くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「私の叔父さん」「ひかりのおと」

私の叔父さん

「私の叔父さん」
友人に勧められて見に行ったのですが、これが小品ながらなかなかの佳作でした。なんか胸にしみいるような感動がジンとくるんです。この感覚、とっても良かったです。

登場人物たちの心の声が音になって画面からこちらに聞こえてくる。せりふの中に語られない想いが時に構治と夕季子の想いが風鈴のようなチリンチリンという音になって、時に庭で奏でるコウロギの声になって夕美子の父尾対峙する構治のショットに聞こえたり、また時には歌声になって響いてくる。この心地よいピュアすぎる愛の声がただただ、純粋に見ている私たちの心に訴えかけてくる。

主人公構治が写真を撮っている。そこに一週間世話になっていた姪の子供夕美子が挨拶にやってくるところから映画が始まります。彼女は自分の母夕季子はかつて叔父である構治を愛していたことを告げます。しかし、そんなことはないし、それは夕美子の父親にも失礼だと言い返す。

構治はまだカメラマン助手であった頃、博多からでてきた夕季子を初めて出迎えた日を思い出します。夕季子は密かに叔父である構治を愛しているものの、叔父と姪でもあり、年も近く幼いときから兄として呼んでいた男性への想いに、心なしか戸惑っている。一方の構治も想いはあるものの血のつながりがあることへのこだわりに揺れている。この微妙な二人のプラトニックな物語がさりげない音をとっても優しく挿入することで清らかな水の流れのように描いていくのです。

勢いで愛し合うなんていうありきたりの展開など皆無で、今にも一線を越えんとする手前のとっても日本的な心の葛藤はただもう見ている私たちまでやきもきさせてくれる。

現在、構治の元から帰った夕美子は妊娠していて、その父親は構治だという。もちろん、構治の姉で祖母に当たる郁代も信じないし、当然父も信じない。

この夕美子の発言とかつての構治と夕季子のつかの間の生活が交互に描かれ、いつの間にか清らかな二つの流れが一つになっていきます。

かつて、夕季子が一ヶ月滞在したとき、最後の夜に構治に告白する。しかし、大人であるということは、言葉にしてはいけないことを言葉にしないことであると諭され、夜が明けると構治に見送られて夕季子は帰っていく。別れ際、自分はまもなく結婚すると告げる。

結婚式に呼ばれた構治が微妙な心の揺れでつい夫になる男を殴ってしまうというちょっと安っぽい演出も取り入れられていますが、これもまたご愛敬として許してもいいかなと思います。

赤ん坊ができた夕季子は夫の開業資金の一部を借りるために上京、構治に30万を工面してもらう。すでにカメラマンとして成功していた構治に子供と自分の姿を撮ってほしいと頼む。おもしろ顔をつくる夕季子の姿を撮る。
その二週間後、夕季子は交通事故で帰らぬ人に。

そして現在、再び夕美子は妊娠の相手が構治だと言い出し当惑した姉が構治を呼び寄せると、夕美子は父と祖母の前で実は夕季子が愛していたのは構治で、構治も夕季子を愛していたのだと語る。その証拠にかつて構治が撮った五枚の写真を見せる。おもしろ顔で撮られている夕季子の口元には「あいしてる」の言葉が。

構治は、夕季子との最後の夜に自分の気持ちに封印したことを想い描き、今度はその封印を説くべく夕美子のおなかの子供の父は自分であると告げ(もちろんうそである)、夕美子と結婚させてほしいと頼むのである。

叔父と姪という関係でどうしようもなくお互いの恋心を「嘘」という形で封印したあの夜の想いを今度は嘘を使って解放しようとするラストシーンが本当にみずみずしいほどの感動を呼び起こすのです。そして、夕美子の父は構治に、自分が撮った夕季子と赤ん坊の写真を見せる。構治は「こういう優しい写真を撮るのが目標です」と静かに語る。

もちろん原作の味もあると思いますが、脚本と演出による映像と音による感情表現がすばらしく、大傑作などという拍手をするような作品ではないものの、本当に好感度抜群の秀作だった気がします。良かった。

「ひかりのおと」
岡山県の過疎が進む村の酪農家、狩谷家を舞台にしたある意味地方映画である。淡々と静かに展開するストーリーに劇的な物語は存在しない。ひたすら、働いても楽にならない酪農家の現状、都会へでていくことを選ぶべきか、酪農を守るべくその手段を模索するべきか、という主人公の姿が描かれていく。

恋人との結婚の問題、そこにも酪農家の跡継ぎの問題が絡み、現実としての収入の問題が常に頭をよぎる。未来へ未来へともがいているかのような若者たちの姿は確かに語るべきテーマとしては伝わってくるが登場人物からの極限の生活の中かからの必死の思いが今一つ伝わらないのが残念。

クライマックスは初日の出を家族でみるという狩谷家の恒例行事で、太陽の日差しが家族に降り注ぐ。そこに未来が見え、そこに映画としての希望が見えるところなのだが、画面からはどこかそういった安っぽい希望は梅雨ほどもみられない。人物たちの複雑な表情がさらにむかえる苦難を映し出しているようである。

エンドクレジットに延々と写される牛のクローズアップはまるで観客になにか語るべきメッセージを代弁しているかに見えるが、どうにも地味な映画だった。おもいきってドキュメンタリーとして描いた方が作品として、そしてメッセージとして完成度が高まったのではないかと思う。

作品全体にストーリーのリズムが生み出されていなかったのが退屈の原因だと思うが、一つ一つの演出は素人演出ではないし、プロの作品として評価されるべきだろうと思います。とはいえ、90分だからこれが限界でしょうか。