのサスペンスが流れた感じでした。監督は月川翔

 

精神に異常をきたした人たちの場面が繰り返される。廊下を徘徊する女性、ベランダで手すりを舐める男性、そして水槽を見つめる女性。そこへ一人の男子高校生純が帰ってくる。水槽を見ていたのは母親だった。純は、近所の、不可解な行動をする人たちを写真に収めていた。このオープニングがまず良くない。純がそういうことを調べているという出だしなのだが、ただのホラーチックにしか見えない。

 

純は一軒の診療科の病院の二階から一人の仮面を被った少女の姿を見つける。そこへ患者らしい帽子を被った女性がやってくる。出迎えたのはこの医院の医師窪司朗だった。彼は患者を招き入れ治療を始める。中庭には長女花がいた。司朗の家族は五年前に遊園地に行った帰りトラックと正面衝突し、次女の月は顔に火傷を負い仮面を被るようになり、司朗は神経をやられてびっこを弾くようになり妻の繭子は昏睡状態になっていた。唯一花だけが無傷だったが、遊園地に行きたいと言った本人だったので心に傷を残していた。

 

ある時、昏睡状態だった繭子が奇跡的に回復し、家に戻ってくる。しかし花は、どこか違うと感じていた。病院にはたくさんのウサギを飼っていて、一匹が逃げたのを捕まえに行った花は純と出会う。実は純は幼い頃、花と知り合っていた。純の母はかつてこの医院で司朗の診察を受けていたのだ。

 

しかし、純は、五年前の花らの事故で月は死んだという記事を発見、さらに目覚めて戻ってきたという母繭子は、以前病院の前で出会った患者の女性ではないかと花に話す。花も繭子の頬のほくろが偽物だと知り、戸籍謄本から月が死んでいること、母の病院には今も昏睡状態の繭子がいることを知り、父司朗が何かしているのではないかと疑い始める。真実発見がなんともお粗末なことでバレてしまう。実に雑な脚本です。

 

実は、司朗は、子供の虐待をしている親たちから子供を守る慈善団体を運営していて、虐待している親に洗脳を施していた。司朗は、一人の女性患者に退行催眠をかけ、繭子の魂を埋め込んで母として迎え入れたのだ。さらに、虐待している親の魂とウサギの魂を入れ替えるという驚くべき治療を施していた。まさにマッドサイエンティストである。それを知った純は、純の家にやってきた司朗に詰め寄り、首を絞めようとするが反撃され、純もウサギの魂と入れ替えられてしまう。

 

花は、月の仮面を剥ぎ、火傷をしていないことを司朗や偽の繭子たちの前で暴露するが、全ては家族のためだったと司朗が告白する。人同士を入れ替えたのは事故で月が死んだ時だと白状する。そこへ、純の祖母がやってきて司朗を襲うが、逆に司朗に殺されてしまう。ところが、月がナイフで司朗を刺す。息を引き取る直前、全て自分がやったことだからと司朗は警察に言うように言い残して死んでしまう。繭子のお腹には司朗の子供がいた。

 

時が経ち、繭子は男の子を産む。月、花、繭子らがケーキを食べている。赤ん坊がにこりと笑い、かつて催眠を施す時に司朗がしていた八の字の指の動きをして映画は終わる。もう笑うほかない。

 

なんともお粗末なサスペンスホラーでした。こんな薄っぺらいストーリーでは誰ものめり込まないだろうと思います。TSUTAYAの公募脚本の準グランプリということですが、この賞はどの作品もこんな薄っぺらいものが多いですね。