くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ニーチェの馬」

ニーチェの馬

前作「倫敦から来た男」で初めてタル・ベーラという監督の作品に触れ、その異常なくらいの長回しワンシーンワンカットに、ストーリーを理解する暇もなくただただしんどい思いをした。しかし、その映像としての芸術性は唯一無二の至高のものは十分に感じられた(と思う)。その後に見た「ヴェルク・マイスターハーモニー」はまだタル・ベーラ監督の芸術的な感性に面白さを見出すことができた。

今回の作品は、これを最後に映画を撮らないと宣言した実質タル・ベーラ監督の最後の作品である。ベルリン映画祭などで話題をさらい、昨年からさまざまなメディアで取り上げられ評価されてきた期待の一本でした。ただ、しんどいことを覚悟に見に出かけたのですが、なんとも今回は非常に面白かった。映画というのは本当にいろんな表現方法があるものだとつくづく感じ入る傑作だったと思いました。もちろん、延々と捉える異常なくらいの長回しワンシーンワンカットの非常に長いシーンの連続という個性は失われていませんが、展開に心地よいリズムがあるのです。

映画が始まると哲学者ニーチェが鞭打たれる馬にすがり付いて泣き、狂ってしまったという逸話がテロップに流れ、あの馬はどうなったのだろうと締めくくられると画面が変わって馬に引かれる荷馬車に乗る一人の男の姿が延々と捉えられていく。土ぼこりの舞い上がる中、強烈な風が吹き荒れる中を走る姿が横から正面、さらに横面と延々と映されていく。この映画は一種の寓話で、時は19世紀、ちょうどニーチェの時代である。貧しい農夫の男とその娘の6日間の物語で、ニーチェの「神は死んだ」という言葉を象徴するような終末思想の映像として展開していく。

第一日目。男が家に帰ってきて娘に服を着替えさせてもらい、ジャガイモらしいだけの貧しい食事をするシーンがシンメトリーな画面で描かれる。男の右腕は不自由なようで、ジャガイモを食べるのもままならず、食事以外は窓のそばに座ってじっと風が吹き荒れる外の景色を見ている。外は台風のような風が吹き荒れ、木の葉が舞い、かなたに一本の木が生えているだけの殺伐とした景色である。何があるというわけでもないが明らかに土地のやせた地域であることがわかる。
離れたところにある井戸から水を汲み、馬に飼葉をやりながら男の世話をする娘の様子が延々と映されるが、時にロングに、時にズームしながら、動きのあるカメラワークでつづる長回しの妙味は一定のリズム感を画面に生み出していく。

一人の男が立ち寄り、焼酎を分けてくれと言う。町へ出かけたが町は風のために何もかも失われていてどうしようもないと語る。いったいこの風はなんなのかと思われるがその説明は一切ない。この映像詩のような展開もまたこの映画の魅力でもあります。

三日目にいずこからか男たちがやってきて井戸の水を汲む。追い払ったものの、この男たちは娘に「アメリカへ行こう」などと誘いをかける。深い意味を見つけるよりもそれぞれのせりふや映像に感性で感じ入る作品の魅力が随所に見受けられる陶酔感がたまらない。

ところが四日目、突然井戸が枯れる。一方、馬がえさを食べなくなっていく。どうしようもなくなった男と娘は家を出るべくいったん荷物をまとめ馬を引き連れて旅立つがかなたの丘の向こうへ消えたかと思うとそのまま戻ってくる。このシーンがもちろんワンカットで、小さく消える姿が再びこちらに見えてくる様子はただただ不思議な感覚に囚われてしまうのである。

行くところがなく、というより丘の向こうに何があったのかの説明もなく男と娘は元の家に戻る。しかし、五日目、今度は突然真っ暗になる。ランプをつけるがなぜかランプに火がともらない。種火も消えてしまう。ひとつまたひとつと極限の終末へと進んでいくがその理由も、何もかもが映像に映るのみでしか語られずせりふにもその説明はない。まさに映像という名の寓話である。

真っ暗な中での六日目。ふっと二人が食卓に座るシーンが移るが、すでに煮ることもできないジャガイモは硬く、二人は食べることもやめてしまう。画面が暗転、エンディング。いったい彼らはどうなったのか?馬はどうなったのか?ニーチェの寓話、ニーチェの言葉が蘇ってくる。

映されるものだけを見つめ、語られるせりふだけを聞き、そこから感じる物だけに思いを寄せてこの映画を鑑賞する。見終わってなぜか胸に残るこの感動はいったいなんなのだろう。この映画に理屈も説明も不要なのである。映像が語るままに感性で感じ入ればいいのである。こういう表現が正しいかどうかはわからないがすばらしい傑作だった用に思えます。