くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「わが母の記」「僕等がいた 後篇」

わが母の記

わが母の記
世界に大手を振って持っていって、そして自慢できる日本映画の名編、それがこの「わが母の記」です。すばらしかった。涙が止まらなくて、何度も何度もハンカチで拭って、ラストシーンでは椅子を揺らすほどに嗚咽がとまらない。この感動はいったい何なのだろう。そんな理屈を考える余裕もなく涙があふれてくるのです。

母が子を思う気持ち。子が母を思う気持ち。すれ違っているようで、その心根にしっかりと根ざした親子の絆がいつの間にか、何かのきっかけで、心に沸き上がってくる。子を憎い親はいないし、親を心底憎い子はいない。そんな、日頃気にもかけないことがスクリーンから沸き上がってくるのです。すばらしい。長らく名編と呼べる新作の日本映画に出会えなかった感動も重なって、しばらく席を立てなかった。

文豪井上靖の原作がある。役所広司樹木希林宮崎あおいなどなど芸達者な役者さんもそろっている。しかし、それだけお膳立てができていても、その本当のすばらしさを引き出す演出力がなければ生きてこない。抜群のタイミングで繰り返されるせりふの応酬。時にコミカルに、時に憎らしく、それでいて、絶対に人間らしい温かさをはずさない画面づくり。細やかな配慮による演出。映画として、一つの人間ドラマとして、そして世界に自慢したくなる日本の家族という姿を映像表現の中に凝縮させた名作の誕生に出会いました。

1959年、父の危篤の知らせに東京から伊豆湯沢にやってくる主人公洪作。しかし無事を確かめた洪作が東京へ帰った直後に父は他界する。三女の琴子は16歳の反抗期で何かと父と諍いを起こすものの、決して憎んでいない。その微妙な表現を宮崎あおいが見事に演じきる。

母の八重はわずかづつながらボケが始まっているようで、時折妙な言動を発するが、それをまるで柳のごとく家族の誰もが受け流していく様子がとにかくほほえましいほどに暖かい。同じ事を繰り返しても、夜中に徘徊しても、家族が必死で母を守っているかのようようである。近頃はやりの老人痴呆映画のようにみるみる狂ったようになる演出はなく、ごく自然に年と共に衰えていく姿として丁寧に八重の姿をとらえるカメラが実に静かである。

物語は1960年、1963年と三年刻みで進んでいき、その時々の家族の物語、そして洪作と八重の親子の物語が八重の衰えを中心にして語られていくが、そこにはしっかりと家族の歴史が刻まれている。長女に子供が産まれ、次女がハワイ留学の夢を叶えていく。三女琴子も自分の道をしっかりと進む中、ひたすら八重の傍らで支える姿が本当に、これが家族なんだと胸に迫るのです。

父洪作は幼い日に曽祖父の妾の地蔵のばあちゃんと呼ばれる女性おぬいに預けられ、それ以降母八重とは疎遠になっていく。中学の時におぬいの死によってようやく八重の元にくるものの、自分を捨てたと信じる洪作は八重を素直に受け入れていない。映画は雨の中、中学時代の洪作のショット、向かいに妹たちと立つ母のショットで幕を開けるのが、つまりこの映画は八重と洪作の物語だと語りかけているのだろうか。

終盤、自分が中学時代に校庭で書いたものの紛失していた詩をを八重がおもむろに取り出して読むシーンにはもう涙が自然とあふれてきました。どこに隠していたのか。手放したものの常に心にとどめていた洪作への八重の想いが湧き上がる名シーンである。樹木希林の詩を読み上げるせりふのすばらいしこと。そして、ハワイへ行く次女の船のデッキで、なぜ八重が洪作を預けたのか、それは昔は船で家族が全員渡航ことは控えられ、万一船に事故が起こっても血が絶えることがないように家族の誰かを預けたことが妻から語られ、洪作が真実を知る。彼は捨てられたわけではなかったのです。そこで再び嗚咽が胸を締め付けてきました。

家族が去ってしまったのではないかと懐中電灯をもって、夜、徘徊する八重の行動をやめさせるため懐中電灯を隠したのですが、ふとしたときに八重が懐中電灯を手にし、夜の街をさまよい出る。やっとの思いで琴子が見つけて八重の行きたい海辺まで同行する。ハワイへ随行するのをやめた洪作が浜辺で待つところで八重と再会。八重を背負って海に入る。

それから数年後。八重もまもなく臨終が近づいている。東京の家にいる洪作。家族が集まってくる。電話。八重の死。母の思い、子の思いが最高潮に達した切ないエンディングであるが、最後までこの家族はばらばらにならなかった。あまりにも暖かすぎるストーリー展開に、ラストシーンの涙が止まらなかった。すばらしい映画でした。自慢できる名編でした。

僕等がいた 後篇」
前篇から一ヵ月後に後篇を公開するという形式のラブストーリー。昨年「君に届け」という秀作に出会って、この手のラブストーリーに注目していたし、前篇がそれなりにできていたので後篇が楽しみでした。まぁ、吉高由里子ファンなので万一でも満足だったのですが、結局それだけだったのかもしれない。

物語は前篇で高橋と矢野が別れてからの話になる。最初は毎日のように電話やメールが通じ合っていたが、いつの間にか疎遠になり五年。高校の同窓会に高橋がやってくるところからが本編である。そこで竹内から、三年前に矢野とであったと伝えられ、東京へ出てからの矢野の人生が語られていくのが前半部分。

結局、後篇にはいっても学生時代の矢野の様子がかなり長々と描かれるのがややしつこい気がした。そしてそこに現れる千見寺亜希子。二人が友人になる一方で矢野の母がリストラされ、矢野はバイトを始め苦学生となる。さらに母はガンになり余命いくばくもない状態へ。これでもかと不幸が重なる矢野に、山本が現れる。なんともしつこいほどにこれでもかと追い詰めていく展開はかなり安易かなと思えなくもない。

そして、時は同窓会。矢野に頼まれた竹内は高橋と親しくなり同棲を始める。やがて社会人となる二人の生活が描かれ、そこに千見寺も友人として絡んできて後半部分へと進む展開は、ちょっと早急すぎるような気がするのです。

どうも、この後篇はエピソードの羅列が続き、意味ありげなシーンが次々とダイジェストのように登場する。山本を追ってきた母が病に倒れるし、矢野は突然胸が苦しくなるというパニック障害になるし、矢野の母はガンが末期に入り自殺するし、矢野の母の姉が矢野を養子にしようとやってくるしと、ちょっとこれでもかとうエピソードの羅列は明らかに脚本の弱さである。原作があるので、それを詰め込もうとしたのだろうが、もっと整理して映画として見せるストーリーにしていくべきだった気がする。

結局、山本の母も死に、竹内が高橋にしたプロポーズも断られ、矢野と高橋はなぜか最後の思い出にと東京でデートをして別れる。すべては懐かしい思い出として、青春の一ページに矢野と高橋がいたという切ない物語だったのだなぁと感動しようとしたのだが、そのあともしつこいほどさらにエピソードが続く。

かつてのクラスメートの結婚式に招待され、高橋と竹内がやってくる。通った高校が壊されると聞いて懐かしい校舎にやってきて、ノスタルジーに浸る高橋。矢野と出会った屋上で一人たたずんでいると、なんと矢野が遅れてやってきて、ハッピーエンド。これまた、参ったエンディングである。結局、どういう風にもって行きたかったのかが途中で瞑想してしまい、それでもラストはハッピーエンドにすべきだろうと締めくくったという古き映画の無理やりエンディング。まぁ、これもいいかなと思う。

前篇のときも書きましたが、結局後篇でも高橋の家族は一切描かれていない。矢野の家庭や家族はしつこいほど描かれるが、いったい高橋の家庭はどうなの?竹内の家庭はどうなの?というままで終わる。意図的なものなのかもしれないが、どうも気になりだすと気になってしまう映画でした。

たわいのない作品であるし、駄作とも呼ぶほどでもないし、たまたまハシゴで見た「わが母の記」と好対照な家族のありようでもあるし、作品のレベルの違いでもあるのでよけいに鑑賞後、狐につままれたような気持ちになってしまいました。ま、普通の映画ですね。大好きな吉高由里子さんが見れたのでこれでいいかな。