くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ツィゴイネルワイゼン」

ツィゴイネルワイゼン

鈴木清順映像美学の一つの極致である。30数年ぶりにスクリーンで見直しましたが、何ともいえない感動に包み込まれてしまいました。

この作品に物語がどうのこうのというものはありません。まるでサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の曲が直接心に響いてくるかのごとく、映像が直接見ている私たちの胸の中に染み入って言葉にできない情感を生み出していく。

幻想か現実か、過去か、現代か、生か死か、すべてに定まった物はなく混沌とあふれる映像美の洪水とあらゆる束縛から解放された展開に心の奥底にある根本的な感情が震えてくるのです。まさにこれが映像表現の到達点といえるでしょう。

初めて見た頃はまだそれほどの鑑賞眼もなかった頃ですが、今なお、当時極上の感動に包まれたという印象が残っているのは、理屈とかではない至上の美学に酔いしれたためでしょう。

強いて物語を語るとすれば、陸軍士官学校の教授で親友でもある青地と中砂が旅先で出会い、たまたま呼んだ芸者小稲と懇意になる。その後、帰宅してそれぞれの家庭のそれぞれの人間同士の重なりの中で繰り広げられる幻想的な物語である。中砂は園という小稲に似た女と結婚をするが園は娘豊子を残して病死、後妻としてかつての芸者小稲を迎える。一方中地の妹は余命幾ばくもない病に入院している。

中砂の家を訪れるには切り通しのトンネルのような道をくぐり抜けていかなければいけない。そこを通る青地のシーンが繰り返され、まるで黄泉の国と現世との行き来をしているかのごとくである。お互いにお互いの妻と不倫をしているようでもあるがそれもそれぞれの幻想であるかもしれないと言う曖昧な世界が展開し、ツィゴイネルワイゼンのレコードの途中に流れる聞き取れない声が不気味なほどに作品のムードをくゆらせていく。

盲目の夫婦たちの現実離れしたシーン、シュールなショットも何度も挿入されるが、それはすべてラストシーンにつながる妄想でしかないのかもしれない。

中砂が死に、妻小稲が何度も青地の家を訪ねてかつて中砂が貸した原書を取りにくる。そして、最後にツィゴイネルワイゼンのレコードを取りにくるが見あたらない。青地の妻が絵の後ろに隠していたのを見つけた青地がそれを持って中砂の家を訪ねる。

豊子に誘われるままについていくととある神社の太鼓橋。そこを上り下りして突然目の前に花で飾った船を前に子供が青地を待つ。エンディング。

死んでいたのは青地か?恋いこがれた芸者への思いは臨終の最後の希望だったのか?なにもかもが夢幻のごとく終焉を迎えるエンディングに言葉にできない感動が一気に吹きあがってくるのです。
家の中にいるとどこからともなく屋根に石が落ちてくる音がしたりする幻想的なシーンは、いったいいま目の前の家は現実なのか墓の中なのかという曖昧な空間を描写する。

すべてにおいて確固としたものはなく、あらゆる理論だてた解釈はこの作品ではすべて無に等しくなる。にもかかわらず映像が訴えかけてくるものは見ている私たちの心の奥底にありそうでない物語を語りかけ、見た人それぞれがそれぞれの一番敏感な部分で感動してしまう。これがこの作品の秀でたところであり、唯一無二といえるほど独創性にあふれた鈴木清順美学の結晶なのである。
本当にすばらしい。この一言に尽きる映画でした