くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「ベルヴィル・トーキョー」「愛の亡霊」

ベルヴィル・トーキョー

「ベルヴィル・トーキョー」
主人公のマリーの夫ジュリアンが列車に乗るところから映画が始まる。ところがその直前、ジュリアンが行き先のベネチア愛する人がいると告白。一人列車に乗ったマリーのショットでタイトルがかぶる。

マリーは妊娠している。ジュリアンは映画評論家、マリーは名画座で働いている。こうして物語が始まるが、夫婦の関係が途切れるのかと思えばジュリアンはマリーに「愛している」とつぶやき、それにマリーも答えるが、そのすぐ後に感情的な言葉を投げつけて、それに答えてジュリアンも罵倒して、ぎくしゃくする。その繰り返しが延々と続くのである。

画面が実に美しい。というか、シーンそれぞれの中の色の配分が美しいのである。フィックスで据え付けたカメラアングルが多いが、縦の柱を挿入していたり、オレンジの布や果物が画面の隅などに配置されていたり、中間色の効果的に画面作りに利用していく。その雰囲気がほのぼのさせるのであるが、物語はくっついては離れる夫婦のお話なのである。

題名は、ジュリアンが東京へ出張するといったのに、アジア人街のベルビルにいるところをマリーが見かけることに由来している。

時に、「死んでしまえ」とさえジュリアンはマリーに言うかと思えば、マリーのおなかをさすって、「蹴っているね」などと夫らしい言葉も発する。終始いらついているようなマリーの行動の一方で、ジュリアンにキスされればすがりついてしまう。

愛人の存在と妊娠という奇妙なバランスに乗せられた夫婦の揺れるような、危うい物語なのだろう。80分弱の作品で、結局どっちつかずに、一人雪景色の中を彼方へ歩いていくマリーの姿でエンディング。ちょっと、全体が唐突に展開しすぎて、困惑してしまうのですが、画面のほのぼのした色使いを楽しんで良しとする一本だった気がします。

ちなみに監督はエリール・ジラールという人です。


愛の亡霊
40年近く前に見た作品を、今回大島渚特集でもあるので再見しました。

さすがに絵作りの美しさは「愛のコリーダ」などと同様にすばらしい。特にファーストシーンの、車の車輪がくるくる回るショットから、古びた農家の土間のシーン、さらに煙るようなもやに浮かぶ村のシーンなどは絶品である。

ただ、ストーリーの構成が後半、ややくどくなっているように思える。
導入部からせきが豊次を迎え入れて、夫儀三郎を殺すあたりまでは実にスピーディで美しい。さらに、儀三郎の幽霊が出始めるあたりから、どんどん物語は動いていく展開は見事である。

このあたり、日本的な様式美が生み出す、伝奇的な不気味さが画面全体からわきあがってくるほどにすばらしい。ここがヨーロッパの映画人たちに受け入れられたのはわかる。

ところが、3年がすぎて、村人たちが儀三郎の不在に不審を抱きだしたあたりから、やや、展開がよどんでくる。ここに「儀式」などに見られたような、研ぎすまされ映像演出が施されたら、この後半は一気にその主張を私たちに投げかけてくるのだろうが、いかんせん、ちょっとテンポがゆるんでしまうのである。

さらに、巡査が二人に疑惑を持ち始めたという下りに至るや、もう少しハイテンポなたたみかけが必要ではないかと思えるのです。途中、せきの家が燃えあがるという見せ場も、さらにその後続く平坦な展開のためにスパイスの役目を果たさない。このあたりの弱さは原作にあるものかもしれないが、もう少し思い切った脚本で走るべきだったのではないかと思う。

本来の大島渚作品なら、この後半部に強烈なメッセージが吹きあがってくるのだが、それがこの映画にはないのである。もちろん、作品の出来映えは超一流の一級品ではあるけれども、すでに巨匠の名をほしいままにしていた大島渚の晩年の作品という見方をすれば、やや物足りない気がします。

やはり、私個人としては大島渚監督の最高傑作は「愛のコリーダ」でしょうか。