昭和29年、アメリカがビキニ環礁沖でおこなった水爆実験の犠牲となったマグロ漁船第五福竜丸の事件。事件発生からわずか5年、まだ事件が現在進行形であった時期だと思う。そんなときに新藤兼人が撮った作品がこの「第五福竜丸」である。
実際、公開当時にみてこそその本当の値打ちが語れるものだとは思うが、それはかなわぬことであるので、できる限り当時の知識を駆使して感想を書いてみたいと思います。
昭和34年というと私が生まれた翌年、時は高度経済成長のまっただ中でこの数年後には東京オリンピックが開催され、やがて万国博覧会という成長の頂点に立とうとしていた時期である。身辺では公共工事が軒並み行われ、地元で農業を営んでいた父はよく日雇いのような土方仕事にもよく出かけていた。それほど当時のそういった仕事は実入りが良かったのである。
物語は焼津から第五福竜丸が出帆するところから始まる。ストレートなドキュメント風の映像が続き、やがてビキニ環礁沖遙か離れていたにも関わらず「西から太陽が昇った」と叫んだほどの閃光とともにキノコ雲を目撃し、死の灰を浴びるシーンまではそれほど時間はかからない。
物語の中心は彼らが何気なく焼津に戻ってくる。全身死の灰で真っ黒に焼けているのに当時の人々の脳天気な対応が描かれる。ところが、新聞記事に取り上げられ、いかに重要な出来事だったかが世間に行き渡る中、物語は一気に辛辣な社会ドラマの様相を帯びてくる。
全員が東京の病院に入院させられ治療が続く。一見、だれもかれも大したことがないように見える映像が続くのはある意味広島や長崎のように直接爆弾が投下されたものとは全く違う、静かな恐怖を描かん為であろう。
そして、無線長である久保山が闘病の果てに死を迎えて映画は終わる。
非常に平坦な映像に終始したのはまだまだ知識が不十分だった当時の観客に目に見えない放射線の恐怖をストレートに伝えたかったための演出であることが解説に書かれている。まさにその通りで、何の知識もなくみていたらただの人間ドラマにしか見えないのである。
しかしその根底にある核への恐怖。そして、唯一の被爆国にも関わらず忘却の中に埋もれつつある国民への警笛を静かなタッチでじっくりと伝えたかった新藤兼人監督の力強いメッセージが平坦な物語の中に描かれているのではないかと思う。
何度もいうが、この作品は公開当時にみてこそその値打ちがあるが、一方でいまこそ、こういう事件が日本の国民に起こった歴史があることもしっかりと記憶してほしいと思うのです。