「ジ、エクストリーム、スキヤキ」
演劇界では、ちょっと知られた前田司郎という人が、自ら脚本監督を務めた一本なのですが、いかんせん、映画として成り立っていないような気がしないでもない作品でした。
確かに、独特のユーモアに支えられた世界が展開している。一つ一つが、気の利いた台詞の掛け合いになっているし、心の中にさりげない笑いを生み出すことは確かである。しかし、前半部分の、妙に延々とした長回しと抑揚のない展開が、いかにも映像のおもしろさを無視しているように思えてならない。
映画は、洞口が車を降りて、ガードレールの崖下を見下ろす。トラックが通り過ぎると彼は崖の下に落ちている。画面が変わると、学生時代の友人大川のところに突然やってきた洞口のシーンへ。大川は、余命幾ばくもない不治の病を抱える楓という女性と同棲している。洞口は大川に、どこかへいこうと持ちかけ、友達を誘うため、これまた学生時代の友人京子のところへ。
そしてなぜか四人はドライブへ旅立つ。後は、車の中で繰り返される台詞と、降り立った場所での掛け合い。何気ないつっこみを繰り返していくという淡々とした展開である。
終盤になって、崖下に落ちた洞口が、時々うなりながら目を覚ますのと交互になってくるので、彼の死ぬ間際の幻影であろうかと思えてくる。
そして、四人は一晩、宿屋で語りあかし、翌日、すき焼きをしているシーンへ。崖下の洞口は、何とかはいあがって、車のところに戻り、写真を見つめて、そのまま暗転、エンディング。
はたして、楓が不治の病である意味は?洞口が大川のところに現れた意味は?どれもが、シュールな笑いの中に埋められてしまって、意図するものが見えなかった。凡作というには言い過ぎだと思うが、テンポに乗らないストーリー構成は、はたして、演出の弱さか、脚本の弱さか、とにかく長くてしんどいという印象の一本でした。
「愛の記念に」
モーリス・ピアラという監督の作品をはじめてみました。
主人公の16歳の少女シュザンヌが学校の演劇の練習をしている。そして一気に船の舳先にたつシュザンヌのシーンにジャンプしてタイトルが流れる。小気味よい導入部に引き込まれるのですが、全体の物語が、今一つ面白味を感じなかった。
シュザンヌには恋人のリュックがいるのだが、どこか疎遠になっている。そんなある日、港に立ち寄ったアメリカ人の水兵と一夜をともにしてしまう。
自由奔放に男友達と遊び回るシュザンヌ。夜遅く自宅に帰ると兄のロベールに叱責される。しかし、父ロジェは唯一彼女の気持ちを汲んでくれるのである。ところが、その父はある日、家を出ていってしまい、毎夜のように男友達と遊び歩くシュザンヌに、兄のロベールの叱責は度を超していく。さらに母親からの態度も、シュザンヌを家族から遠ざけていく。
この展開が、何とも受け入れがたく、いったいこの家族はどうなのかとさえ思えてくる。さらに、なぜこれほど奔放な毎日を送るのかとシュザンヌにも同感しづらいのである。
そんな気持ちで物語の展開を追いかけているので、ますますしんどくなる。
ロベールの成功のパーティには、ロベールの妻やその兄、兄の友人ミシェル、恋人のジャン=ピエールも出席。そんなとところへ、突然、父ロジェが帰ってきて、ただでもぎくしゃくしてきた家族にさらに確執が再燃する。
そんな様子の中で、シュザンヌは家を出て旅立つことを決意。そんな彼女を空港まで父が見送ってくれるのである。
物語は、見送った後の父の姿、飛行機の中でミシェルと一緒にサンディエゴに向かうシュザンヌのカットでエンディング。彼女の心の成長を描いたとされる解説であるが、この家族の殺伐とした姿はなにを言おうとしているのか。映像的には特筆するものはなく、けたたましいほどに騒がしい展開である。
男好きにしか見えないシュザンヌのキャラクターが、どうも受け入れられなかったことが正直なところで、この作品だけではモーリス・ピアラという監督の魅力は、理解できなかった。