くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「共喰い」「アップサイドダウン 重力の恋人」

共喰い

「共喰い」
ちょっとした作品である。しかもかなり壮絶な物語なのだ。特筆すべきは仁子を演じた田中裕子の演技力の真骨頂が見られる、とにかく、彼女がすばらしい。いや、円役の光石研もその存在感がものすごい。

汚いどぶ川のような川を、ハイスピードカメラで時の流れを写しながら映画が始まる。
下関のそばの田舎の港、そこに入ってきたバスから一人の青年遠馬が降りてくる。そして、寂れた町の風景を練り歩きながら、背後にこれまでのいきさつがナレーションされる。

遠馬の父円は女狂いで、SEXの時に相手を殴る癖がある。そんな円に愛想を尽かし、遠馬を産んで、円のところを離れた仁子、左手は戦争の時に手首をなくし、魚料理をするための専門の義手をつけている。円は今は琴子という飲み屋の女と一緒に暮らし、遠馬も一緒に暮らしている。遠馬には千種という彼女がいて、神社の御輿小屋で頻繁にSEXを繰り返す。

時は昭和63年。監督は青山真治である。

暑苦しいほどにぎらぎらして脂ぎった絶倫男円の非道を中心に、自分も父親と同じ血が流れているのではないかと悩みながら,SEXに飢え、千種との情事を繰り返す。そして、ある日、思わず千種の首を絞めようとした遠馬は思わず手を引っ込める。その日から千種は遠馬から遠ざかるのだが、一方で祭りが迫る中で、悩む遠馬のところに、明後日、神社で会おうと千種が遠馬に告げる。

仁子のところと円のところを往復する遠馬。カメラは川の向こうや海の中から、クレーン撮影で大きくティルトやパンを繰り返す。琴子は妊娠したと告げ、円に黙ってこの家を去ると遠馬に語る。

祭りの日、朝、琴子が円の留守に家を出ていき、午後から雨で円が帰ってくる。そこで琴子が出ていったことを知った円が、狂ったように飛び出すのだが、雨の中子供たちが遠馬を呼びにくる。神社で遠馬を待っていた千種が、円に襲われたというのである。

まるで業のような重苦しい映像でどんどん引き込んでくる筆致が絶品の作品で、田中裕子や光石研のみでなく、遠馬を演じた菅田将暉や千種を演じた木下美咲もシリアスな存在感で淡々とストーリーを演じていく様はすばらしい。

遠馬が千種を助け、仁子のところにつれていく。円を殺すという遠馬に変わって仁子が円を殺しにいく。カメラはじっくりと仁子の後ろ姿をとらえる。このときの田中裕子の背中の演技のすばらしいこと。そして雨の中、円を包丁で刺そうとし、さらに自分の義手で刺して、円は港に沈む。それをじっと遠くで見る遠馬の視点もまた重苦しいほどにシリアスなのです。

夜明け、神社でたばこを吸う仁子のところに刑事がきてパトカーで。
遠馬が面会に行くと、仁子は「あの人の具合が悪いらしいから、恩赦までがんばりたいという」、あの人とは昭和天皇である。このあたりが荒井晴彦の脚本ですね。

時を経ず、戻ってきた遠馬は母の魚屋で魚をさばく千種と再会、さらにバーで働く琴子とも再会する。しかし、琴子SEXしようとするも、子供が動いたといわれてやめる。千種との情事で、両手を縛られて、千種に任せる遠馬の姿でエンディングである。

非常にシリアスな視点で、引き込むようなカメラワークとアングルで描いていく小さな漁村での母と子供、父、愛人、女の世界はかなりの歯ごたえでぐいぐいと迫ってくる。やや暗いものの、見事な一本だったと思います。


「アップサイドダウン 重力の恋人」
映画というより、アートの世界である。圧倒的なSFCGヴィジュアルの世界に酔いしれることができる。とにかく美しいのです。ただ、一方で、ストーリーテリングがかなり雑で、一つの物語としてエンディングへ向かっていかないために、二転三転しながらのぶつ切りのエピソードの羅列になってしまったのが残念。

映画は二重重力の惑星ができあがる様をバックにタイトル。そして、ベッキーという叔母と暮らすアダムの物語で始まる。二つの世界を行き来するピンク色のミツバチを使ったジャムのような食べ物を作るベッキー。ある日アダムは蜂を捕るために賢者の山へ行くが、いつもより深く上っていく。そこで飛行機を飛ばすと、それは反対側の山の頂へ。たまたまそこにいたエデンが拾い、二人が出会う。そして、そこでデートを繰り返すが、ある日警備隊にみつかり、アダムは捕まり、エデンは地面に落ちて気を失う。そして10年後、ここからが本編である。

貧困層の地上世界のアダムはある日、富裕層の世界のトランスワールド社につとめるエデンを見つける。彼女はあのときの事故で記憶を失っている。アダムはトランスワールド社に入社し、反物質を体に巻いて、富裕世界へ進入して彼女に会おうとする。と、ヴィジュアルの割には展開はかなりアナログである。

一方アダムは、かつてのピンクのミツバチのエキスを元にしたしわを伸ばすクリームの開発に携わる。確かに、このエピソードが物語に影響するが、その描写が余りに適当なために、重要なはずのキーポイントが浮かび上がってこない。アルゼンチンの巨匠フェルナンド・E・ソラナス監督の息子ファン・ソラナスというのが監督であるが、脚本が弱いのか、映像に酔いしれて、映画は物語であることをおざなりにしたのか、展開が実に適当なのである。

アダムはボブという年輩の同僚と親しくなり、彼の助けを得ていく後半部がストーリーの山場になっていくが、いかんせん、明確に盛り上がってこない。とにかくヴィジュアルアートが美しすぎるのである。メリハリのない映像というか、どれをとっても芸術的に見事なので、それに牽かれてしまうのだ。

クライマックスは、再び二人が引き裂かれ、落ち込んでいるアダムのところにボブが画期的な発明をして貧困世界へやってくる。そして、再びエデンと会ったアダムにエデンは「子供ができた」と告げる。その結果、体質が変わり、重力の影響をうまくかわせるようになったらしく、カメラがゆっくり引いていくと、それまで富裕層のビル群と貧困層の寂れた町並みが、両方ともビル群に変わっていてハッピーエンディングなのだ。

とにかく、何度も書くが、ヴィジュアルアートの世界であって、映画ではないのである。映像を楽しむだけの作品と割り切れば一級品の一本でしたが、ピュアなラブストーリーを見つけることはできませんでした。